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活動範囲と主人公の関係

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 136-142)

第七章 〈政治的人間〉と〈性的人間〉の止揚

第一節、 活動範囲と主人公の関係

筆者が大江の定義にとらわれずに、定義から逸脱して考察したいのは〈政治的 人間〉と〈性的人間〉の活動範囲である。主人公の特徴として小説 中に現れてい るものではあるが、大江の定義にはない点である。〈性的人間〉は狭い範囲を好み、

極く限られたスペースの中でのみ行動する。

「性的人間」においては、この狭いスペースはまずは〈J〉が冒頭に乗る車に代 表される。定員五人の車で七人も乗っているこの車はいかに狭く、人や荷物に溢 れすぎているかが、数ページに渡る説明から窺える。そのジャガーは大きいとい う設定になっているが、大きさは外面的であり、内側は全員がろくに座れないほ ど狭くなっている。

ジャガーが通る村では、家に閉じこもっている女とその家の周りに集まってい る村人というシーンを主人公が見る。閉じこもりの女は大江の定義に 見られる「他 者と対立できない」という点に当てはまることができるため、明らかに〈性的人

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間〉であり、村人に圧迫されている。このシーンは後ほどの〈J〉の家を囲む村人 のシーンの予告でもある。女の状態は、大江の初期小説に見られる〈監禁状態〉

というテーマの反響でもある。女は自分の希望でその状況に置かれている訳では なく、村人に閉じこめられている。これは初期小説の設定と同じである。

〈J〉の別荘も広いものの、限られたスペースである。村から離れ、外れにある 場所であって、上記の女の家と同様に村人に疎外されている。その別荘を持つよ うになった〈J〉は始めから「湾までおりてくることを恐がっていた」し、村人が 別荘の周りに集まると、〈J〉は恐がって庭に出られなかった。

「性的人間」の後半における限られたスペースは、電車に代表される。〈J〉は 痴漢活動の現場として地下鉄を選び、小説後半の多くの出来事はそこで展開され る。さらに、主人公たちが会う場所としては他にバーやアパートぐらいしかなく、

ほとんどのシーンは限られたスペースで行われる。地下鉄以外でも痴漢の場所と しての電車は当然であるとは言えるが、必ずしもそうではない。〈J〉が思い出す 数百万人のデモの時に起きた痴漢のストーリーはその証左である。デモという空 間的に限られていない状況で起こる痴漢は、電車の中の痴漢とは違うが、〈J〉に 選択肢がない訳ではない。しかし 〈J〉はわざと限られた空間である地下に入り、

さらに限られた空間の電車を活動範囲として選ぶ。限られた空間の安全感を忘れ られないからである。

「セヴンティーン」における限られた空間は〈おれ〉が住んでいる物置である。

家族からも離れて一畳のスペースを作って住む〈おれ〉は〈J〉と同様に限られた 空間を好む。

では、この限られた空間の意味は如何なるものであろうか。〈性的人間〉は限ら れた空間を安全地帯として求めている。周りの世界、周りの〈政治的人間〉の圧 迫から我が身を守る試みとして、その周りの世界と自分の間に何かの壁を置いて おけば少しでも安心できるという動機がここに見られる。その隠れ場は小さけれ ば小さいほど、世界の人が見逃しやすくなり、その中に閉じこもる間だけでも世 界の人の批判的な目から主人公を放っておくであろう。その中にいる時に限り、

主人公はある程度自由を感じる。〈J〉はその別荘で自分の理想の〈性の小世界〉

を作り、〈おれ〉は夢想の敵を日本刀で斬っている。

次に「性的人間」における村の疎外された女の家と〈J〉の別荘の違いについて

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考え たい 。上 記で 述べ た通 り、 女の 家は 初期 小説 の〈 監禁 状態 〉の 影で ある が、

〈J〉の別荘はこのテーマの発展型である。小説の始まりの〈J〉のジャガーは監 禁された女の家の側を止まらずに通り抜けることも、シンボリックである。この 車も発展型の限られた空間であると考えれば、女の家を後にすることは大江の小 説における旧型の〈監禁状態〉から発展型の限られた空間への移動のたとえとし て捉えられる。〈監禁状態〉におかれる初期小説の主人公は、周りの圧迫や生活の 状況によってその状態に陥る。初期小説の主人公は好んでその限られた空間を選 ぶ訳ではない。これは特に青年刑務所を描写する「鳩」(『文学界』一九五八年三 月号)という短編小説で最も明らかであろう。この小説は未成年犯罪者の少年院で の生活を描き、逃げる道もない主人公の〈僕〉は獄中の幾つかの事件を乗り越え てやがて脱走を試みる。足の骨折を願いながら少年院の壁から下の川に飛び降り る〈僕〉の描写で小説が終わるが、脱走は旨く終わることを予想させない暗い描 写である。不自由に閉じ込められている主人公の状態の説明には、刑務所という 舞台は明示的である。他の小説でもこの不自由は明確に読み取れる。この初期型 の限られた空間を〈J〉は通り過ぎて、自分の意思で選んだ新しい発展型の限られ た空間である別荘へ向かう。

、中期小説に見られる限られた空間は初期小説と対照的に、主人公が自らの手 で作る。監禁状態を脱出したい初期小説の主人公とは逆に、中期小説の主人公は 限られた空間を自ら選び離れようとしない。外の自由を求める初期小説の主人公 に対して、中期小説の主人公は限られた空間の安全感を求める。

Napierの指摘では、「性的人間」の主人公は

〔前略〕世界に疎外さえされていない。それより、彼らは世界を疎外するのを 選んで、自らの世界を作る〔後略〕。

(…they have not even been rejected by the world. Rather, they choose to reject the world and create their own…)129.

筆者は上記の指摘の後半には賛成するが、前半に関しては反論したい。「性的人 間」の〈J〉に関して、上記の指摘は恐らく小説の冒頭文辺りを示している。確か に〈J〉は無事に村を通り過ぎて別荘へたどり着いている。小説の前半の終わり頃

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まで村人は現れない。とすると、〈J〉が疎外されているとは明確に書かれていな い。しかし、〈J〉の車が村を通り過ぎる途中に、下記のような記述がある。

ジャガーが接近すると確かに人々は静かにスムーズに敷石道の両側の家々の軒 先にしりぞいた。そのときかれらはもう、車とそのなかの七人に対して好奇心 をいだいていないようだった。むしろまったく無関心にさえ見えた。

この村人の見る目は筆者の解釈では〈J〉たちを疎外する意味を暗示している。

村人には〈J〉はヨソの者であり、決して村の小世界の人々と同じように見えない。

また、上記ですでに言及した別荘の位置、〈J〉が閉じこもる空間は村の外れにあ ることも同じ事を暗示していると思われる。〈J〉はその村人の圧迫を恐れながら 自分の小世界の空間へ逃げ込む。後ほど村人が別荘を囲む時には、この疎外と圧 迫はより明確になる。

「性的人間」の後半に関しては、〈J〉は最初から周りの人に疎外されていない と解釈されやすい。〈J〉の痴漢行為は秘密であり、周りの人に知られていない限 り〈J〉は周りの人と同じように見えて疎外されていないように 見える。しかし、

ここも細かいディテールに注意すれば疎外の暗示が見て取れる。一番分かりやす いのは〈J〉の妻の脱走である。〈J〉の妻は徐々に〈J〉と話さなくなり、結局〈J〉

を捨てて〈カメラマン〉と付き合うようになる。〈J〉の妻は恐らく〈J〉の性質を 誰よりも深く知るようになったために〈J〉と離れざるを得なかった。ちょうど妻 と離れる頃は〈J〉の痴漢行為の始まりになった。

なお、この空間は、主人公が〈政治的人間〉になろうとする時点で消える。「性 的人間」では〈J〉が痴漢になろうと決めた時、妻と住んでいたアパートから離れ る。この場合は痴漢行為は痴漢被害者の意志を押し切って行われるものであるか ら、〈政治的人間〉らしい行為であると解釈される。「セヴンティーン」では〈お れ〉は右翼運動に参加すると、同じく家を出て右翼の本部で暮らすことになる。

両方の場所の展開は、主人公が周りの広い世界に出意味を持っている。この時 点から、〈性的人間〉は〈政治的人間〉に化ける努力をする。それは大江の定義の

「他者と硬く冷たい関係をもたぬ」態度を捨てることと同義になり、実作におけ る理想的な定義の逸脱の一つにもなる。

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では、〈J〉の場合に、「住んだアパートを離れる=外に出る 」という解釈と「電 車=限られた空間」という二つの解釈は矛盾 しないのかが、問題になる。〈J〉は 狭い小世界から出としたら、電車は同じ狭い世界であり得ないのではないのか。

確かに電車は別荘とアパートと違う。大勢の人が同時にいて、〈J〉がわざと人に 溢れている混雑時間を選ぶ。 ただし、限られた空間性もここにあって、〈J〉の痴 漢行為は周りに立っている人に見えない。〈J〉と痴漢被害者の二人だけの壁の見 えない限られた空間がその場にできると言えば間違いないであろう。

同様に「セヴンティーン」の〈おれ〉も隠れ場の物置から外へ出たとは言って も、右翼としての行動の時に見えない壁の中に動く。その一例として、「 政治少年 死す」にある広島デモというエピソードに 見られる〈おれ〉と全学連の学生の戦 いの場面が挙げられる。太文字の「映画」で始まるこの場面は、確かに主人公の 目で見るような映画の脚本の文体で書かれ、主人公は目の前に見られる襲い掛か るその瞬間だけの相手しか映らない。「性的人間」の 〈J〉の痴漢行動の時と同じ 壁の見えない限られた空間がその場にできる。

この壁の見えない限られた空間が必要である理由は、主人公の〈性的人間〉性 質である。

〈政治的人間〉に化けようとする〈J〉と〈おれ〉は自分の〈性的人間〉の本質 を変えられない。だからこそ主人公は〈性的人間〉にとって慣れた状況のような 場面を行動場所として選ぶものと考える。周りの世界との対面の試みをする主人 公は自分の中の〈性的人間〉を感じ続けている。

〈政治的人間〉に化けようとする〈性的人間〉の新しく作られた仮の安全空間 はしかし、主人公を完全に護りきっていない。この仮の空間は従来の主人公が馴 れている空間と違う。ここで暗示的なのは、主人公が選ぶ仮の安全空間は現存す る場所ではないということである。両方の主人公の見えない壁の空間は大勢の人 の真ん中であるし、常に動いていることは特徴的である。〈おれ〉の場合は、その 空間は〈おれ〉が暴力を振る相手から相手へ跳ぶと共に移動している。〈J〉の場 合は電車は常に動いている。そして両方の行き先は二人とも意識せずに気にして いない。大江はこの空間はアンリアルであると、上記の様に何重にも重ねた不自 然性を描く。Napier の表現を借りれば、これは無世界(non-world)130である。

主人公はこの仮の空間が欺瞞であると徐々に悟っていく。主人公は見えない壁

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