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さて、第二節にて設定した国際教育協力の全体的な課題に対して、まず本研究が取り組 む課題部分を明らかにし,その上で本研究の目的と方法を明らかにしたいo

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1‑3‑1本研究が取り組む課題部分

アジア・アフリカの多くの国は、 20世紀半ばまで政治的、経済的に西欧諸国に従属して いた。直接植民地にされなかった国もその脅威は他国に劣らず感じたことであろう。この 心理的なダメージは色々な形で、これらの国を拘束している。それを乗り越えていくこと は政治的独立を第一歩として,長い道のりが想定される.

また政治的に独立した後も、 1960年に始まる「国連開発の10年」を契機として、社会 的、経済的に遅れた国として、先進国からの経済的,技術的支援を受けてきた。このよう な開発援助の底流には、資源と見なされた人を開発することが経済発展を誘引する(人的 資源論),という見方が底流していた。

それに対して、 1990年タイ、ジョムティエンで出された「万人のための教育世界宣言」

は、このような教育開発の流れに一石を投じた。国家レベルの経済発展とは一線を画し、

教育開発の意義は,広く一般大衆にとって生活上の選択肢を広げること、に求められるよ うになった。人々は単に技術や経済の担い手であるだけでなく、各人は教育を通してより 広い世界を知ることができ、生活上の充足感や問題解決能力を獲得する、と見られている。

この新しい教育開発の見方はもちろん当初より存在していたが、人的資源論の前に中々 日の目をみることはなかった。その考えを1990年以降,流布していったのがEFAとそれ に次ぐ一連の動きであるo これらEFAやDAKAR行動枠組みの中では、学校‑行くこと のみを求めるのではなく、そこで行われる教育の質を問題にし,それを基本的な学習ニー ズと呼んでいる。つまり、 《教授の質を犠牲にした上での、教育‑の高まったアクセスは、

無意味な勝利である》 と述べるように、教育の充実は量・質同時に考えていかなければな らないということをうたった。世界人権宣言にまで遡るEFAの考えは、それでこそ実現 が可能となるo

この基本的な学習ニーズは、学習手段(識字,音声による表現,算数、問題解決能力など) と学習内容(知識、技能、価値観、態度など)の2つより成り立っている。人々は教育を通 してこれらを獲得し、尊厳ある生活を送り、働き、開発に全面的に参加し、生活の質を高 めることができる。また各個人の属する文化・言語の尊重と共に、共通の道徳的価値観を もっことが出来るとしているo

算数能力は学習手段に位置づけられているが,それ以上の内実に関しては,踏み込んで 述べられていない EFAの象徴的性格を考えるとむしろ当然と言えるoそこで本研究にお いては、

てその具体化を図ること、という課題に取り組むこととする。

さてここでは、カリキュラムの3つの区分を用いて、カリキュラム開発の研究を構想す る。課題は大きく2つに集約される。

学習活動の目標、内容、方法等を留めたものは、意図されたカリキュラム任ntended curriculum)と呼ばれるo現地文化を考慮した教育は、先ずこのレベルで記されなければな らない。つまり「意図されたカリキュラムにおいて、文化的対立に配慮し,各人の問題解

決能力を引き出す枠組みを考察すること」が、第一の課題である。次に、意図された計画 に対し、教師が実行するレベルとさらに学習者が習得するレベルを区別すると、 「意図され たカリキュラムと教師によって実施されたカリキュラム(Implemented curriculum)との 帝離の解消を考察すること」が,第二の課題であるoなぜなら新しい教育開発観に表現され た万人のための教育は,アジア・アフリカなどの開発途上国社会の抱える切実な課題意識 に端を発しており,その解決に向けて実施レベルに焦点付けた研究を求めている。もちろ ん学習者によって達成されたカリキュラム仏ttainedcurriculum)‑の反省も、教皇におけ る実践に活かされる必要性については言を待たない。

本研究では、この2つの課題のうち前者に限定して議論する。それは後者の必要性を認 めないわけではなく、またそちらの緊急性が低いと考えるわけでもない。むしろ後者の課 題研究が充実するには,前者が十分に検討されることが前提となるので,その時間的前後 関係を配慮したことと,前者において文化的な問題性が指摘されていることの二点を考慮

したからである。後者については、将来の課題として、また校を改めて取り組みたいと思

う。

その課題部分の必要性

さて「開発途上国の数学教育カリキュラムを文化的視点から考える」について、その研 究の必要性について見ていきたい。

UNESCOを始めとして、カリキュラム開発の分野では、これまで多くの試みが行われ てきたはずである。それにもかかわらず、何故カリキュラムをいまさら考察する必要があ

るのか。その理由は、繰り返しになるが数学教育において文化的側面が十分に顧みられて こなかったこと,そしてその研究は今始まったばかりであることの2つである。カリキュ ラムに関する詳細の議論は、次章にて行うとして、ここではより大きい視点一社会的側面 からの要請と認知的側面からの要請‑から、見ていきたいと思う。

数学教育の社会的側面からの要請

数学教育においてこのようなカリキュム考察を行うことが、 EFAの具体化につなが ることは、先ほど述べたとおりである。それに加えて,次ぎのような要請の声があが っている。

* Edgar Faure

《植民地時代から抜け出すや否や、それらの第三世界の国々は,一意専心文盲対 策に突入した。  彼らは植民地支配国の手からいわば技術の優越性という武器 を奪い取れば十分であると信じた。そして今や、これらのモデルは、彼らの要請 にも、また彼らの課題にも適応しないものであることが気づかれている.》 (p.15)

* Eshiwani 「伝統教育VS近代教育」

ケニアの代表的数学教育者Eshiwaniは、近代教育が若い世代を伝統文化から切り離す

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役割を果たしてきたことを指摘する。その意味で,近代教育は伝統教育と衝突的である。

もちろんここでは、伝統教育と近代教育のそれぞれの役割について、また両者の関係につ いて吟味する必要があるo一般に文化は,そこにつなぎとめる役割一伝達‑と新しく生み

出す‑創造‑ための道具提供の役割を持っているo したがって、単純に伝統教育が良いと も悪いともいえない。ただし,近代教育を受けることで、自らがよって立っ基盤をないが しろにするようになっては一大事である。その意味で伝統教育の側面を考察する必要性が 提起される。

*Gerdes 「近代化の影響」 (開放的教育) (Gerdes,1985)

モザンビークの数学教育者Gerdesは,数学教育で文化的側面を取り上げることは,モ ザンビークの人々が,自らの文化に対して自信を深めていく必要があるから、としている。

植民地化の経験と独立以降の社会的,経済的な従属関係により,単純に近代教育を否定で きないものの,文化の持つこのような側面については十分に検討するに倍する。

*Nebres 「カリキュラムの一様性」

これだけ多彩な文化そして社会が存在しているのにもかかわらず、数学教育カリキュラ ムは一様であるo これらの社会、そこに住む人々の要請は,一様なのであろうか、と疑問 を提示し、カリキュラムの一様性を問題として取り上げている。

以上の視点は、近代教育のみに頼っている危険性について指摘しているが,その排除を 訴えるものではない。そこで、数学教育という文化的な差異が現れにくいと思われている

ところでも,この危険性に対して伝統文化的側面をどのように取り入れて、教育の中身を 充実していくのかが求められているo

数学教育の認知的側面からの要請

この部分は次章で述べることとの先取りとなるが、達成されたカリキュラムのレベルで どのような問題が起きているかということである。

*Gay&Cole(1967) 「文化に起因する認知的な負荷」

学習におけるこれらの困難点の結果,数学はほとんど全て教室外では役に立たない。子 どもは学校で機械的記憶によって学んだ数学的技能を、村で使う機会を持たず、教師に気 に入られる以外にこれらの技法を用いる方法を知らないo

要約するとKpelleの生徒は間違った英語を用い、機械式に覚え、あてずっぽう推測をし、

論理的パターンを使わず、学習したことを用いることができない。この分析の欠如、そし て疑義を差し挟むこと無しに権威を受け入れることを、学校におけるKpelleの子どもたち にとっての主要な障害と、私たちは見ている。

*Bishop(1994) 「文化的対立、文化的不一致」

文化的一致の仮定は,長年一般に暗黙に受け入れられ、特に問題が無かった.子供たち が数学を学ぶ上での困難ノ良、ならびに数学の教授によって引き起こされる不安な感情に関