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亡 ) 表書

第三節  動詞型カリキュラムの構成原理の再考察

第四章で立てた3つの原理を基にして、本章では図6‑6にある動詞の一覧である動詞型 カリキュラムを得たここではカリキュラムの側から構成原理を再考察するo

6‑3‑1構成原理1 「活動の文脈性」の再考察

第一に活動の文脈性についてである Coleが区別したように、文脈の捉え方には環境か ら主体‑と一方向的なものと両者の間の双方向的なものがあり、特に教育の中で文脈を取

り上げることを考えた時に,後者の立場に立つ必要があった。つまり文脈は活動の出発点 で、活動の途中において文化的道具を提供してくれるとともに,また文化を創造していく 意味で、乗り越えていく場でもある。

ここで文脈を乗り越えるというのは何を示すのか。動詞型カリキュラムは活動に重点を 置くアプローチであり,それゆえその活動には十分に注目し,そこに子どもたちの生活場 面に埋め込まれた数学的な活動を必要とした。ただし、文化的な数学的活動を教室に持ち 込むことは、その活動を対象化してみていくことを求めていた。ここで重要な概念が脱文 脈化である。数学教育の中で民族数学を脱文脈化することは,具体的には,環境との一体 性を持った民族数学から少しずつ環境に依存する成分を抜いていくことを指すが、一方向 的ではなく常に戻ってこられることが重要である。これが文脈を乗り越えることを示して いる。たとえばケニアの市場における測定活動はそれを対象化して取り上げる中で、市場 の活動とは切り離されて,すなわち脱文脈化されていく。しかし子どもにとってはこの活 動はいっでも身の回りに起きている活動で,このような数学性‑の注目は、すぐにではな

くても,自らの活動の中に規則性を見る目を育てて行くであろう。

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図6‑15 文化性と文脈化

D'AmbrosioによるMFAの思想的特徴としてあげたのは、数学的実践としての全体性と 環境と主体との間の相互関係であるが,その相互関係を算数能力の形成として,数学教育 の中に取り戻すことが、学習主体が環境に働きかけることを可能にするEFAの基礎的学 習ニーズの具体化につながっていく。

6‑3‑2 構成原理2 「批判的考察」の再考察

さて第二番目の構成原理「活動の批判的考察」に関する考察である。民族数学に対して 批判的な見解を挙げたKeitel(1997, p.2)は現代社会を次のように特徴付けている。

《社会は広範な経済、技術変革を受けますます形式化,数学化されている。 ‥.その社

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会における数学の客観的重要性が増しているにもかかわらず、学校で各人に教えられ る数学のそれは急激に減少している。 …社会の数学化がその成員の脱数学化と同時に 進行している。》

ここでは,社会の数学化と個人の脱数学化の同時進行が最大の特徴である。確かに計算 や手仕事という個人の負担を軽減する意味では、前者には便利な面が多く存在し、障害を 持つ人にとって、ある種の障害を乗り越える可能性を開いたことも注目に倍する。しかし 他方で、人間を大きく複雑に絡まった組織・機構の片隅に追いやり、疎外感を与えるように なってきたし、情報化が進んだおかげで事態を十分に批判する前に犯罪に巻き込まれる可 能性も出てきた。このような社会においては、膨大な情報の山から自分にとって有用な情 報を選択したり、情報に積極的に働きかけ処理することで、安全を確保したりする必要が あるo

具体的に先述の市場での測定活動を例に取ると,西洋数学的な単位でkgやccなどを基 にして,機器で測ることも可能である。社会的に編み出された便法もとの両者の間で,千

どもは測定活動で何を感じどう判断するのかだろう。いずれにせよこのような価値的側面 を、数学教育の中で積極的に取り上げていく必要がある。民族数学で西洋数学を批判的に 見たり,民族数学を批判的に見たりという,この批判的考察は、カリキュラム構成原理と してだけでなく、むしろ積極的に教育の中で育むべき力として捉えるべきであろう。つま り動詞型カリキュラムの展開の中で、普遍性と文脈性という両極のあいだで、相互参照的 に見ることのできる力の滴養である。

さて批判的数学教育と民族数学がそれぞれの立場より、この批判的思考の形成を数学教 育の目標として位置づけているので、それを見たい。

① 批判的数学教育(Skovesmose)

まず批判的数学教育の観点である。ここでは数学教育で育てるべき力として,数学的な 知識のみならず、その応用面の良否を判断する力として、反省的知識について述べている。

《私が(証明ではない)提示しようとしている概念は:もしマセマシー(Mathemacy) が批判的教育にて、リテラシーと似ているが同一ではない役割を担うのならば、マセ ラシーは数学的、技術的、反省的能力という異なる能力から成立しているとみなさな ければならない。しかし特に:反省的に知ることはマセマシーにエンパワーメントの 要素を付加するので,育成されなければならない。》 (p.117)

このマセマシーを、次のような階層構造.数学的知識,技術的知識、反省的知識*3‑で 捉えている。つまり数学的な知識は、数学的技能と通常表現する能力をさす。これは計算

アルゴリズムを行うことに加えて、数学的な考えや定理、証明を再生する力を含んでいる。

新しい数学を発明したり,発見したりする高度な力さえも含まれている。また技術的な知 識は、技術的な目的を追求する上で,数学や形式的方法を応用する能力を指し、高度技術 社会を特徴付けている。最後に,反省的知識は,技術的な目的で特定の数学が選択的に使 用され,その結果生じる社会的倫理的影響について評価したり、議論したりすることに関 係している(pp.100‑101)このような反省的思考が作動するには,単に数学的知識や、

その応用である技術的知識のレベルに留まるのではなく,それとは別の階層から前2者の 社会的な意味について、反省を加える必要がある。

ここでは、 「反省的」という言葉を用いているが、批判的な思考の実現を、知識の階層化 によって成し遂げているo民族数学のカリキュラム化について研究したPompeuも、数学 教育で青くむ力を、数学的に考えることと数学について考えることの二層に分けて捉え、

従来注目度の低かった後者の育成が重要であることを指摘しているo

② Literacy、 Matheracy、 Technoracy (D'Ambrosio, 1999)

次に民族数学の生みの親であるD'Ambrosioを取り上げる。民族数学を契機とした新し いカリキュラムにおいて、 D'Ambrosioは次の提案を行っている。

《私の提案は,学校カリキュラムを次の三つに再編することであった:表現一般に関 するものリテラシー(Literacy),数一般に関するものマセラシー(Matheracy)、技術一 般に関するものテクノラシー(TechnoracyX 》

ここでは、数学を記号の持つ圧縮された表現と理解し、この記号を用いる部分はリテラ シーの移動して、リテラシー概念を通常よりは幅広く捉える。そして残存する部分を、マ セラシーと呼んでいる。

《マセラシーは、データより結論を導く力のことである:帰納し、仮説を提示し,結 論を導いてくることを示している。それは今日の学校にはほとんど欠けている知的構

えの第一歩であるo 問題解決、モデル作り、プロジェクトは数学の授業で時に見られ るけれども、悲しいことに主眼目は数と計算の操作,つまりニューメラシーにおかれ ている。マセラシーは古典ギリシアや土着文化にて数学が存在している状態に類似し ている。その関心は数えることや測定することにはなく,むしろ神聖さや哲学にある。

マセラシー、この人間と社会に関するより深い洞察は、過去に見られたように特権層 にだけ限定されるべきではない。》

と述べて,数学を元にしながら総合的に考える態度を、マセラシーとしている。このよ

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うな急進的な変革には、賛否両論が見られるだろうが、民族数学研究を主導してきた者と して、数学を幅広く捉え,数学教育を根源から見直そうと言う方向性を持っている。

さて批判的数学教育と民族数学を主導してきた二人の意見を見てきたが,従来の数学教 育の目的に反省を迫っている。前者は、社会との関係で数学を階層的に捉える事を重要視 する。また後者は,数学教育の目標を、総合的で知的な態度の形成に求めている。これら は,第四章で取り上げた批判的思考の二つの方向性.社会的批判と数学的批判一に対応し ていると見ることができる。

6‑3‑3 構成原理3 「活動の構造化」の再考察

最後に第三の原理、 「活動の構造化」について考察したい。それは文脈性を重視した民族 数学から、文脈のなかに潜む数学性を導き出すための教育的展開を可能にする原理であっ た。西洋数学と民族数学を対置することが、批判的思考の中核にあるならば,構造化はこ の両極をつなぐ方向性を有している。

活動の普遍性を根拠にして、活動の構造的展開を図る。ここではワイルダーが指摘する ように、活動の展開の中で,人間の本来持つ記号創造性が発揮されるような数学教育を展 望する必要があるだろう。つまり、その活動の中で、子どもたちは活動の重要な部分を、

凝縮して記号化し、さらに記号に向けて働きかける経験を持つのである。

つまりこのような記号創造性を重視する民族数学の構造的展開において、西洋数学とは 異なる記号を創造する可能性、つまり代替的記号化を見ることができる。そこでは,民族 数学は西洋数学に対する批判の基盤として、また常に戻ってくる場として存在する。