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―1、白人と黒人との対立

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 69-73)

第三章 〈政治的人間〉の先駆―アメリカ人像―

第二節 ―1、白人と黒人との対立

ここまで論じてきた六篇の小説の中でアメリカ人の登場人物は、白人か黒人で あった。それぞれの小説における白人と黒人の登場人物にはそれなりの理由があ ったが、ここではその対立がどのようなものであったかを、より詳しく論じる。

「飼育」には白人は直接出てこないが、暗示されている箇所はある。例えば、

「敵、あいつが敵だって?」、「黒んぼだぜ、敵なもんか」、「黒んぼは敵じゃない からな」という〈兎口〉の発言がある。米軍人は白人であるというイメージが戦 争中には強く、黒人は意外であったことを意味する。しかし、時代が進み日本人 が黒人を見ることに馴れてゆくため、「暗い川、おもい櫂」や「戦いの今日」で 出てくる黒人はそのような驚きを起こさない。

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先にすでに言及したように、Hillenbrandは、大江は当時の日本における黒人の ステレオタイプを意識的に使うと述べている68。その固定観念とは強力な大男、

臭いがする、幼稚、原始的、凶暴といったものである。ただし、臭いに関しては 主人公が《敵》に関して言っており、また後の「戦いの今日」では白人の主人公 のことも臭うと言っている。固定観念の意識的な使用により、大江は表現したい アイディアを強調する。

「飼育」において、仮に黒人を白人と取り替えたならば、同じストーリーには ならなかったであろう。この点を理解するには、「飼育」とよく似た設定になっ ている「不意の唖」と比較するとよい。そこでは村人は警戒と恐怖の交じった不 安感で外国兵を見てはいるが、外国兵は異人として排斥されるとともに憧憬の対 象としても描かれている。その外国兵は「まっ白な皮膚と陽に輝やく金色の体毛 とをもって」いる白人であった。また、「不意の唖」の白人兵が「外国兵」と表 現されて、日本の外の意味を包括する領域の「外国」を意味しているのに対して、

「飼育」の黒人兵は彼が黒人であることが分かった時点から「敵」の意味領域か らはずれ、「黒んぼ」という差別的な意味しか持たなくなっている。

このような白人兵と黒人兵の表象の違いは「飼育」における黒人兵のモチーフ を考える際、最も重要な意義を持つであろう。同じ外国兵でありながらも白人が 憧憬の対象になるのに対して、黒人は動物的なイメージに形象されるという「白 人対黒人」の対立的な構図は、大江が白人と黒人を作品の構成のために使い分け ていたことを示しているからである。例えば「飼育」においては、「村」に下り てきた「異人」が黒人兵であったからこそ、動物的なイメージあるいは村人の認 識が彼に向けられた。そして「飼育」は大江の解説によると、「監禁されている 状態・閉ざされた壁の中に生きる状態」69というモチーフの小説であるため、監 禁され飼育される黒人兵という存在は、戦前から戦後に変わる時代状況を示すた めに設定されているようである。

黒人兵は「村」にとって異人だったから動物的な存在として見られたのではな く、黒い肌を持っている黒人だったから動物的な存在になり、そして「飼育」の 中で飼育される側として機能しているのである。

「あいつは獣同然だ」と黒人兵を野蛮な動物に見立てる村人の視線 は、「黒人 兵=黒んぼ」という、すでに「村」の中で流布している黒人のイメージに基づい

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ている。〈僕〉と兎口が黒人兵を最初から「黒んぼ」と認識し、「黒んぼだぜ、

敵なもんか」と黒んぼだから「敵」ではないと考えるなど、村人の認識は黒人兵 が村に入ってきた時点ではなく、すでに意識の内部に根を張っていたものである。

白人が村に降りてきたら、敵対意識が消えず、同じアメリカ人でも完全に違う扱 いをされたはずである。

黒人兵に対する村人の意識は、《町》の村に対する意識の影響も 受けていると すでに述べたが、兪承昌は、それは近代欧米文明の黒人に対する視線の反映であ ると述べる70。その概念は主に西欧文明の優越意識に基づいた野蛮の象徴として の黒人認識である。要するに、黒人兵は「飼育」の差別構造を近代文明論的な差 別構造につなげる機能をしている。このような解釈はできるかも知れないが、大 江が小さい山村を描く際に欧米文明の人種差別的な概念を念頭に 置いていたかは、

筆者は疑問に思う。第三章の第一節で論じたように、これらの小説における黒人 への態度は、むしろ日本の一般的なステレオタイプであるから、欧米文明の人種 差別的な概念とは違う概念である。さらに、小さい山村に置かれた主人公は、日 本の周りの世界から切り離されている以上、同じ日本の他の土地からも切り離さ れているから、その周りの世界の概念を知って抱くことはあり得ないと筆者は解 釈している。「飼育」におけるこの村の切り離れた様は冒頭文の「村から《町》

への近道の釣橋を山崩れが押しつぶす」という文章で最初から表現されているが、

村の他の世界への唯一の繋がりは片足でゆっくりと稀にしか来ない〈書記〉であ ったこともこれに加わる。日本が戦争時代に周りの世界から切り離されているの と同様に、同じ日本の他の土地からも切り離されているから、そ の周りの世界の 概念を知っていることはあり得ないように思われる。周りの世界の影響をほとん ど受けていないという設定になっている小説の山村には、その周りの世界の概念 が入ることはありえない。しかし、確かにこの小説では黒人は野蛮な扱い方を受 け、村人は黒人兵を自分たちよりも低い身分の存在とみなしている。

また、右の兪の論に従うと、黒人兵はいつも動物的な扱いをされるはずである が、次に黒人が出てくる小説、「暗い川、おもい櫂」ではそうではない。主人公の

〈僕〉は黒人兵を「大したやつ」と思い、黒人に会ったことを嬉しく思っている。

更に「戦いの今日」では、黒人は高度な教育を受けている者もいるということが 強調されている。時代が進むごとに変化して行く日本人の黒人に対する意識の変

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化がこのような描写の違いになっていると思われる。日本人は戦争中には黒人の ことをほとんど知らなかったので、「飼育」では動物的な扱いになった。しかし、

占領時代は黒人兵も多数日本に上陸したから、黒人への興味や関心も大きくなっ た。その試みは「暗い川、おもい櫂」で描かれている。そしてある程度の時間が 経って「戦いの今日」で描かれているように、日本人はすでに黒人について多く の知識を持つようになった。そして日本人の黒人に対する態度も変わった。

黒人のイメージに進歩が見られるようになっても、白人の登場人物のほうがま だ多い。その白人兵に対してもステレオタイプ的な描写は非常に多く、アメリカ 人=白人=金髪大男という設定は何回も繰り返されている。しかし、その描写も 日本人のアメリカ人に対する知識が増えるとともに少しずつ変わって行くという 点は重要である。「戦いの今日」で大江は 、当時の日本人にはおそらく信じがたい ような弱い白人を描く。この描写は勝利者であり占領者であり圧迫者であるアメ リカ人のイメージと相反している。しかし、完全に弱者にすることもあまり意味 がないためか、小説の最後にそのアメリカ人も 権力を誇示する設定になっている。

では、「戦いの今日」の〈アシュレイ〉を黒人兵で置き換えることは可能であろ うか。否、このような取り替え方はストーリーを壊すであろう。なぜなら、白人 と黒人はまだ同じ扱いではなく、強くて乱暴な者という黒人兵に対するステレオ タイプはまだ残っている。設定としては〈アシュレイ〉は弱者であるが乱暴な弱 者はあり得ないから大江は主人公として白人を描いたのであろう。

このような白人と黒人の扱い方の差は、戦後の日本の現状を表している。しか し、大江はそれよりも細かく白人と黒人を見ている。アメリカ人同士の間で存在 する肌の色の差別は日本にもアメリカ人と一緒に伝わったということに大江は気 づいている。、それは占領時代が日本に紹介したアメリカの文化のネガティブな一 面である。「戦いの今日」では娼婦〈菊栄〉の悩みを聞く憲兵隊は、〈菊栄〉の話 が黒人のことであると分かった途端に聞かなくなり「ニッガー」と呟く。この人 種差別は〈菊栄〉ら日本人には不愉快に感じられる。大江はこれ によってわざと 日本人主人公の黒人に対する態度を優しくさせているようである。ここまでの小 説の流れで見ても黒人に対する態度は徐々にと好意的になることから、大江が日 本における黒人に対する差別がなくなるように希望を持って描いたのではないか と解釈できる。

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 69-73)