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―3、「人間の羊」

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 53-58)

第三章 〈政治的人間〉の先駆―アメリカ人像―

第一節 ―3、「人間の羊」

この小説に登場するアメリカ人は、数人の兵隊である。白人とは明確に書かれ ていないが、白人の描写だけがある。

あいまいに頭をさげて、僕は郊外のキャンプへ帰る酔った外国兵たちの占めて いる後部座席の狭いすきまへ腰をおろしに行った。

アメリカ人の外見は、「長い膝」、「金色の荒い毛が密生した腕」、「牛のようにう るんで大きい眼」、「短い額」、「太く脂肪の赤い頸」などと描かれている。

「飼育」や「不意の唖」と同様に、ここでの描写もアメリカ人の巨人性を強調 し、それはまた非現実的な印象を与える。

日本人である主人公がアメリカ人に会う設定は、上記の二篇と違い、恐らく、

初めての出逢いではない。「不意の唖」では村の少年である主人公が初めて米兵を 見て、危ないと思うのに対して、「人間の羊」では米兵をバスで目にする主人公は 驚きもせず、アメリカ人を見ることにすでに慣れている。バスの他の乗客も、上 記の二編の村人と違い、アメリカ人に興味を示しはしない。むしろ、アメリカ人 を一所懸命見ないように努力をする。

日本人の乗客たちは両側の窓にそった長い座席に坐って兵隊たちの騒ぎから眼

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このような主人公や周りの日本人の態度の変化は、戦後日本の当時の状況を映 し、これまでの二篇とも連続性をもっている。第一節―2 で論じたように、ここ でも大江は、小説の設定を徐々に変えていくことで、アメリカ人に対する日本人 の態度の変化の流れをうまく捉えている。

偶然アメリカ人に出会う日本人がしばらく共生せざるを得ない、という基本的 な設定は前の二篇と一緒であるが、新しい要素としては、主人公が学生であると いう点がある。〈僕〉は外国文化(フランス文学)を勉強しているため、普通の日 本人より「外国」に馴染みがありそうで、外国人に関する知識もあるはずである。

ここにも前の二編からの変化が見られる。このような〈僕〉が日本人を代表して いるとするならば、そこには、終戦から多少時間が経ち、日本人がアメリカ人に 慣れていき、アメリカを含む「外国」のことを勉強するようになったという認識 が込められていると考えられる。「不意の唖」では、村人がアメリカ人と会う準備 はしていたが、それはまだ非日常的な出来事であったことに対して、「人間の羊」

では、それは日常の一部になっている。アメリカ人が日本の生活のあらゆる部分 に入り込んだ時代がここに映し出されている。

では、日本人とアメリカ人の出会いが日常的な出来事になったというのは、両 者の間に平和的関係が生まれたことを意味するのであろうか。否、それは平和で はない。確かに、日本人はこの時期までにアメリカ人の存在を心に受け入れたで あろう。しかし、その受け入れは、避けようもない事実の受け入れであった。小 説の描写をよく読むと、〈僕〉は直ぐ隣に座っているアメリカ人と自分の間に目の 見えない壁を置き、自分を防衛的、自閉的な姿勢にしていることがわかる。

僕は硬いシートの背に躰をもたせかけ、頭が硝子窓にぶつかるのを避けてうな だれた。バスが走りはじめると再び寒さが静かにバスの内部の空気をひたして いった。僕はゆっくり自分の中へ閉じこもった。

この引用から窺える通り、他の乗客もアメリカ人を見ないようにしたのは、同 じような壁を築くためであっただろう。初対面の時代がすでに終わり、もう誰も

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アメリカ人を珍しい動物のようには見ていない。むしろ、アメリカ人と日本人の 間に問題があり得るということは一般常識になり、日本人はできるだけアメリカ 人との関わりを避けようとしている。言ってみれば、このような日本人の態度は、

「不意の唖」の続きである。アメリカ人を気にしはしても、一所懸命無視してい れば、問題は避けられる、という態度は、少 なくともこの二つの小説の登場人物 に共通している。

この小説におけるアメリカ人の描写の重要な要素は、彼らが日本人に行った侮 辱的行為である。ロジャー・トーマスは

この小説の中では、ありそうもない部分は何処であろうか。その非現実性は日 本人の読者よりも外国人の読者の感覚を打つかも知れない。なぜなら、この小 説で特に空想的で信じ難いのは、外国兵の描写だからである62

と述べ、外国人の描写は信憑性の限界を超え ているとする。しかし、この外見の 描写は非現実的としても、このような非現実的な登場人物が非常に現実的な行為 を取る。戦時下の日本では、このような事件はあり得ないことではなかった。こ の行動は確かに読者を驚かせるものとして描かれているであろう。「羊ごっこ」と いうもの自体、明らかに日本的ではなく、キリスト教圏を起源とするものである。

小説の表題にもある「羊」とは、聖書などに出てくる「犠牲の羊」という概念を 思わせる。その西洋性、、「外 部」性を一層明確するために、「羊」という言葉は米 兵によって初めて口にされるという設定になっている。行動も、呼びかけも、暴 力によりなされる。犠牲にされた日本人は、米兵の理不尽な暴虐に さらされ、屈 辱をなめさせられる。紅野敏郎の表現を借り ると、「まさに占領下日本の、やりき れない、屈辱的風景と心情を描いたもの」である63。この設定は「不意の唖」の 村人と同じ状況である。

しかしこのような屈辱を受けながら、日本人は、直接抵抗しない。この設定も また「不意の唖」の続きである。木村幸夫の指摘がすでにあるが64、「唖」という 言葉は「不意の唖」よりは「人間の羊」で数多く繰り返し使われている。

屈辱が与えられている途中、日本人はただ黙って我慢する。しかし、なぜ抵抗 しなかったのであろうか。バスの中の日本人の人数は米兵より多い。他方、米兵

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は少なくとも一本のナイフを持っている。しかし、決定的なことは二つの表面的 な状況の違いではない。

車の前部にいる日本人の乗客たち、皮ジャンパーの青年や、中年の土工風の男 や、勤人たちが僕と女とを見つめていた。

僕は躰をちぢめ、レインコートの襟を立てた教員に、被害者のほほえみ、弱よ わしく軽い微笑をおくろうとしたが、教員は非難にみちた眼で僕を見かえすの だ。

とあるように、内面的には日本人は孤立している。それに対して米兵は団体であ る。ここは「不意の唖」と明らかに違う箇所である。「不意の唖」の村人は皆、団 体として唖になり、無口な抵抗をする。「人間の羊」の日本人は一人一人黙り込む。

それは抵抗ではなく、抑圧された沈黙である。

小説の後半の教員の行動は、アメリカ人を裁こうとするから、アメリカ人に対 する抵抗ではないのか、という問いが生じるかもしれない。しかし、それは抵抗 ではない。その行動は遅く、侮辱を加えた米兵たちを裁きようもない。米兵はす でに去ってしまい、危険も去り、侮辱的行為もすでに終わっている。第二に、そ の行動は侮辱を受けたものを助けるものではなく、反対に侮辱を加えようとする。

第三に、教員の目的は自分の正義と思う思想を実現することのみにあり、この事 件をただよい機会として使おうとしている印象が強い。Sminkey は、教員は当時 の政府に属する人物の喩えであり、日本人とアメリカ人の間に起こる問題を自分 のために利用しようとしている者であると述べている65。また、木村もその教員 を〈政治的人間〉と定義する66

興味深いことに、ここで犠牲者はアメリカ人に何の抵抗もしない。すでに紹介 したグリブニンの論はまたここでも当てはまる。グリブニンは、それは勝利者に 対する「奴隷の意識の所為」だとする(Все та же рабская психология.)67。しか しそれはむしろ、侮辱が終わった時点で侮辱を拒否し忘れようとする犠牲者の防 衛的な意識ではなかろうか。侮辱について悩んだり反論したりすると、その恥ず かしさは続くが、忘れようと思えばいくらか心が安らぐであろう。「飼育」でも〈僕〉

は黒人兵を恨まない。「不意の唖」に関する項でも既述したように、村人はアメリ

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カ人の代わりに通訳を恨む。「人間の羊」で唯一意義を唱える人物は教員である。

この人物は被害者ではないからこそ反論が言えるのだと考えられる。そしてその 意義が発されるのはすでに米兵が去り、反論を受ける者がいないときである。、教 員の反論は、アメリカ人には向けられていない。教員は周りの人に、自分が反論 を言う人間だということを見せたいだけである。

また、問題の起こり方も重要である。総ては日本人娼婦の行動のために起こっ たという設定になっている。これは「飼育」や「不意の唖」の設定の繰り返しで あるが、日本人とアメリカ人の間のトラブルには、日本人も関わっているという 認識の表れである。

もう一つの面からこの小説を見てみよう。「羊」の動物性は、「飼育」の動物的 なモチーフと響き会う。「人間の羊」における米兵の描写は、「飼育」の黒人兵の それとまでは行かないが、巨人でありと暴力的であるため、非人間的、動物的で ある。「獣」のような米兵が日本人の青年に暴力を振るい、青年もまた動物の〈羊〉

になる。

僕は孤独だった、鼬罠にとらえられた鼬のように見棄てられ、孤りぽっちで絶 望しきっていた。

とあるように、「飼育」では、人質になった〈僕〉は自分のことを小さい動物のよ うに感じる。それに対して「人間の羊」では

僕は彼らの列の最後に連なる《羊》だった。

とあるように、〈僕〉は「飼育」で描かれたイメージよりももっと具体的に、「羊」

として自分を感じる。二篇の小説において、米兵の属性としてある動物的な要素 が主人公にのり移り、主人公はそれを否定し振り落とすことができない。米兵の 行動により、「人間の羊」の〈僕〉は「飼育」の〈僕〉と同様に、周りの日本人と は異なる存在になり、元の自分には戻れなくなる。ここからは小説の題名の意義 が「飼育」と「不意の唖」と同類のものであることが分かる。タイトルはアメリ カ人と日本人双方に関わっているのである。

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 53-58)