第 5 章 閣僚会合以後における FCDI の活動と FCDI の終焉
第 2 節 FCDI の終焉
このように、各種会合を通して、FCDIの活動は展開された。しかし、1996年12月の人材育 成作業委員会の開催後、FCDIによる積極的な活動はみられなかった。FCDIの関与の下で進めら れた国際会議は1999年4月に開催された「大メコン圏開発シンポジウム」が最後となった。
なぜ政策担当者は、FCDI を取りやめることを決定したのであろうか。その要因に関しては、
すでに多くの先行研究でも議論がなされている。そこで、先行研究における議論と一次資料に基 づき、上記の要因を明らかにしていく。
第1の要因は、日本の政策担当者が、FCDIを推進するよりもむしろ、GMS構想との連携を重 視するようになったからである809。政府刊行物の記述からも、大メコン圏開発構想タスクフォー スが提唱された1996年あたりから、GMS構想への支援に政策担当者の関心が集まるようになっ た事実を確認できる。例えば、『我が国の政府開発援助』の1995年から1999年版まで、「地域全 体の調和のとれた開発につき幅広い討議・意見交換を行う場」810としてFCDIを位置付けている。
ところが、1995 年版では、「地域」とは「インドシナ」であるということが明記されていたのに 対し、1996年版以降では、「インドシナ」という記述は削除され、「メコン河流域開発への国際的 関心の高まり」という文脈で「地域」を論じている。このような記述から、政策担当者が認識し ている対象地域が「インドシナ」から「メコン」にシフトしたと解釈できる。
また、同タスクフォースが提唱されるより以前に、FCDIにおいてGMS構想を中心とした支援 地域を念頭に置くようになった。例えば、1994年12月21日には、ADBの担当者との打ち合わ せが行われた。その準備資料において、GMS構想に関する記述が以下のようになされた。
「サブリージョナルな影響」を持つプロジェクトに対象を限定すること自体は従来から の方針通りであるが、各国・機関がインフラ案件につき幅広く情報を共有し、インドシ
808 同上 p.5.
809 白石・前掲論文, 2004 p.209, 白石・前掲論文, 2007 p.69, Shiraishi,op. cit, 2009 p.20.
810 外務省『我が国の政府開発援助』(下巻), 1995 p.4 ,1996 p.3, 1997 p.3, 1998 p.4, 1999 p.4, 2000 p.4.
外務省『ODA国別データブック』2001 p.4, 2002 p.3.
ナ地域の全体増マ マ を把握するとの趣旨に照らせば、右を厳密に解釈しすぎず、比較的緩や かに対象範囲を広げることが必要(主要な道路、港湾、空港、鉄道であれば、含めても よい)(下線は原文通り)811
上記の記述にみられるように、日本は「サブリージョナルな影響」を持つプロジェクトを重視 しながらも、必ずしもインドシナという地域にこだわらない方針を打ち出した。そこでは、「比較 的緩やかに対象範囲を広げることが必要」と考えられた。この記述だけでは、対象範囲が何を指 すのか断定できない。しかし、この記述は ADB との協議を想定していた。また、インドシナ地 域よりもさらに広範な地域的まとまりを構想していた。それゆえに、対象範囲としては GMS 構 想の範囲を想定していたと考えられる。以上の点から、日本の政策担当者は、地域政策を展開す る上でインドシナのみならず、ADBが志向するGMSの地理的範囲を受け入れるようになったと 理解できる。
さらに、1995年1月23日にも、ADBとの打ち合わせが予定されていた。この打ち合わせを想 定して、事前に日本が ADB に対して伝えるべき関心事項がまとめられた。その中でも、コンペ ンディアムのプロジェクトの対象範囲を拡大することが必要である点が確認された。
第2の要因は、インドシナ3国によるASEAN加盟である。「ASEAN10」実現によって、FCDI が前提としていた「福田ドクトリン」の理念が妥当性を失ったからである812。従来、FCDIにお いて期待された役割は、「インドシナ諸国をASEAN諸国のレベルにまでキャッチアップさせる」
813ところにあった。また、宮澤ドクトリンが「福田ドクトリン」の「復活」を意味していたこと からも、FCDIがいかに福田ドクトリンを基盤に置いていたかを理解できる。しかし、「ASEAN 諸国と未加盟のインドシナ諸国(ミャンマーを含む)との一体化を日本の影響下で進めようとす る構想は、予想より速すぎたASEAN拡大のために時代遅れになってしまった」814のである。こ の点に関して、白石も、ASEAN加盟に伴い「インドシナ3国のみを他の東南アジア諸国から切 り離して、独自のサブ地域として扱うことの妥当性が薄れた」815と述べている。
第3の要因として、1990年代半ばには、多数の協力枠組みが誕生したからである。その結果、
これらの協力枠組みの中にFCDIは埋没した。無論、日本の政策担当者は、こうした状況を認識 していた。事実、1990年代半ばから誕生した多数の協力枠組みの調整を担う役割がFCDIにおい て付与された。しかし、議論を通した意見・情報交換を行うだけで、こうした調整を実質的に行 っていくことは不可能であった。
第4の要因として、日本がインドシナ3国に対する援助政策やGMS構想に関する知識や経験 を持つようになったことが挙げられる。前述のように、1990年代初頭は、インドシナ3国に対す る援助の経験や知識を蓄積した担当者が欠如しているなど支援体制が整っていなかった。この点
811 外務省アジア局南東アジア第一課「インドシナ総合開発フオーラム―ADBとの打合せ」外務省大 臣官房総務課外交記録・情報公開室, 1994.12.21.
812 白石・前掲論文, 2004 p.209, 白石・前掲論文, 2011 p.33, Shiraishi,op. cit, 2010 pp.157-158, 山 影・前掲論文, 2001 pp.61-62.
813 山影・前掲論文, 2001 p.60.
814 山影・前掲論文, 2001 pp.61-62.
815 白石・前掲論文, 2011 p.33.
に関して白石は以下のように論じている。
インドシナ3国、とりわけカンボジア、ベトナムは、日本からの本格的な援助が途絶え ていた期間が20年という長きに及んだ後に、突如として重要な援助対象国として浮上し てきただけに、日本側でも対象国における経験を蓄積した担当者が欠如しているなど支 援体制も整っておらず、(中略)そもそも援助案件を担当する人材が決定的に不足してい るという手探り状態からの出発であった。(下線は引用者)816
こうした「手探り状態からの出発」の中で、インドシナ地域のみを単独で援助対象と想定する には、まだ日本側で十分な準備ができていなかった。また、GMS構想にみられる広域的開発に関 する経験や知識も十分に持ち合わせていなかった。それゆえに、ドナー国や国際機関とインドシ ナ開発に関する議論を行うこと自体に意味があった。こうして FCDIは、日本側がODA援助政 策や広域的開発に関する知識や経験を獲得するための、「ラーニング・プロセス」としての役割を 果たしたのである。
しかし、1990年代半ばになると、インドシナ3国に対する援助に関する知識や経験も蓄積され るようになった817。FCDI においても、例えば人材育成作業委員会を通して、優先分野の特定に 関する協議を行うなど、日本はODA援助政策に関する知識を深めていった。また、ADBとの数 回との協議を通して、GMS構想に関する知識も深めていった。こうした中で、FCDIを進める意 義が薄れたと言える。つまり、「ラーニング・プロセス」としてのFCDIの役割を果たし終えるこ とになったと解釈できる。その結果、政策担当者はFCDIを取りやめたのである。
第5の要因は、インターネットの登場である。一次資料によれば、人材育成作業委員会の開催 をもって、FCDI は終了すると松富重夫アジア局南東アジア第一課課長は認識していた。人材育 成作業委員会に関する意見交換の際に、松富は「民間アドバイザリーグループ、インフラ整備作 業委員会は既に開催され、最後に今次人材育成WGが開催されることにより、インドシナ総合開 発フォーラムの一通りの活動が終了することとなる」818と述べた。
続けて松富は、以下のような発言を行った。
インターネットを活用した域内経済情報へのアクセス体制の整備を積極的に進めるべき と考えている。9 月のインフラ整備作業委員会においては、インターネットによる情報 収集の有用性が討議され、インドシナにおける公的支援プロジェクト、BOTプロジェク ト等の情報をインターネットによりアクセスできるよう準備を進めている。今次人材育 成WGによる作成されるコンペンディアムもインターネット上で情報アクセスできるよ
816 白石・前掲論文, 2008 p.175.
817 インドシナ諸国に対する援助体制も整ってきた。例えば、1993年には、JICAカンボジア事務所 が開設された。また、1995年には、JICAベトナム事務所や海外経済協力基金(OECF)ハノイ駐在 員事務所が開設された。
818 外務省アジア局南東アジア第一課「インドシナ総合開発フォーラムWCHRD(仏との意見交換)」
(松浦駐フランス大使から外務大臣宛て)外務省大臣官房総務課外交記録・情報公開室, 1996.11.30.