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難民問題と日本

ドキュメント内 難民問題と安全保障 (ページ 137-142)

第 9 章 結論

9.2 難民問題と日本

これまで議論して来た難民問題と安全保障の相関は、すべて国外の問題を扱 ったものである。それでは、日本においては、この問題はどのように評価すべ きであろうか。本研究の目的は、縷々述べているように、安全保障と難民問題 の相関を分析するものであって、難民問題の「解決」に向けた計画案を示すも のではなく、ましてや日本社会あるいは日本政府に対して難民問題に関する提 言を意図するものではない。しかしながら、議論の机上化を避けるためにも、

以下において本研究の文脈における日本の事情を整理しておく必要があると考 える。

日本では国外における安全保障の破綻に起因する難民問題に対処することは あっても、国内における難民の問題が社会治安上の懸念を惹起することはなく、

ましてや安全保障上の問題となることは全くなかった。

1982

年に至り、「

1951

年 の難民条約」と「

1967

年の難民議定書」の双方への加盟を受けて難民保護に関 する国内法が整備されたが、日本はその地理的条件ゆえに難民問題に関わる経 験が少なく、難民問題を正確にとらえる議論は必ずしも十分とは言えないまま 今日に至っている。難民問題はいずれの国においても深刻な懸案である事実か らすれば、日本がこれまで難民問題に関わる経験が少なかったことは、誤解を恐 れずに言うならば、ある意味で一種の幸運であった。しかしその反面、無関心あ るいは不正確な認識により、難民問題への対応が過度の感情移入により理想を 追い、あるいはその反動として排斥に走る可能性もあり、いずれにしても不適切 となる危惧がある。

以下において、日本がこれまでどのような時代的背景の下でどのような態様 の難民問題に向かい合って来たのか、日本における難民保護の歴史を概観する。

9.2.1

古代朝鮮半島からの避難386

本項の議論は本論文がこれまで扱ってきた近現代の事案からは離れるが、歴 史的事実として、

7

世紀の日本における事例に触れておこう。

7

世紀の朝鮮半島においては

4

世紀以来、百済、新羅の

3

国が対立していた が、拮抗する国力による手詰まりは、

7

世紀中期に至り最終段階を迎えた。この 状況を外部との同盟によって打開しようとした新羅は、唐の支援を得て

660

年 に百済を攻撃し、首都扶余を陥落させた。この段階で、相当数の百済人が倭(以

386 以下の議論においては、百済及び高句麗の滅亡という特殊な状況における避難者を「遺 民」と称する。

132

下、日本)へ避難して亡命政権を樹立するとともに、失地奪回を企図し、同盟国 である日本に派兵を求めた。日本にとって百済は大陸の先進文物輸入の拠点で あり、従来から特に緊密な関係を有しており、朝廷は百済の要請を容れ半島への 派兵を決定した。

日本と百済遺臣の連合軍は百済各地に散在する百済残存勢力と呼応して百済 再興を計画し、現在の韓国西部の錦江河口付近に増援兵力の揚陸を企図したが、

663

10

月、現在の群山市沖合付近で、新羅の同盟国である唐が派遣した水軍 に敗れ、派遣軍は半島から撤収するとともに残存の百済人の一部は日本へ避難 した。

以上は、日本書紀と旧唐書に見える記事である 387。かくして同盟国百済の安 全保障は完全に破綻し、領域内で侵攻軍に降伏するもの以外は敵国新羅を含む 各地に分散し 388、百済は滅亡した。この際に百済から日本へ避難した多数の遺 民の正確な数については不明である。しかし、避難者数推定の基礎となる人口に ついては、中国及び韓国の史料に当時の百済の国家規模を

5

地方

37

200

城市

76

万戸とする記述があり 389

1

戸当たり

5

人として人口は

350

万前後となる。

だが、百濟

1

国で

350

万とすれば、高句麗、新羅の

3

国を合わせれば数百万か ら

1000

万以上に達するであろうが、実際に朝鮮半島の人口が

1000

万を超えた のは

14

世紀末である390。よって、その

76

万戸は高句麗、新羅、百済の総戸数 と解するのが合理的であり、百済1国では

10

数万戸、人口は

100

万弱とするの が妥当である 391。そのうち敗戦の混乱の中で、限られた船舶に優先的に収容さ れ後方の同盟国へ避難できたのは限られた階級の人々であったと推定される。

387 武田祐吉編『訓読 日本書紀』臨川書店、昭和63年、576頁。および『舊唐書巻一百九 十九上 列傳第一百九十九上 東夷』945年成立)、中華書局、北京、1975。金子常規『兵 器と戦術の日本史』原書房、1982年、17-18頁。

388 上掲『舊唐書』に、「其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。」とあり、沿海州 方面まで百済人が離散したとの記事がある。百済と高句麗は戦った時期もあったが、当時の 高句麗は唐から圧迫を受けていたため、安全保障上背後の百済に対しては好意的中立を保 っていた。

389 上掲『舊唐書』は「其國舊分爲五部、統郡三十七、城二百、戸七十六萬。」としているが、

高麗王朝時代の1280年頃に書かれた『三國遺事 紀異第一』には「百濟全盛之時 、十五萬 三千戸」と記載しつつ、同書『紀異第二』は「百濟國舊有五部。分統三十七部、二百濟城、

七十六萬戸。」としており、矛盾がある。『三國遺事 紀異第一』には「百濟全盛之時 、十 五萬三千戸」と記載しつつ、同書『紀異第二』は「百済國舊有五部。分統三十七部、二百濟 城、七十六萬戸。」としており、やはり矛盾がある。『三國遺事』は現実の歴史から約600 後に成立しているため、伝承と他の記録の参照などの間に矛盾が生じることもある。脚註

391参照。

390 金哲『韓国の人口と経済』岩波書店、1965年、7頁。

391 635年頃成立した『梁書』は「巻七十九 列伝第六十九 夷貊下 百濟」において「十餘萬

戸」としており、659 年に成立した『南史』もやはり「巻七十九 列伝第六十九 夷貊下 濟」において「十餘萬戸」としている。『南史』が『梁書』の記事を引用したことは明白で あるとしても、引用の際に、当時の感覚として「十餘萬戸」は妥当と考えられたものと推定 される。

133

また、中立を貫いた高句麗は百済滅亡後に新羅と唐の挟撃を受け 392

668

年 に滅亡した。百済を通じて当時の日本とも友好関係を有していた高句麗からも、

この時に相当数の遺民が日本へ避難したものと考えられる393

この他に、考古学的手法によってこれらの遺民事象を推定することもできる。

例えば上記の百済は

475

年に高句麗の攻撃を受け、当時の王都漢城が陥落し、

国内は大いに混乱した。百済自体は漢城の南約

130

キロにある熊津へ遷都の後 に体制を立て直したが、九州北部と畿内において

5

世紀後葉のこの一時期に限 って「百済典型器種」と呼称される土器が出土している事実があり、記録こそ残 されていないが、上述のように対高句麗戦の際の首都漢城陥落に際して発生し

た多数の遺民が日本各地へも避難したと推定される痕跡が残されている394。 それでは、実際の遺民数はどうであったのか。

475

年の漢城陥落に際しての遺

民数を推定させる史料は残されていないが、

663

年の百済滅亡の翌年の記録、す なわち『日本書紀』の天智天皇第三(西暦

664

)年」の条に、百済貴族の居住地 についての記載があり、「同四年」には百済人

400

余名の近江の国神前郡への移 住、「同五年」には東国へ

2000

余人が移住、「同八年」には

700

余人が近江の国 蒲生郡へ移住した旨が記録されている 395。これらの事実は当時の国家的事業で あった書紀編纂の記事に採用されるほど重要な意味を有していたものであるが、

他にも『書紀』に記載のない大小規模の移住及び定住事例もあったと推定される。

660

年の首都扶余の陥落と

663

年の白村江における敗北に引き続く百済滅亡 の後に、多くの百済遺民が日本へ避難したこと自体は史実であり、

668

年の高句 麗滅亡に際して相当数が日本へ避難したことも確実である。しかし、その人口移 動の詳細が記録されていたはずの、

670

年に実施された当時の国勢調査記録であ る『庚午年籍』は、他の史料に名称のみ残っているだけで現存していない。した がって具体的な数値を裏付ける資料が乏しいことから推測の域を出ないが、上 記の日本書紀における記録及び関係史料によれば、地方政権による遺民分担受 け入れも相当数あったことを窺わせる。

9.2.2 20

世紀以降の日本の「難民経験」

日本はその後も海外から多くの難民を受け入れるという経験を持たぬまま千

392 脚註388参照。

393『續日本紀』巻之七の靈亀二年五月辛卯の条には、東国各地所在の高麗人1799人を武蔵 に移住させ「髙麗郡」を置いたとの記述がある。『國史大系』經濟雜誌社、明治 301897

年、98-99頁。これら高麗人は668年の高句麗滅亡の際の高句麗遺民及びその子孫と推定さ

れる。

394 白井克也「土器から見た地域間交流」『検証 古代日本と百済』大巧社、2003年、132-133 頁。また、「百済典型器種」とは、今日ソウル(漢城)、公州(熊津)、扶余など、旧百濟の 首都で王陵や王城から出土する器種の総称であり、北部九州と畿内に出土する 5 世紀末の 土器はまぎれもなく百済土器であるとされる。(白井、121頁。)

395 黒板勝美編『訓読 日本書紀』岩波書店、1928年、576-586頁。

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