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ユーゴスラビア連邦の解体

ドキュメント内 難民問題と安全保障 (ページ 116-119)

第 8 章 コソヴォ紛争に見る安全保障と難民問題の交錯

8.1 ユーゴスラビア連邦の解体

バルカン半島は310

19

世紀にオスマン帝国が衰退した後、半島を取り巻く列

308 2019527日のセルビア議会で、セルビア大統領ヴチッチ氏は「我々は敗れ、領土

を失ったことを認めなければならない」と演説して、初めてコソヴォ分離の可能性に言及し た。Ivana Sekularac, Aleksandar Vasovic, “Accept reality, Serbia does not control Kosovo: Vucic,”

World News, Reuters, May 28, 2019. https://www.reuters.com/article/us-serbia-kosovo/accept-reality-serbia-does-not-control-kosovo-vucic-idUSKCN1SX1U2. 2019916日最終閲覧。

309 2013年のコソヴォ人口は180.5万人であり、内訳はアルバニア人92%,セルビア人5%,

その他3%であった。『コソボ共和国(Republic of Kosovo)基礎データ』外務省、平成30

2018年)124日。

310「バルカン半島(Balkan peninsula, Balkanhalbinsel」との地域名称はドイツの地理学者ヨ ハン・アウグスト・ツォイネ(Johan August Zeune)によって1808年に初めて用いられ、そ れ以前は“European Turkey”と呼ばれていた。Olga M. Tomic, Balkan Sprachbund Morpho-Syntactic Features, Springer Science & Business Media, 2006, p. 35. しかし、フランスの地理学 者アミ・ブエ(Ami Boué)がこの地方を訪れた際に、スターラ山脈(Stara planina)をトル

コ名で “Balkan”と呼んだ先例があり、ツォイネはブエの用例を誤用して山脈のみならず半

島全体に適用した、とする説もある。Bogdan Sekulic, To Remove the Anathema of the Balkans,

111

強の利害が複雑に交錯していたが311、事実

1914

6

28

日サライェヴォの街 角の銃声はその後

4

年余にわたる大戦の始まりを告げる暗い合図となった 312。 第

1

次世界大戦の終結後はオスマン帝国やハプスブルグ帝国が解体され、バル カン半島の国境線は大きく変更されていくつかの新国家が生まれたが、この小 康期を過ぎると利害の対立からバルカン半島は再び不安定となった。

2

次世界大戦に際してはバルカン半島のほとんどが枢軸国の占領下にあっ たが、後にユーゴスラビアとなる地域においては、チトー(

Josip Broz Tito, 1892-1980

)の指導の下でパルチザン闘争が続いた313

1945

6

月のドイツ降伏はこ の地域においてはチトーを指導者とする反独闘争の勝利とされ、チトーは

1945

11

月に成立したユーゴスラビア連邦人民共和国の中核としての権威を確立し た。

ユーゴスラビアは、ソ連軍の援助を受けずに対独戦争に勝利したとの自負か ら、大戦終結後も東側陣営に加わることなく独自の社会主義路線を歩んだ。「七 つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシ ャ、アルバニア)、六つの共和国(スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニ ア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、マケドニア)、五つの民族(スロヴェニ ア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)、四つの言 語(スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)、三つの宗教

(ギリシア正教、カトリック教、イスラム教)、二つの文字(ラテン文字、キリ ル文字)、一つの国家(ユーゴスラビア)」とのスローガンの下で、ユーゴスラビ アは「自主管理社会主義経済(

Self-Managing Market Socialism

)」と呼ばれる独自 の経済システムを導入し 314、東側と西側の双方に市場を有して経済も拡大し、

Politicka Misao, Vol. XXXVI, Institute Ru|er Boskovic, 1999, p. 80.

311 バルカン半島自体が必ずしも欧州列強の利害の目的ではなかったが、バルカンにおける 小競り合いがより大きな戦争を誘発する可能性があった。ビスマルクはこれを直感し、バル カン半島がヨーロッパを覆う戦火の発火点となり得る可能性を指摘し次の様に述べたと言 われる。“Eines Tages wird der große europäische Krieg wegen irgendeiner Dummheit auf dem Balkan

ausbrechen.” (バルカンにおける何者かの愚行ゆえに、ある日、欧州大戦が突発するだろう。

このような懸念は当時の列強間に存在したが、1912年には「欧州の火薬庫(Gunpowder Keg of Europe」との呼称が現れた。Hamilton Gardner, The Improvement Era, Volume 16, Young Men's Mutual Improvement Association, 1912, p. 242.

312 オーストリア=ハンガリー帝国皇嗣夫妻は、当時同帝国領であったボスニアにおける軍 事演習視察のためサラエボを訪れていたが、無蓋車両で市内を移動中セルビア人青年の拳 銃狙撃により暗殺された。この事件を理由として同帝国はセルビア王国に宣戦したが、それ ぞれの同盟諸国も続いて相互に宣戦したため第1次世界大戦に拡大した。

313 チトーの本名はヨシップ・ブロズ(Josip Broz)であったが、地下活動中の偽名「チトー」

を後に公式に用いたため、ヨシップ・ブロズ・チトーとして知られた。

314「自主管理社会主義経済(socialism of self-management」とは、中国やベトナムの社会主 義市場経済に似た体制であり、職場や地域が単位となって自らの代表を決め、企業や自治体 の運営を行っていくとする考え方である。したがって、おのずから競争原理が作用して経済 が成長したと考えられ、日本でも注目された。しかしチトーの率いる「共産主義者同盟

League of Communists of Yugoslavia)」の下においてこそ可能であったこの経済体制も、

112

1970

年代には相当の生活水準に達していた315

しかしながら、健全な統一を宣伝する上記のスローガンを掲げつつも、現実に は

6

共和国の固有の条件が大きく異なる中で各共和国や州ごとに一種の自由競 争が行われた結果、共和国や州ごとに見れば経済力に大きなばらつきがあった。

6

共和国の中でも連邦内最北部のスロヴェニア共和国は、人種的にはスラブ系で あるが

15

世紀にハプスブルグ家の領地となって以来意識的にも文化的にも西欧 に同化していた。このため、早くから西欧諸国との経済関係を通じ連邦内では最 も豊かであった。しかしながら、その富がセルビア人の中央政府を通じて連邦内 の他の共和国へ移転されるとして不満を有していた。一方、セルビア共和国コソ ヴォ自治州の人口の

9

割は隣国アルバニアからの移住者であるとされていたが、

隣接する諸国の経済不振の影響を受けて経済発展が遅れ、かつ政治的には人種 言語を異にするセルビア人の統制に服することに不満を抱いていた。

このような背景の下で、

1979

年の所謂第

2

次石油ショックに起因する

1980

年 代初頭の世界的な債務危機はユーゴ経済を直撃し、その不満はベオグラードの 連邦政府に向けられるようになった。チトーは連邦国家における民族主義的感 情の危険性を知悉しており、民族主義の台頭を極力抑制していたが 316、チトー の権威の下ですら暗にくすぶっていた様々の矛盾は

1980

年のチトーの死去以降 徐々に表面化した。

これらの不満は冷戦の終結後まもなく一挙に噴き出し、スロヴェニアとクロ アチアによる

1991

6

月の独立宣言を契機に、経済的格差に対する不満に加 え民族的要因が重なり「ユーゴ紛争」と呼ばれる一連の内戦に突入した。この 紛争は、相互に関連する次の

5

件の紛争に分けることができる317

すなわち、

1991

年の「スロヴェニア独立戦争」、

1991

年から

1998

年にかけて の「クロアチア紛争」、

1992

年から

1995

年にかけて最も多数の犠牲者を出した

「ボスニア紛争」、

1998

年から

1999

6

月まで軍事衝突が続いた「コソヴォ紛 争」、

2001

年のマケドニアにおけるマケドニア人とアルバニア人の武力衝突「マ ケドニア紛争」である。また、ユーゴ内戦を

3

区分として、

1991

年のスロヴェ

1980年のチトー没後は急速に内部対立が表面化した。町田幸彦『コソボ紛争 冷戦後の国際 秩序の危機』岩波書店、1999年、15-17頁。

315 1970年の鉱工業生産指数を100として、1969年には92であったが1978年には181 倍増した。生産及び民生の基礎となる発電量は 1968 年に 234 億キロワットであったが、

1978年には513億キロワットに達した。また、輸出額は1968年に1796百万米ドル であったが1977 年には5256百万米ドルに達した。一方、同時期の輸入はそれぞれ 1796百万米ドル、9633百万米ドルであり、大幅な赤字を計上していたが、こ れらは貿易外収支及び国外出稼ぎ者からの送金で補填した。OECD Economic Surveys:

Yugoslavia 1979, OECD, 1979, p. 57, pp. 61-63.

316 例えば、セルビア人は連邦全体の人口の4割を占めていたが、チトー時代はセルビアの 民謡を歌うことは禁じられていた。町田、前掲(脚註316参照)23頁。

317 山崎信一「ユーゴスラヴィア紛争と暴力」『バルカンを知るための66章』第2版、明石 書店、2016年、90-92頁。

113

ニア独立に伴う「

10

日間戦争」、

1991

9

月から

1995

8

月の「クロアチア内 戦」、

1992

3

月から

1995

11

月の「デイトン合意(

Dayton Agreement

)」318 に至るまでの「ボスニア内戦」として焦点を絞る説もある 319。いずれの区分に おいても、特にボスニア・ヘルツェゴヴィナとクロアチアの戦火は住民レベルで の激しい憎悪の応酬となり、陰惨な戦闘が繰り返された。

かくして、ユーゴスラビアは解体に至り、

1991

6

月の紛争勃発から

1995

11

月の上記のデイトンにおける和平合意までの間、

230

万人が戦火を避けて 他国や他地域に脱出する事態となった320。この和平合意で辛うじて小康状態を 保っていたバルカン半島であったが、

1999

年に発生したコソヴォ難民問題は、

新たな紛争の始まりであった。

8.2

コソヴォ紛争とコソヴォ難民

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