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第三章  Mathematics for Allの思想に

第三節  MathematicsforAllの思想に基づくカリキュラム・アプロ ーチ

3甘1文化的側面から考察する必要性 学校数学と民族数学の対立

前節で見てきた5つのカリキュラム・アプローチと対比して, Pompeu(1992)は文化的 側面に配慮したものとして、文化的アプローチを提唱している。そこでは「子どもの文化 環境」に焦点があるとしている。前節でのアプローチは大きく分ければ,三番目までは教 科が重視されており、それ以降では子どもに焦点がある。同じ子どもに焦点を置く中でも, 形成的アプローチや統合教授アプローチが、興味・関心など子どもの内的な要素に力点が

あるのに対して,文化的アプローチの主張は、子どもの文化環境という観点からの取り組 みを強調しているo具体的な事例は、 Pompeuのものを含めて後述するo

学校教育の歴史を振り返るとき、現在各国で行われる数学教育カリキュラムは西洋近代 における少数のエリート層のために作られたものを基にしている。そのことはICMEにお

けるMathematics for Allの議論で見てきたように、それは地域によってやや異なる次の ような問題を孝んでいる。すなわち西洋諸国においては、 「エリート以外の人たちが数学を 有意義に学ぶにはどうすればよいのか」,他方西洋以外の国、特に開発途上国では, 「多く の人々が有意義に学ぶにはどうすればよいのか」である。そして、特に後者の問題を考え ていくうえで、学校で数学が十分に学習されていないにもかかわらず、生活場面では数学 的な活動一民族数学‑が存在している、という状況が指摘されている。この両者がどのよ うに異なり、また類似しているのかについては後ほど考察するが,この状況を「学校数学 と民族数学の対立」と呼び,その対立解消のアプローチを考えていきたいo

ここで考察する文化的アプローチは、子どもの文化環境、特に今の場合は民族数学に配 慮することで、その対立解消に向けた取り組みである。ここで「解消」という表現を用い たが,学校で扱う西洋数学を,単純に無視することで問題を解決できることを示唆するの ではない。文脈を豊かに含み持つ民族数学も西洋数学と同様「数学」という語を含むから には、両者に共通する部分があるわけで,民族数学の持つ文脈と同時にこのような共通の 数学的性質を利用しなければならない。

そこで第一に、 30年以上も前に実施された研究であるが、米国平和部隊の経験から論じ るGay&Cole(1967)より問題点を引用したいoそれは国際教育協力の実践の中から出てき た問題であること,また現在にも十分に通ずる内容を含んでおり,民族数学が取り組む基 本的な問題を提起していることという理由による。

・現地の文化に見られる物を子どもが創造的に使うように導くことが必要である。

・子ども自身が、目を見開いて新しい文化‑と橋を渡ることは非常に意味がある。過去 にあった「彼ら(伝統文化における権威の象徴である長老)が言った」の代わりに、 「分 かった」ということを学ばなければならないのである。

・子どもが自分自身を理解し、理解することを通して部族から与えられる伝統的、権威 的理由付けから決別することが出来るように、教師は地元文化を学び、その内容を用い なければならない。

・もしこの子どもが自らの遺産を創造的で、開放的な精神を持って理解するならば,過 去と繋がりを有する未来を形成することが出来る。

・伝統文化からの橋渡しを用いずに、測定の概念を導入することは出来るであろうが、

私たちの経験では、子どもたちはそのように教えられた測定の体系を理解できないし、

正確に用いることができないだろう。

ここに挙げたのは断片的な描写であるが,開発途上国における数学教育を考えるうえで、

学校で学ぶ数学と伝統文化の中に見られる数学的活動、伝統の継承と創造、学習の認知的 側面と情意的側面などの対立もしくは繊細な関係について私たちの問題に対する想像力を 十分に掻きたてる。

数学教育の文化的側面の問題点

さて、この他にも多くの研究がなされており、全般的に見渡しながら,数学教育の文化 的側面についての問題の性格と幅を整理していきたい.第一章では数学教育の社会的側面

と認知的側面からの必要性を論じた。

この前者(社会的側面)に関しては,前節で取り上げた数学教育と社会の関係性の中で、

「伝統社会と開発」や「伝統社会と近代教育」などという問題などが取り上げられた。こ れらの問題の基底に潜む,開発についての一般的な解答を求めることは,本研究の範囲を 越えている。また後者の認知的側面に関しては、認知的な負荷や文化的対立、不一致を取

り上げた。これらの関係については改めて考察するとして,ここでは認知的負荷に関係す る例を幾つか挙げたい。

文化的禁忌(Gay&Cole, 1967)

文化の中に禁忌または特別な意味がある。

人、家畜の数を数えないo 言語的な問題

文化の中にそのような考え方(表現)がないo

英語では何番目と聞くことができない、 0の表現がない。

文化の中にある同じ言葉が違う意味を持つ。

Nusu, Straight、 asmany asはmanythanと同じ意味になるo

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情意的な問題点(Gerdes, 1985) 文化的自信に生み出すo

推論における問題点(Bishop, 1994)

(Gay&Cole, 1967)

・学習におけるこれらの困難点の結果,数学はほとんど全て教室外では役に立たない。

子どもは学校で機械的記憶によって学んだ数学的技能を,村で使う機会を持たず、教 師に気に入られる以外にこれらの技法を用いる方法を知らない。

・言語的問題,学習技術,論理と推測

(1) 列6個の石が12個と分かると、人にもその他のものにも適用できると考 えるのが西洋であるが, Kpelleではそうとは限らない。数学的事実と現実

との間に対応がない。

(2)  個の石が3列に並べてあることも12個がばらばらにあることも変わりが ない。

・要約するとKpelleの生徒は間違った英語を用い、機械式に覚え、あてずっぽう推測を し、論理的パターンを使わず、学習したことを用いることができない。

・この分析の欠如、そして疑義を差し挟むこと無しに権威を受け入れることを、学校に おけるKpelleの子どもたちにとっての主要な障害と、私たちは見ている。

(Bishop, 1994)

・言語,幾何的概念、計算手続き,記号的表象、論理的推論,態度,目的,認知的選好、

価値や信念 文化的規範の問題点

以上,認知的な負荷の具体例として、幾つかのものを取り上げてきた。このような認知 的負荷に対して,解決するのならば問題の深刻さはそれほどではないo この点について Berry(1985)は重要な対比を行っている。次にこの研究を取り上げながら、認知の問題を 構造的に捉え、表面に表れる認知的な問題の下に見られる,より根本的な問題の存在を指 摘した。

3‑3‑2 数学を第二言語で学ぶこと A型とB型の区別

教育は非言語的な側面もあわせ持つが,教師ならびに子どもが考えを相手に伝えるため に,声を発したり黒板や紙に字を書いたりしてコミュニケーションを図る必要がある。そ のことを考えれば、学校教育は言語の重要な役割を抜きにして語ることは難しい。さらに 数学教育では、考えを記号化された言語に圧縮して記述するのが特徴であり、その意味で 言語はより重要性を持っている。

ところが開発途上国の学校では、子どもたちが普段の生活で使用する言語(母語)で使用 する言語)ではない言語で、授業が実施される場合も多く存在し,数学教育もその例外では ない。そこには、植民地支配されてきた国の多くが、政治的独立を果たしながらも独立以 前の社会的教育的基盤に依存せざるをえない状況があったので、特に教授言語に関して言

うならば,旧宗主国の言語を用いている。またそうでなくても,多民族国家においては、

国という体裁を整えるために、少数民族にとっては第二言語である多数派の民族の言語を 教授言語に採択せざるをえなかった場合も存在する。この問題を総称して、ここでは「数 学を第二言語で学ぶこと」と呼ぶ。

ここではその是非について論じるのではなく、第二言語の学習が持っ問題点を, Berry(1985)を元に整理する Berryは問題を, A型、 B型と整理し(表3‑6)、従来この 2つの問題が混同されてきたことが、問題であると主張したo

表3 ‑ 6 教授言語における問題の型(Berry,1985)

原 因 解 決策

A 型 教授 言 語(例 ‥英 語)に不慣れ 0 言 語 の習得 0 B 型 教授 言 語 におけ る認 識 に不慣 れ ○ 母 語 に即 した教材 0

言語 、 文化 、 琴識 の不整 合0

表中のA型は教授言語に不慣れなために起こる問題である。一見たどたどしく英語を話 す子どもを見れば、言語の習得は現実的な選択に見えたであろう。ところがB型では,言 語の流暢さを増すことで解決できない問題であった。つまり、言語における認識構造の違 いが数学学習に影響を及ぼしているので、そこでは言語の習熟に関する努力では、解決さ れない,ということを示している。そして,結論を先に述べるならば、 B型の問題がより 深刻であるにもかかわらず,これまで開発途上国の教育関係者はA型的な解決策一生徒の 言語的流暢さを増す努力ーを取ってきたということが、 Berryの主張である。

サピア=ウオーフの仮説

さて、ここでB型の認識の不整合について思い出すのが、二人の言語学者の手になるサ ピア=ウオーフの仮説であるo彼らは、 「言語的共同社会が異なれば外界は異なった形で経 験化され概念化される」という言語相対性仮説と、より踏み込んで因果関係を述べる「認 知における差異は言語における差異が原因となっている」という言語学的決定論の2つの 仮説命題を提示した(Cole&Scribbner,1982,pp.55‑59)例えば、決定論の立場では、 「虹 が7色を持つ」と通常私たちが考えるのは,実際に7色を見ることができるかどうかが問 題ではなく、 7色に対応する語があり,それが我々の認識を制御しているから,というこ とになる。この仮説は言語と認識の直結した関係を示唆しているが、ある言語に語桑がな くてもその利用者は色の認識が可能であることが示された(例:福井勝義)ことによって、

このように直結的な関係は否定された。しかし,もちろん認識における言語の役割全体が

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