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第五章  ケニア国学習指導要領の動詞 による分析

第一節  ケニア国の数学教育の歴史

5‑1‑1一般的背景

1963年に独立を果たした東アフリカのケニアは、それ以前4つの異なる学習指導要領 を有していた。それは単なる労働力を提供するアフリカ人と社会を支配するヨーロッパ人 の間にインド人とアラブ人とを置き,分割統治するためであったoアフリカ人にはプラン テーションで働くために必要な最低限の3R'sのみが必要とされてきた。そしてこのアフリ カ人用指導要領は3R'sに基づいて構成されたものであったo

独立直後1964年に設置されたOminde委員会は当時の状況を分析して,人種に関係な く全てのケニア人にとって必要な教育の基礎を求めた。そして1967年に新生ケニア国初 めての初等教育指導要領が完成し,教育のケニア化がその第一歩を印したo初等教育機関 としては独立以前にもー定数の学校が設置されていたが,中等教育機関に関して、その数 は人口の大多数を占めるアフリカ人には不要との理由で極端に少なかったo因みに独立当 時におけるそれぞれの学校数は、 6058校と151校である。大統領の掛け声とともにハラ ンベ一連酢1が始まり各地で中等学校の建設が地域住民の尽力にて行われてきたoその結 果1990年の段階ではそれぞれ14864校と2678校になっている(木村満場‥1995)c

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表5‑1初等、中等学校数(筆者作成)

19 6 3 19 70 19 8 0 19 9 0 小 学校 数

中学校 数

6 9 5 8

ー15 1 6 1軍3 10 2 6 8 14 86 4 7 8 3 17 8 5 2 6 78

さて数学教育に焦点を当てると、 1960年代から1970年代にかけて、ケニアも世界的な 数学教育の現代化運動の影響下に入るo初等教育では、 Entebbe Projectの影響を受け、

Kenya Primary Mathematicsの編纂が開始されたoその教科書は非常に現代化の影響を 受けおり、集合やトポロジーといった概念を重視していた。また中等教育では、英国にお いて少数エリート校のために開発されたSchool Mathematics Projectを東アフリカ‑移 植する目的で,ケニアに当時いた白人の教師が中心となってSchool Ma也ematics East AfricaCSMEA)の教科書を作成したoまず少数の学校で実験され、後にその適用範囲を徐々 に拡大する予定であった。しかし1970年に。この新しい数学(New Ma也ematics)の正式 採用が政府によって決まると、全ての小学校にて実施されるようになったoしかし一般の 教師は新く導入された概念を教える準備ができておらず、また一般大衆の反応は悪く,計 算力の低下を嘆く声が上がった(Lillis, p.151)

1976年には独立以来の教育制度を見直しするために、 Gaca也i委員会が設置された。こ の委員会は報告書の中で教育改革の必要性を説いていた。最終的に1980年大統領令が出 されて新しい数学の廃止が決まり,その後1984年に7ヰ2‑3利から8‑4‑4制‑の教育制度 の改革が断行されて,新しい数学は名実ともに姿を消した。

新制度‑の移行は、独自の指導要領の作成、並びにそれに基づいた試験制度の改革をも 意味した。教育省内にあった国家試験の監督部局は1980年に分離独立され、 Kenya National Examination CounciK以降KNEC)と名づけられ、以降KNECが主体となり初 等教育修了試験(Kenya Certificate of Primary Education,以降KCPE),中等教育修了試 験(Kenya Certificate of Secondary Education、以降KCSE)並びにその他の国家試験を実 施する母体となるoまた教育の方向性を決める学習指導要領はKenya Institute of Education^以降KIE)が作成したKNEGはK[Eの作成し他学習指導要領に基づいて試を 作成・実施するという体制が整った。このことは初等、中等教育のさらなるケニア化の進 展を意味した。

新制度が導入される中で、新しい問題に直面することになる。数学教育も決して例外で はなく様々な問題を抱えてきた。隣国ウガンダが未だに中等教育の修了試験を英国式の 0‑level,A・levelを行っているのに対し,ケニアは上に述べたように1980年に早々と決別 している。短期的、長期的に見てそれが正または負のどのような効果をもたらしているの かは更なる調査が必要であるが、教育のケニア化が進んでいることは確かである。ところ がそれに対して、国家試験における0点の数が極端に多い。初等教育8年間, ,中等教育4

年間かけて学んできた成果がこの始末では,教育または試験の責任が問われねばならない であろう。

60000 50000 40000 世 30000 20000 10000 0

喜 超 越 塗

詔国男子 巨女子 田合計

喜 遊喜 塑墓 遊 盛 墓室出

# + :+++++:+:#+:i+ +++++++++++++:W+++++++++A:+++++++++++++++++1:W+++++++++++++++++++++++++:8+ ++++++++++++1W#+ +++++++++1:+++A 霧

∴ わ七=nfl.l

A A ‑ B + B B ‑ C + C C ‑ D + D D ‑ E 成績

図5‑1 KCSE1995年成績

さらに授業の中にまで分け入ってみれば、教科書が少なく問題を書き写すのに時間が取 られたり、また公式、定義を重視する傾向は強く、イメージを沸かせる努力は一般に少な

い。

他国の教育を論じる時に、外国教育学、比較教育学も考えられるが、本研究は国際協力 という立場より論じている。つまり外国のことを学ぶ、もしくは比較することを通した知 見の蓄積を目指すのではなく,教育分野に於ける当該国の開発努力に対して協力する一環 として,実践、理論の両側面において研究を構想することを指している。したがって本研 究では、ケニアと日本の学習指導要領を比較考察しているが,そこで得られた成果は、ケ ニア人教師、教員養成または研修に従事する人に向けて、何らかの示唆を得ることを最終 的に目指しているo

さて国際教育協力における、数学教育の文化的側面を考察しようという際に、 2つのレ ベルに注意を払う必要がある。 1つは数学教育における文化性であり、もう1つはより広

く国際教育協力の中に於ける文化的視点である。本研究の焦点は前者にあり,以降の議論 は数学教育に限定されるので、その前に後者について簡単に言及しておきたい。

1990年タイで決議された「万人のための世界教育宣言」 (UNESCO,1990)を転回点とし て,現在国際教育協力は新しい局面を迎えている。従来技術・経済開発を中心とし「教育 はそれを達成するための手段」と見られてきたが、宣言に盛り込まれた内容は国際教育協

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力における新しい方向性を示しているo単に技術や経済の担い手であるだけでなく,各人 が教育を通していろいろな知識を手に入れる能力と開発過程‑の主体的参加を可能にする、

より幅広い教育開発像である。

ケニア国初代大統領Kenyatta(1995)は,万人のための教育を考える上での基本的な問題 を、独立以前に既に指摘している。

《結局、彼(アフリカ人)は,社会的,宗教的に家族や部族社会から引き離された自分 自身を見る。習得するはずの新しい文明は、ヨーロッパ人としての生活様式を身につ けることに役立たず、アフリカ人のそれに対して不用意である》 (pp.124‑125) そこでヨーロッパ文化とアフリカ文化の対立に、ケニアは如何なる方策を講じてきたの か。ケニア社会の尽力は短期的な試みの成否だけでなく、文化の固有性や近年国際協力に おいて重要視される「オーナーシップ」にとって、重要な意味を有している。政治的な独 立を果たした国とって,旧宗主国の文化は,憎悪と憧れや畏敬の念が掬い交ぜになった厄 介なしろものであったoそれがしばしば極端な排斥や,一方で盲信を誘引してしまう歴史

を、私たちは遠くない過去に見てきた。

ところが独立という事態を経て、一旦動き始めた近代社令の歯車を動かしつづけるには、

現実の選択肢として旧宗主国が残した教育システム並びに内容を受け継がざるを得なかっ た。その上で各社会の要請にあわせて変容させることを課題として背負うこととなった。

カリキュラムの現地化(Gay & Cole,1967; Berry,1985; Bishop, 1994)は、そのような社会 的・歴史的文脈に位置づけられる。

私たちも,異なる社会的・文化的背景を有している。したがってわが国の中でうまくい った事例だからといって、そのまま移転しようとしても諸条件が整わず、失敗する可能性 が大きいoさらに、失敗か成功かを決める価値観自身が,彼我では異なる可能性があるo

したがって本章では、まず歴史的な観点よりケニアの数学教育の社会的・歴史的状況を踏 まえて動詞型カリキュラムの位置づけを明確にすることと、そしてケニア国初等教育の学 習指導要領において動詞型カリキュラムの考えを適用することを目指す。

5‑1‑2 独立前後の制度構築期: 1970年まで

1960年はアフリカの年として夙に名高い。西洋による長年の植民地支配を経て,多くの アフリカ諸国がその年の前後に次々と独立を果たしていった。ケニアは少し遅れ1963年 に独立するが、独立以前の教育は、アフリカ人にとって非常に限定されたもので、その社 会の中で将来期待されるであろう役割から、ほとんどの場合初等教育に留まっていた。し かし独立を契機として、抑圧されていた潜在的エネルギーが一気に解放され、教育は急速 に普及していった。好個の例が独立後の中等教育機関数の爆発的な拡大で,その伸びは目

を見張るものがある。因みに独立当時におけるそれぞれの学校数は、 6058校と151校で ある。先述のように、大統領の掛け声とともにハランベレ運動が始まり各地で中等学校の 建設が地域住民の尽力にて行われてきた。その結果1990年の段階ではそれぞれ14864校

と2678校になっている(木枕馬場:1995)c

当時アフリカ諸国の教育は、全体として旧植民地政府が残していったものに大きく依存 しており,それを如何に独立国の要請に合うものとするか、言い換えれば現地化が急務で あった。本研究においては初等教育に注目し、質的側面での努力を学制、カリキュラム作 成機関、試験作成・実施機関などの制度的側面と,カリキュラムの内容的側面から、三期 に分けて考えていきたい*㌔内容的側面に関しては,各期に対応して初等教育の学習指導 要領が出されているので、学校教育の基礎となる学習指導要領に従い考察を進めていく。

ここで大事な点は,現地化の過程でどのように文化的対立が認知されたのか、またそれ に対して解決方法が処方されていったのかを、見ていきたい。その中で、上記の制度や内 容といった側面が真に意味を持ってくると考えるからである。

(制度的側面)

独立以前の学制はカリキュラムと同様、民族によって異なり,特にアフリカ人は8寸2 制を取っていた1966年になって8‑4‑2制より7‑4‑2‑3制‑移った(Eshiwani,p.36‑38)c

試験制度に関しては,独立後,増大した教育要求‑の対応に,教育省内に試験課が設置 され(Kenya,1976,p.136),初等教育修了後に実施されるCPEと中等中期に実施される KJSEU966年より)が実施されたo当初それ以上e)レベルの試験はCambridge University Local Examinations Syndicateによって単独で、後にEast African Examinations Board との合同で(1967‑1973)実施されるようになった(Kenya, pp.!34‑135)c この後者は東アフ リカ共同体と呼ばれ、現在のウガンダ,タンザニア、ケニアの3カ国を担当した試験作成、

実施機関であった。

先述の独立直後に実施された調査の報告書であるKenya(1964 :調査委員会代表は Ominde教授のため、 Ominde報告書とも呼ばれる)には、独自の教育調査,カリキュラム 作成の機関設立が盲匝われている Kenya Institute of Education(以降KIEと略)の前身の 一つにあたるMathematics Education Centerは1964年に設立されて、 1968年にKIE

の一部となる。この機関が中心とな?て、 1970年代の現代化の教科書Kenya Primary Education^以降KPMと略)の開発を行ったo

(内容的側面)

次にカリキュラムの内容面である。ケニアは他のアフリカ諸国より少し遅れて1963年 に独立を果たした。独立以前は植民地政策により、学習指導要領がヨーロッパ人用、アジ ア人用,アフリカ人用(Kenya,1962)という3種類に分けられていた。独立後は国家意識の 滴養が重要となり(Kenya,1964,p.25)、独立以前に用いられていたアフリカ人用学習指導要 領が統一カリキュラムとして用いられることとなったo

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