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「憂国」のロシア語訳と〈政治的〉と〈性的〉のモチーフの

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 122-129)

第六章 同時代における〈政治〉と〈性〉

第四節、 「憂国」のロシア語訳と〈政治的〉と〈性的〉のモチーフの

ここでは、ソ連の翻訳112において三島の小説がどういう形を取り、どういう解 釈をもたらすかを考えるために、「憂国」の原文とその翻訳を比較する。

本稿はすでに第四章で大江健三郎の「飼育」のロシア語訳を論じた際に同じ方 法を取っている。そこからは、原文で見えにくい主人公同士の関係の特徴が分か ったため、これは効果的な方法であったと判断される。従って「憂国」のロシア 語訳も同じ方法で扱い、「憂国」の新たな解釈を探る。本節の仮説は、「憂国」の ロシア語訳は「飼育」や「不意の唖」の翻訳と同様に、〈性的〉な側面を削除する が、それによって出来上がった翻訳小説における主人公の関係は原作に見られる 関係と違ってくる、というものである。

「憂国」の翻訳は G.チハルティスヴィリになされ、大江の翻訳も発表された雑 誌『外国文学』の一九八八年十号に発表された。グリゴリー・シャルヴォヴィチ・

チハルティスヴィリ(Григорий Шалвович Чхартишвили、一九五六年生まれ)は ソ連と現代ロシアの著名な日本研究者であり、現在は社会活動や作家としても名 がある。日本専門家としてアジアアフリカ大学を卒業し、雑誌『外国文学』で勤 めながら現代日本文学と英語文学の翻訳と出版に取り関わった。うちに三島由紀 夫、丸山健二、井上靖、島田雅彦、安部公房、開高健などの小説を翻訳した。氏 は日本文学と日本文化を紹介した功績により二〇〇九年に旭日小綬章を受章した。

資料VIIIは翻訳の分析の結果を表にまとめたものである。翻訳文を原文に照ら し合わせ、異同を見つけ出し、翻訳文を日本語に再訳した。

異同に関しては、それがなされた理由をそれぞれに推測した。

原文の定本は初出を扱う。

表中の記号は、網がけは削除された箇所、傍線は追加された文書、波線は置き 換えた表現に当たる。以下の分析における番号は表内の番号である。

分析した結果、異同の総数は十七ヵ所であった。

まず、性的な表現の緩和や削除は 五 ヵ所あり。 一 番のように、細かい所を削除 したり表現をより和らげた訳となっている。特にこの 一 番の場面は、政治的な内 容に満たされた第一節と第二節のすぐ後に置かれた場面であり、 小説に出てくる 初めてのエロスの要素である。この場面で作家は後ほどのエロスに満たされる第

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三節末を暗示・予告し、読者に後ほどのエロスの世界の味見だけを させる。その まま食事の比喩を続けると、読者の食欲を刺激させ、読者が後に来るメイン料理 を待ちかねるようになる。

(原文)演習のかえりの埃だらけの軍服を脱ぐ間ももどかしく、帰宅するなり 中尉は新妻をその場に押し倒すことも一再でなかった。

(翻訳 ) 演 習のか えり の埃だ らけ の軍 服を 脱 ぐ間も もど かし く、 帰 宅するな り中尉は新妻を抱きたしめたくてたまらなくなったことも一再でなかった。

(часто, вернувшись со службы, поручик не успевал даже скинуть пропыленный мундир, так не терпелось ему заключить в объятия молодую жену.)

上記のように、この場面で原文の「その場に押し倒す」という明確な性的な意 味を持つ表現は、翻訳で「抱き締めたい」という曖昧な表現になった。結果とし ては、前半の性的なテンションが一気に下がり、ほとんど消えてしまう。更に、

この場面で〈性〉性が薄くなったことで、後ほどのベッド・シーンの〈性的〉性 も薄まる。この結果からこそ、この場面の大事さが明確に見えるようになる。数 限られた言葉によって、小説前半の感覚が変わることからは、逆説的に作家三島 の技量が改めて示されるとも言える。

第三節末のベッド・シーンは、翻訳では全削除には至らなかった。Napier の評論 では、

〔前略〕このシーンは三島が書いたもので一番エロティックなものであり、恋 する人の情を爛熟にもポルノグラフィーにも 陥らずに書くことができた。

(…this scene is the most erotic one Mishima ever wrote, managing to demonstrate the lovers’ passion without descending into either overripeness or pornography.)。113

と述べられている。このシーンが丸ごとの削除を逃れたことで、テキストはほ ぼその本来の姿でロシアの読者に届けられることとなった。特に大江健三郎の「飼 育」のロシア語訳に見えた性的な場面の丸ごと削除と対比してみればこれは大き な違いであり、翻訳の時代性が浮かび上がる。まとめると、「憂国」のロシア語

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訳は「飼育」のロシア語訳よりも自由な時代に発表されたため、検閲でもそのま ま通ったと考えられる。こういった歴史的な背景については第四章の第二節で論 じたが、「憂国」は所謂「ペレストロイカ」、ソ連のイデオロギーと国の思想の 方針が変わった時代に出版された。その時代以前に厳禁であったテーマの一部は 発表許可を得て、検閲も一段と緩くなった。故に「憂国」のロシア語訳は「飼育」

のロシア語訳より出版環境に恵まれたと言える。

しかし、表の 八 番に見られるように、「逞ましい胸とその樺色の乳首に接吻し た」という文章から直接的性用語である「乳首」が翻訳で消えたよ うに、丸ごと 削除はされなかったものの、このベッド・シーンの数カ所はまた削除された。それ らは性的な表現の中でも一番テンションの高い、最も高揚した箇所であると考え られるものである。その削除によって全体的な 高揚感も低くなる効果が見られる。

庭園技師が潅木の際だって突き出る枝を切って潅木全体を低く平凡な形にするよ うに、この削除によって、ベッド・シーンは全体に平板化・凡庸化したと言える。

感情的な表現の削除と置き換えも、性的な表現の削除に関わるものであり、小 説全体の〈性〉的なモチーフの印象を薄くする効果があると思われる。例えば 十 番に、

中尉は雄々しく身を起こし、悲しみと涙にぐったりした妻の体を、力強い腕に 抱きしめた。

(Поручик сжал в могучих объятиях горько плачущую жену.)

とあるように、〈武山〉の描写の一部が削除されたことによって、この一文の感 情性が弱まることが分かる。これらの削除の内には、中尉の目で見られる〈麗子〉

に関する表現があるが、中尉自身に関する表現もある。後者に関しては、Cornyetz が指摘している「三島の男色趣味によるもの」114に当たる。Napierもこの箇所を

「 明 ら か に 男 色 エ ロ テ ィ ズ ム の 感 触 が あ る 」 (Obviously there is a touch of

homoerotic in that.)115と言及している。これらは恐らく検閲で通らなかった箇所

である。男色というテーマは、猥褻の極地に当たるとソ連では考えられ、男女関 係の性描写よりも厳しく検閲された。上記で挙げた十番の削除はここに属する。

政治的な表現の削除に関しては、愛国主義・軍国主義に満ちた表現は検閲を通

120 らなかった。例えば十四番、

戦場の決戦と等しい覚悟の要る、戦場の死と同等同質の死である。

(Ибо ожидающая его смерть не менее почетна, чем гибель на поле брани.)

とある。この文章は「天皇陛下のため」と告がれる自殺を雄々しい戦死に等しく するものであるため、検閲を通らなかったと考えられる。この明らかに軍国主義 的な文章は、前半の削除によって思想的な内容を失う。資料IV116で挙げられてい るように、「主要な問題に関して我が国に敵対的なイデオロギーを流布 する如何な る出版物も許可しないこと」(В недопущении всякого рода печатных произведений, через которые проводится враждебная нам идеология в основных вопросах)は検閲 の一つの重要項目であった。ソビエト政権は平和主義を標榜していたため、軍国 主義を協調する十四番と、天皇を万能神と立てる十五番が消されたのであろう。

異同理由の不明な箇所は表現上の置き換え・部分的な削除である。翻訳困難と いう理由も考えられるが、見当が付かない箇所もある。翻訳便宜上のものと考え られる箇所は例えば十一番である。この箇所は何重にも重ねられた説明の文章で あるため、翻訳では同じ構造で書くのは困難であったのだろう。この文章を短く 切る方法もあったであろうが、訳者は結局全文を短くしただけである。

異同理由の見当が付かないのは、例えば五番がある。前後の文脈で燗のことは 書かれているものの、この文章の火鉢を燗で置き換える必要性は 不明である。

また、これに近い異同に訳者の誤解と見られる二箇所がある。二番は文法的に 複雑な繋がりの文章であるために誤解されたのかも知れない。若しくは文化的な 説明が必要であったため、訳者がわざと簡略化した可能性もある。神棚と榊は日 本の文化において日常的なものであるが、翻訳ではその関係と営み についての説 明がない限り読者には理解不可能な文章になったかも知れない。

四番に関しては、漢字の読み取りの誤解であったと考えられるが、訳者は日本 語の達人として有名なチハルティシヴィリであり、このような単純な理由の異同 であったとは一概に言えない。にも関わらず、わざと〈栗鼠〉を〈土竜〉と置き 換える理由は見当もつかないから、たまたまの間違いであったとしか考えられな い箇所である。

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 122-129)