第 1 章 FCDI 提唱に至るまでの地域政策に関する議論
第 2 節 カンボジア紛争と対インドシナ地域政策
第1項 カンボジア紛争の勃発
その後、福田ドクトリンを基調にした対インドシナ地域政策は、順調に展開していくようにみ えた。しかし、1979年にベトナムによるカンボジア侵攻に発端をなすカンボジア紛争114が勃発し た。この紛争の勃発は、ASEAN 諸国とインドシナ諸国の対立を決定的なものにした。友田は、
ベトナム軍のカンボジア侵攻による日本のインドシナ地域政策の破綻を以下のように論じている。
ベトナム軍のカンボジア侵攻は、“社会主義インドシナ”の決定的な分裂を意味するもの である。ベトナム、ラオス、カンボジア3国を“社会主義インドシナ”という政治的単位 としてとらえ、それぞれとの良好な関係の構築をはかっていた日本のインドシナ政策は、
この分裂の表面化によって社会主義インドシナをひとつの政治的単位ととらえる基礎を 失ってしまった。それは、福田ドクトリンに基づくインドシナ政策の破綻を意味していた。
(下線は引用者)115
友田が指摘しているように、ベトナム軍のカンボジア侵攻によって、ASEAN 諸国とインドシ ナ諸国の橋渡しをうたった福田ドクトリンの理念は、頓挫を余儀なくされた。しかし、そのよう な状況においても日本は、インドシナを1つの政治的単位として認識していた。とりわけ、カン ボジア紛争の勃発によって、対インドシナ地域政策は、福田ドクトリンとは異なる新たな文脈の 中で語られた。すなわち、対インドシナ地域政策を展開する上において、ASEAN との協調がう たわれたのである。
例えば、1980年度版『外交青書』に記載された「わが国の行なつた外交努力、第1節 各国と の関係の推進、1.アジア地域、(5)インドシナ地域」では、ベトナム軍によるカンボジア侵攻 に言及しながらも、「わが国は武力により紛争を解決せんとする全ての試みに反対する立場を貫く とともに、ASEAN諸国と協調しつつインドシナの平和回復に努力するとの外交方針を堅持した」
116と記述されている。1981年度版でも、同様の記述がみられる117。
従来のようにASEAN諸国を地域政策の対象に包括するのではなく、ASEAN諸国と協調しな がら、インドシナ地域の平和回復を図ることが、カンボジア紛争期における対インドシナ地域政 策の主要課題になった。
一方、大臣演説においても、1979年のカンボジア紛争を境に、ASEANとの協調をより明確に 示された。例えば、1979年5月3日に開催されたナショナル・プレス・クラブでの大平正芳首相 の演説では、「インドシナ半島では、緊張と武力紛争が継続しております。わが国は、ベトナム、
114 カンボジア紛争に関しては、ナヤン・チャンダ(友田錫、滝上広水訳)『ブラザーエネミー―サイ ゴン陥落後のインドシナ』めこん, 1999, Elliot, David ed.,The Third Indochina Conflict, Boulder, Colorado: Westview Press, 1981を参照。
115 友田錫「日本のカンボジア外交―政治的役割の実験」『アジア研究所紀要』19, 1992 p.145.
116 外務省『外交青書』, 1980 p.20.
117 同上, 1981 pp.22-23.
カンボジア等のインドシナ諸国と対話のできる関係にある数少ない国の 1 つであり、今後とも
ASEAN 諸国および米国と協調しつつ、この地域に永続的な平和を回復すべく積極的な努力を払
ってまいりたいと考えております」118と述べられた。
また大平は、日・ASEAN 諸国との連携強化という観点から、インドシナ和平に言及した。例 えば、第88回国会(1979年9月3日)で、大平は、「ASEAN諸国との連携強化に一層努力する とともに、インドシナにおける平和回復のため積極的に寄与していく方針であります」119と述べ た。第91回国会(1980年1月25日)でも同様に、大平は、「我が国とASEAN諸国との友好・
協力関係は、現在あらゆる分野で良好であり、今後ともより緊密なものとするよう努めてまいる 考えであります。また、我が国は、インドシナ地域における事態を深く憂慮しており、ASEAN 諸国とともにこの地域における平和の回復のために努力を続ける考えであります」120と述べた。
さらに、第94回国会における外交演説(1981年1月26日)の中でも、伊東正義外相は、ASEAN との協調をうたうとともに、「インドシナ地域に恒久的な平和が実現した暁には、その復興のため できるだけの協力を行う考えであります」121と述べた。
対インドシナ地域政策において、日本がASEANとの協調をうたうようになった理由として、
以下の2点が挙げられる。
第1 の理由は、ASEANという組織自体が、インドシナの問題、とりわけカンボジア問題に対 して共同歩調を示すようになったからである。加盟国の間でカンボジア問題に対する認識に隔た りがあったのは事実である122。しかし同時に、ASEAN は、カンボジア問題において集団的外交 手腕を発揮するようになった。例えば、ASEAN は、国連などの場でベトナムのカンボジア侵攻 を非難し続けた。また、反ベトナム勢力の正統性を支持し続けてきた。こうした中で、日本も、
カンボジア和平において、存在感を発揮してきたASEANとの協調を重視するようになった。
第2 の理由として、ASEANに対する配慮が挙げられる。前述したように、福田ドクトリンに は、ASEAN 諸国からの反発に配慮するというレトリックがあった。さらに、ベトナムのカンボ ジア侵攻を機にASEANとベトナムの関係が一層冷却化してからは、よりASEANとの関係に配 慮しなければならなかった。特に日本の対ベトナム援助に関しては、ASEAN 諸国から「ベトナ ムの野望に手を貸すことになる」123と批判される可能性もあった。また、1981年1月には、対ベ トナム援助を展開する上において、事前にASEANと協議することを日本は表明した124。そのた めに、インドシナ地域政策は、ASEAN の意向に大きく拘束されるようになった125。好む好まざ るにかかわらず、「ASEANとの立場を考慮せずして、日本が独自にインドシナ政策を打ち出すこ とが困難であった」126。こうした点を踏まえると、カンボジア紛争期におけるASEANとの協力
118 大平正芳回想録刊行会・前掲書, 1982 p.295.
119 外務省『外交青書』, 1980 p.325.
120 同上, 1981 p.334.
121 同上, 1981 p.360.
122 例えば、タイ、シンガポールは、カンボジア侵攻を行ったベトナムに対して強硬姿勢をとってい た。他方、インドネシア、マレーシアは、ベトナムに対して柔軟な対応をとっていた。
123 園田直『世界・日本・愛』新潮社, 1981 p.191.
124 『讀賣新聞』朝刊, 5面, 1981年1月21日.
125 稲田・前掲論文, 1988 p.346.
126 同上
は半ば必然であった。
他方で、従来の福田ドクトリンの理念に基づき、対インドシナ地域政策に言及した大臣演説は、
カンボジア紛争期においては稀であった。この時期における対インドシナ地域政策はASEANと の協調という文脈で語られた127。
例外は、園田直外相による演説である。園田は、カンボジア問題の解決によって、福田ドクト リンを基盤とする地域政策の展開が可能になると論じた。具体的に、カンボジア国際会議におけ る園田による演説(1981年7月13日、ニューヨーク)で、「ASEANとインドシナとの関係がカ ンボディア問題のために停滞を見ていることは残念であります。カンボディア問題の正当かつ永 続的な解決をはかることの究極的な目標は、ASEAN とインドシナの間に平和と共存の体制を築 くことであると私は考えます」128と述べられた。
このように、大臣演説の中でほとんど言及はみられなかったものの、政策担当者は、従来の福 田ドクトリンの理念に基づく対インドシナ地域政策の構想を完全に放棄したわけではないと考え られる。事実、福田ドクトリン理念が、カンボジア紛争期にも継続して外務省内で存在していた と指摘する先行研究も存在する129。
第2項 カンボジア和平への取り組み
こうして、1980年代はカンボジア問題の解決が当面の課題となった。しかし1985年にミハイ ル・ゴルバチョフ政権が誕生し、米ソ対立と中ソ対立が緩和されるまで、日本が取りえる手段は 限定的であった。このような状況下において、日本は対インドシナ地域政策をどのように構想し ていたのかを、以下で確認していく。
ASEAN歴訪時における中曽根康弘首相によるクアラ・ルンプール・スピーチ(1983年5月8 日)においては、カンボジア問題が取り上げられた130。具体的に、「我が国としては、カンボディ ア問題の平和的解決のためのASEAN諸国の努力を引き続き支持するとともに、カンボディアに 真の平和が訪れた暁には、インドシナの復興のためにできるだけの協力を行う用意があることを ここに重ねて宣明いたします」131と述べられた。中曽根の演説によると、カンボジア和平達成後 におけるインドシナ地域の復興が模索された。
この中曽根の演説を皮切りに、カンボジア和平を見据えた上で、インドシナ地域全体の復興に 対する言及が大臣演説でもなされるようになった。例えば、ASEAN 拡大外相会議における安倍 晋太郎外相によるステートメント(1984年7月12日、ジャカルタ)でも、「カンボディア問題」
に言及した上で、「カンボディアに真の平和が訪れた暁には、我が国は、従来から明らかにしてい
127 福田ドクトリンの文脈で、対インドシナ地域政策に言及された背景には、園田のパーソナリティ ーによるところが大きいと考えられる。園田は、自身が会長を務める自民党の派閥である春秋会(園 田派)を1972年に解消した。その後は、福田派に合流し、福田赳夫を全面的に支持する姿勢をとった。
福田派の主要メンバーであるからこそ、園田は、福田ドクトリン的要素を外交演説で強調したのであ る。このような姿勢は、大平正芳内閣と鈴木善幸内閣の下で外相を務めた際にも引き続き継承された と考えられる。
128 外務省『外交青書』, 1982 pp.406-407.
129 アンドレア・前掲論文, 2014, 波多野・前掲論文, 2007.
130 外務省『外交青書』,1984 p.400.
131 同上, 1984 p.400.