• 検索結果がありません。

大戦終結後の難民保護

ドキュメント内 難民問題と安全保障 (ページ 48-51)

第 4 章 難民問題の政治化と難民保護

4.2 大戦終結後の難民保護

4.2.1

連合国救済復興本部(

UNRRA

)と国際難民機関(

IRO

國際聯盟の難民支援は、第

1

次世界大戦の欧州の戦後処理の一環であったが、

2

次世界大戦終結後の欧州は更に大規模な難民の問題に直面した。國際聯盟

121 “The United Nations”との名称はUNRRA以前に19421月に連合国26カ国がワシント DCにおいて発出した “Declaration by the United Nations”が初出であり、“United Nations”

の文言はいずれの場合も枢軸国に対する「連合国(Allies と同義に用いられている。ま

た、UNRRA1945年に創設された「国際連合(The United Nations」に名称を承継するの

みならず、組織構成並びに思想の基礎となったことも事実である。

122 本規約ではその前文において難民を“refugee”ではなく“exile”として同義に用いている。

123 Executive Order 9417, January 22, 1944.

124 脚註114参照。

125 例えば、ナチスの弾圧を逃れ米国へ移民しようとする900余名のユダヤ人を乗せたドイ ツ船籍ハンブルグ・アメリカ汽船セント・ルイス号(MS St. Louis, Hamburg-Amerikanische Packetfahrt-Aktien-Gesellschaft)は、直接入国を拒む米国政府の方針を受けて、1939 5 キューバ経由米国を目指したが、キューバ政府が査証を取り消したため、船長及び乗客は米 国政府に対して直接米国の港へ入港許可を請願した。しかし米国政府はこれを許可せず、ボ ートによる不法上陸を警戒して沿岸警備隊の船舶による監視を行ったため、やむなく船は 欧州へ戻った。間もなく第2次世界大戦が勃発しドイツ軍が欧州を席捲すると、これらのユ ダヤ人のうち英国へ上陸した者を除き多くが強制収容所で命を落とした。この時の米国政 府の対応は第3.2.4項に示すようにマクドナルドを派遣した米国政府の行動とは矛盾するが、

現実に米国のユダヤ難民受け入れ方針が明確になるのは、2次世界大戦参戦以後である。

9.1.1項参照。

43

に代わり新たに創設された国際連合(国連)にとって 126、当面最大の課題もま た第

1

次世界大戦の後と同様に欧州の戦後復興であり、中でも戦争によって発 生した多数の難民の保護は喫緊の対策を要する事項と考えられていた。しかし 現実問題として国連の体制はまだ整備中であり、難民保護の機能を有する国際 機関は前述の

UNRRA

のみであった。この当時は難民の概念はまだ明確ではな かったが、

UNRRA

は、ドイツ本国やオーストリアその他のドイツの旧勢力範囲 に残された東側諸国出身者の保護援助と、要すれば帰還支援を重要な業務とし ていた。

ところがソ連を中心とする東側は、帰還民にのみ

UNRRA

の援助を提供すべ きであると強く主張した。一方で米国を中心とする西側は、帰還は当事者の意思 によるものであり援助はいずれにしても享受できるとした 127。このように米国 は東欧諸国における

UNRRA

の復興事業は、ソ連による東側諸国への統制を強 める結果になるだけであるとして、ソ連の強硬な姿勢に異議を唱えた。事実、ソ 連圏へ帰還を望まぬ者は多く、これが創設されたばかりの国連の大きな政治的 案件となった。この議論は、東側と西側を分ける基本的なイデオロギーの問題に 発展したため、全予算の

7

割を負担していた米国はこれを嫌い、翌

1947

年以降 の財政負担を拒否し、これに代わる難民保護の機関の創設を主張した 128。その

ため

UNRRA

1947

年に解散したが、それまでに約

800

か所の再定住施設にお

いてのべ

700

万名を保護した129

かくして

UNRRA

の難民に関する業務を引き継ぐ形で、

1947

7

月国際連合

の専門機関(

Specialized Agency

130として「国際難民機関(

International Refugee

Organization, IRO

)」が発足し 131、第

2

次世界大戦終結後の国際的難民保護体制

の起点となった。特筆すべきは、脚註

117

に述べるようにそれまでは自明の概念 とされていた「難民」について、初めて定義を試みた点である 132。しかしなが

126 国際連合は194510月に成立したが、國際聯盟は翌19464月まで存続した。

127 UNHCR, The State of the World Refugees 2000, Oxford Press, 2000, p. 14, p. 16.

128 Ibid., p. 16.

129 Colin Bundy, “Migrants, refugees, history and precedents,” Forced Migration Review, issue 51, January 2016, p. 6.

130 IRO憲章(Constitution of the International Refugee Organization)3章(Article 3 - Relationship to the United Nations, Constitution of the International Refugee Organization)によれば、本機関は 専門機関の設立及び国連との関係に関する国連憲章第 57条及び第 63 条の規定に基づき設 立された旨が示されている。

131 IRO は、194612月の設立当初は有期国連専門機関として活動期限は3年間とされた

が、後に19506月までに期限が延長された。さらに1949年末から50年にかけて加盟国 間の調整により 1950 12 月の国連総会において難民保護専任の高等弁務官が任命される ことが内定したため、これに合わせる形でIROの活動期限は19519月末までに延長され た。難民高等弁務官事務所は195012月の国連総会で創設が採決され、翌195111 日付でIROの業務を引き継いだ。これに伴いIROは同年末に残務処理を終えて解消された。

132 1946 Constitution of the International Refugee Organization ANNEX I, PART I, Section A - Definition of Refugees.

44

らこの試みは、

“Definition of Refugees”

との項目を設け約

400

語を費やしつつも

“refugee”

の定義に

“refugee”

の語を用いるなど、難民概念がいまだに整理されて

いなかった事情を反映している。それでもなおかつ、これは後に

1951

年難民条 約に初めて明確に規定されることとなる難民の定義の原型となった。

UNRRA

IRO

はいずれも連合国の、かつ欧州中心の事情による取極めによ

って成立した機関であったが、欧州の視点で見る限り第

2

次世界大戦後の難民 の態様は、第

1

次世界大戦後の難民の態様と酷似していた。後述のように、前者 はソ連およびその衛星諸国、すなわち共産主義圏からの脱出者であり、後者の多 くはロシア革命の結果成立したソビエト連邦からの脱出者と追放者であり、い ずれもソ連圏から逃れようとする人々であったことは共通していた。他方で、政 治力の観点からこれを見れば、第

2

次世界大戦後のソ連は対枢軸国戦争の戦勝 国であり米英仏その他連合国の「戦友」であったことが、第

1

次世界大戦直後 の、国際的に孤立し貧しく混乱していたソ連との決定的な相違点であった。なお、

終戦直前のソ連の対日宣戦布告により、事実上の難民として避難途中にソ連軍 および暴徒の襲撃を受けた満洲の在留邦人の経験は筆舌に尽くしがたい悲惨な ものであったが、その事実は敗戦の混乱と戦後の無関心の中に永く埋もれてお り、同様の悲惨な事例は敗戦に際して東欧からドイツ本国へ避難するドイツ人 にも無数にあった。しかし、いずれにしても、これらは戦勝国側の関知するとこ ろではなかった。

4.2.2

パレスチナ問題と国際連合パレスチナ難民救済事業機関(

UNRWA

欧州の戦後復興が当時の連合国、すなわち国際連合の喫緊の優先事項であっ た一方、中東のパレスチナ地域においては、國際聯盟によってこの地域が英国の 委任統治領とされた

1920

年以来アラブとユダヤの対立が続いていた。この争い は

1948

5

月にイスラエルが建国されると直ちに国家間の第

1

次中東戦争に拡 大し、パレスチナ地域からの多くの難民を生むこととなった。このため国連は

1948

12

11

日総会決議第

194

号を採択し、その第

11

条においてパレスチナ 難民の保護とその問題解決について加盟各国の支持を求めており、難民保護の 専門機関である

IRO

の関与が討議されることとなった。

IRO

の予算は、米国と 英国

2

カ国が

51

パーセントを負担していたが133、大戦末期以降難民問題に強い 関心を抱くようになった米国と、伝統的に中東地域の政治に利害を有する英国 との間には意見の大きな隔たりがあった。

IRO

設立の当初は中東地域における 責任を予想していなかったが、米国は

IRO

が所掌を拡大してパレスチナ難民保 護の任に当たることが適切であると考え、

5

百万ドルの追加支出を表明した。一 方、英国の見解ではアラブ難民問題はむしろ災害救助の範疇に属し、第

2

次世

133 Ibid., ANNEX II.

45

界大戦とは無関係であるとの立場であり、

IRO

がパレスチナ問題に関与するこ とは

IRO

の業務自体に混乱を招くとの危惧から、

IRO

が予定された活動範囲と 期限を越えてそれ以上の責任を負うことに反対した134

米英及び関係諸国はこのような議論の末に、結論としては

IRO

の責任範囲を 拡大するよりも別の体制によって問題の解決を図ることが適当であるとの合意 に達し、翌

1949

12

8

日の国連総会決議第

302

IV

)号 により「国際連合 パレスチナ難民救済事業機関(

United Nations Relief and Works Agency for Palestine

Refugees in the Near East, UNRWA

)」が設立された。このように

UNRWA

は当初

より

IRO

の枠外にあってパレスチナ難民救済のみに職務及び権限が及ぶものと された。これは今日でも後述の

UNHCR

とは別の組織であり、第

3.2.4

項に述べ たかつての國際聯盟の下の両難民機関並立と同様の形態となり今日に至ってい る。

ドキュメント内 難民問題と安全保障 (ページ 48-51)