第 7 章 テロリズムと難民
7.3 チェチェン独立運動とチェチェン難民問題の背景
難民条約を批准しているカザフスタン政府は、在カザフスタン
UNHCR
事務所 が同条約に基づきチェチェン難民認定を実施してもこれを認めず、カザフスタ ンにチェチェン難民は存在しない、との立場を崩さない。以下において、これら 両者の見解の相違の背後にある人道と政治の軋轢を考察する。黒海とカスピ海の間に位置するコーカサス地方のチェチニアにあるチェチェ ン共和国はロシア連邦に属する人口
110
万ほどの自治共和国であり、西にほぼ 同一言語と文化と50
万弱の人口を有するイングーシ共和国がある268。伝統的 に海洋への出口を求めるロシアにとって、ペルシャ湾への経路上に位置してい るこれらの地域はその進出の障害となっており、またオスマン帝国への対抗上 黒海への進出経路にあるコーカサス地方を確保する必要があるため、18
世紀末 から19
世紀にかけて武力を背景とするロシアに併合された。ところがこれら地域の住民はロシア人とは言語や習慣を異にしており、宗教 的にもスンニー派回教徒であり、以前からのロシアとの軋轢は併合後一層増大 し、特にチェチェン人は今日なお激しい反ロシア感情を抱き続けている。
上記の歴史的背景を有するため、
1941
年6
月独ソ開戦によりソ連に侵攻したド イツ軍は、かくしてチェチニアの住民にとっては「解放軍」であった。これを天 与の奇貨とした一部のチェチェン人は、ドイツ軍と呼応してロシアとの歴史的 確執を解決しようとした269。ドイツ軍の前線は1942
年11
月にはチェチェン共和ギス、タジキスタンの5か国政府諸脳が出席する「上海五国会晤機制(Shanghai Five Congress
Meeting Mechanism)」が上海において開催され、「国境地域における軍事的信頼増進に関す
る条約(Treaty on Deepening Military Trust in Border Regions)」が締結された。Shanghai Five の会合は翌年モスクワにおいて再び開催され、更に「国境地域における軍事力の相互削減に 関する合意(Agreement on Mutual Reduction of Military Forces in Border Regions)」が締結され た。これら5か国は翌1998年にアルマアタ(アルマティ)、1999年にビシュケク、2000年 にドゥシャンベにおいて会合を重ねたが、2001年6月15日、上記2件の規約を基礎に上海 において、同規制 5か国にウズベキスタンを加えた 6 か国を原加盟国とする多国間協力組 織である「上海協力機構」が設立され、本部は北京市朝陽区日壇路に置くこととされた。2017 年にはインドとパキスタンが加盟して、加盟国は8か国となった。2018年11月現在、更に 10か国3機関がオブザーバーその他の資格で参加している。
268 両国は 19 世紀初頭のロシアによる併合の歴史的背景によって分割されてはいるが、相 互意識は極めて近く、共に「ヴァイナフ(Vainakh)」と自称し、ロシア国外においては、例 えばカザフスタンにおいては、等しく「チェチェン人」と見なされている。
269 チェチェン人組織は侵攻するドイツ軍に接触し、チェチェン独立を条件に支援を申し出 たが、バクー油田を目指すドイツには、その経路上に独立国を作るという計画はなかった。
パトリック・ブリュノー、ヴィアチェスラフ・アヴュツキー、萩谷良訳『チェチェン』白水
91
国の首都グロズヌイの近郊に達したが、翌
1943
年2
月、スターリングラード攻防 戦に敗れたドイツはコーカサス地方における影響力を失った。この結果、スター リン政府は独ソ開戦以来チェチェン人がドイツ軍と内通した懲罰であるとして、1944
年2
月23
日の赤軍記念日に、当時のチェチェン人及びイングーシ人全人口約50
万の全部をカザフスタンに即時強制移住させた。この過程で飢えと寒さによ り人口の3
分の1
を失ったと言われる。1957
年に至り、いわゆる「非スターリン化(De-Stalinization
)」を進めるフルシ チョフ首相によってこの追放は解かれ帰還が許可されたが、多数がチェチニア へ戻るなかで、一部はチェチェン系カザフ人として多くの民族が共存するカザ フスタンに残った270。その
30
余年後、1989
年12
月の冷戦終結に続く一連の「東欧革命」に際して、こ れこそ千載一遇の好機と考えたチェチェン人は、翌1991
年11
月、ソ連邦からの独 立を宣言した271。ソ連政府はこれに対処する余裕のないまま、翌12
月ソ連邦自体 が解体し混乱の時期が続いた。しかし、ソ連邦の中核を承継するロシア連邦は1994
年12
月に至ってやや落ち着きを取り戻し、チェチェン共和国の独立は憲法 違反であるとして272、チェチニアにロシア正規軍を投入し独立の動きを阻止し た。2
年に及ぶ激しい戦闘の末、1996
年8
月にロシア側とチェチェン側に玉虫色の 停戦合意が成立したが、結局は利害調整が難航した。加えて、次の第7.3.1
項の表 に示すように、モスクワを含むロシアの大都市で民間人に対するテロが相次ぎ、これらはチェチェン過激派の行為であるとされたため、新任のプーチン大統領 は多くのロシア市民の支持を受け、
1999
年9
月、チェチニアにおいて「テロリスト 掃討」の軍事作戦を再開した。このため激しい戦火を避け第三国へ避難するチェ チェン人の相当数がカザフスタンに旧縁を頼った。これが今日のカザフスタン におけるチェチェン難民問題の始まりであった。社、2005年、20-21頁。しかしコーカサスにおいて、少なくとも敵性を有しない勢力の存在
は作戦上ドイツ軍に裨益するものであった。
270 近年では 131 民族が共存するとされている。IBP Inc, Kazakhstan Country Study Guide, Volume 1 Strategic Information and Developments, International Business Publications, Inc., 2012, p.
10. 271 1991年6月に独立を宣言した「チェチェン共和国」は、結局国際社会の承認を得ること
ができず、後にタリバン政権の「アフガニスタンイスラム共和国」との相互国家承認を交わ したのみであった。なお、タリバンの「アフガニスタンイスラム共和国」はサウジアラビア、
アラブ首長国連邦(UAE)、パキスタン、チェチェン共和国から承認されていた。脚註 192 参照。
272 1977年のソビエト社会主義共和国連邦憲法第3章第7条第82項は「連邦各共和国はソ
ビエト社会主義共和国連邦から自由に脱退する権利を留保するものとする。」と規定してい たが、チェチェンの独立宣言に対するソ連の主張は、チェチェン共和国はロシア連邦国内の 一自治区であるからソ連憲法の定める「連邦各共和国」に関する当該条項は適用されず、か つロシア連邦憲法には自治区の離脱手続きを定める条項は存在しない、というものであっ た。
92
7.3.1
チェチェン独立要求と対ロシアテロ活動この過程において、独立を求める一部のチェチェン勢力はロシア国内におい て大規模かつ無差別のテロ活動を実施したため、ロシア市民の犠牲者数は膨大 な数に達した。一般市民にとっては、独立を求めるチェチェン人の主義主張が何 であれ、要求を通すためには手段を択ばない大規模テロ行為は、恐るべきもので あり、ロシア政府にとってこの事態は国家の安全を脅かす重大案件であった。以 下の表はこれらチェチェン過激派によるテロ行為である。ロシア人を直接標的 とした事案に加え、ロシア国内のコーカサス地区においては、親ロシア勢力と見 なされる行政側に対する破壊活動もしばしば行われ、以下の表以外にも大きな 被害があった。これらのチェチェン過激派は国外勢力との関係を有し、指導者は アフガニスタンにおいて訓練を受けた者も多かった273。
ロシアにおけるテロ事案 死傷者数単位: 人
年 月 態様 人的被害
1995
6 ノブジョンノフスク市病院爆破 死者患者100
以上1996
1 キーズリヤール市病院で職員患者3000
名が人質、軍と交戦
死者患者を含む
80
3 ウラジカフカス市内市場爆破 死者
53
、負傷100
8 モスクワ中心部ショッピングモール爆破 死者1
、負傷40
9 駐ダゲスタンロシア軍家族宿舎へ自動車爆弾 死者64
、負傷130
(いずれも軍人および 家族)
9 モスクワ市内アパート爆破 死者
94
、負傷164
9 モスクワ市内アパート爆破 死者119
9 ロシア南部ヴォルゴドンスク市アパート爆破 死者
17
、負傷72
2001
3 スタブローポリ地方の3
地点で同時自動車爆弾
死者
28
、重軽傷150
以上11
ウラジカフカス市内市場爆破 死者5
、負傷60
2002
5 カスピースク市対独戦勝記念祝賀会会場爆破 死者43
10
モスクワ市内ドゥブロヴカ劇場にテロ集団突 死者(大部分が若者273 アフガニスタンにおける 1989 年の対ソ「聖戦」終結後アフガニスタンを離れていたア ル・カーイダの首領ウサマ・ビン・ラーデンは、1996 年5月再びアフガニスタンに戻り東 部のジャララバードに滞在した。翌1997年にタリバンの本拠地カンダハールに移動したが、
そこにはすでにチェチェン人を含む外国人がいた。アーメッド・ラシード『タリバン』坂井 定雄・伊藤力司訳、講談社、2000年、244-245頁、251頁。