• 検索結果がありません。

―1、「飼育」

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 37-46)

第三章 〈政治的人間〉の先駆―アメリカ人像―

第一節 ―1、「飼育」

第一節― 1、「飼育」

「飼育」に出てくるアメリカ人は、一人の黒人兵である。

その登場人物に大江がどのような外見を与えたか、見てみよう。

黒人兵は「背が高く」、「皮膚は非常に黒く」、「指が太く」、「足が非常に長い」、

といった描き方である。それはどう見ても、日本における黒人に関するステレオ タイプ的な描き方である。Hillenbrand の論によると、大江は当時の日本における 黒人のステレオタイプを意識的に使う。

大江によるピーターソンの性格と外見の描き方は、黒人にまつわるほぼありと あらゆる日本の決まり文句を援用している。(中略)大江は一般的な日本人の偏 見をわざとこのテキストに使うことによって 、ピーターソンの人種を確実に問 題化しようとするのである。

Ōe’s delineation of Peterson’s character and physical attributes subscribes virtually every Japanese cliché in circulation about kokujin.(…)Ōe plays up to commonly held Japanese prejudices in this text as a means of making Peterson’s race an unmissable issue51.

このステレオタイプを使うことにより、読者に想像しやすいイメージ が与えら れる。黒人とはまず、恐ろしく、原始的で凶暴な巨人である。

だが黒人の原始的な姿は、村民の描き方にも重なる。兪承昌の指摘52の通 り 、 黒人の描き方は村民の描き方とほぼ一致するが、黒人は村民により軽蔑されてい る。《町》の人の村人に対する軽蔑を、村人はそのまま黒人に移すのである。最初 は《敵》(=人間)であった黒人は、すぐに動物化され、〈獣〉になり、更に〈家

33 畜〉になる。

そのような描写が如何なる目的を持つのかを考察してみよう。

「飼育」における黒人兵は、監禁され飼育される対象として登場する。この監 禁される対象としての黒人兵は、人間としての存在意義を認められず、村人の視 線によって動物化され、また家畜のごとく認識される。「飼育」という作品のタ イトル自体が、監禁される対象が他人によって支配され服従させられることと、

一般的に人間以外の動物が対象であることを含意する語であることを考え合わせ ると、作品の全体的な構図は、飼育する側と飼育される側という主従関係に基づ いた権力構造に支えられていることが分かる。、黒人兵の存在の意味は、その当 初から家畜のごとく飼育され利用される人間として位置づけられているのである。

「どうするの、あいつ」と僕は思い切って訊ねた。

「町の考えがわかるまで飼う」

「飼う」と驚いて僕はいった。「動物みたいに ?」

「あいつは獣同然だ」と重おもしく父がいった。

「躰中、牛の臭いがする」〔中略〕

黒人兵を飼う、僕は躰を自分の腕でだきしめた。僕は裸になって叫びたかった。

黒人兵を獣のように飼う (傍線引用者)

「飼育」の冒頭では、村人は外国兵を「敵」として認識し、そこに恐怖を感じ ている。しかし、右の引用で分かるように、相手が黒人であることを知ってから は、村人の中に「敵」としての認識は薄れる。「あいつは獣同然だ」と、動物的 な存在として黒人兵を認識し、黒人兵から人間としての意味を消してしまうので ある。先述したように、それは全体的に、日本における黒人のステレオタイプに よく当てはまり、読者に驚きを与えない。しかし、黒人の代わりに白人であった ら、このような設定はあり得なかったのではないだろうか。この点について詳し くは同章第二節で論じる。

黒人兵を村民と区別するもう一つ重要なアスペクトは言葉である。しかしこの 作品の黒人兵は、後ほどの「人間の羊」のアメリカ人のように、言葉が分からな いわけではない。Orbaughの指摘では、黒人兵は「一言も話さない」(He never speaks

34

a word)53.この指摘は基本的にはその通りであり(ただし黒人兵が歌を歌う場面

があり、歌は当然何らかの言葉からなる)、黒人兵から主人公に向けられた言葉 は確かに一言もない。唯一コミュニケーションの取れた箇所は、下記の通りであ る。

それから急に彼は黒く輝く額をあげて僕を見つめ、身ぶりで彼の要求を示した。

僕は兎口と顔を見合せながら、頬をゆるめときほぐす喜びを押さえることがで きない。

黒人兵が僕らに語りかける 、家畜が僕らに語りかけるように、黒人兵が語りか ける。(傍線引用者)

上記の引用から窺えるように、黒人本人は言葉によるコミュニケーションをと ろうともせず、身振り手振りで済む。主人公と他の子供も、黒人に向かって言葉 で話しかけることはない。これは言葉が通じない状態というよりもコミュニケー ション不足の状態であり、言葉を交わそうともしない登場人物同士の関係である。

この関係は日本人と黒人兵の差をより際立たせる。

一条孝夫は黒人兵に対する村人の視線を「擬動物化」の視線としてとらえ、村 の大人たちの視線には蔑視が内在しているが、子供たちの視線には珍奇な獣に対 する親和感から人間的な絆が結ばれると述べ、大人と子供の視線の違いを見出す

54。、子供たちの目で見た黒人兵は「ほとんど人間的」であったが、大人の目で は黒人兵はずっと「獣」のままであった。しかし、その二つの捉え方はそれほど 違うのであろうか。黒人兵と子供たちが親密な関係になるにもかかわらず、それ はやはり人間と動物の関係のままに残る。「村」の中で黒人兵は決して人間とし て扱われることはない。上記の引用箇所の続きはまた重要である。

黒人兵が僕らに語りかける、家畜が僕らに語りかけるように、黒人兵が語りか ける。〔中略〕僕らに家畜のような黒人兵 が、かつて戦う兵士であったという ことは信じられない、〔中略〕

「あいつ人間みたいに」と兎口が低い声で僕にいった時、僕は弟の尻を突っつ きながら笑いで躰をよじるほど幸福で得意な気持だった。〔中略〕

35

黒人兵の黄色く汚れてきた大きい歯が剥き出され頬がゆるむと、 僕らは衝撃の ように黒人兵も笑うということを知ったのだった。そして僕らは黒人兵と急激に 深く激しい、ほとんど《人間的》なきずなで結びついたことに気づくのだった。

(傍線引用者)

子供たちの黒人兵を見る視線が変わり、黒人兵は「野獣」から「家畜」に転じ るが、「人間」扱いにまでは至らない。黒人兵=動物的な存在という認識におい ては、子供は大人たちと何の変わりもないのである。結局、「村」での黒人兵の 存在意味は、飼いならされる対象として「村」共同体に所有される「動物」であ る。〈僕〉の語りの中にしばしば「人間」を意味する表現があっても、決して黒 人兵が人間として受け入れられている訳ではないのである。

ロバート・ロルフは「飼育」における動物を連想させる表現に注目して、黒人 が脱走を図って〈僕〉を捕虜にしたとき、〈僕〉が感じる恥が「物体、所有物」

になった自分に対する恥であり、また動物に関する大量の言及が〈僕〉に向けら れることから、「黒人は死に至るまで実際に動物であったとの議論も多分成り立 つ」55と指摘する。しかし、動物的なイメージが下記の引用に見られる〈臭い〉

の形で黒人兵から〈僕〉に移ったことは、決してそれが黒人兵のものではなくな ったことを意味しない。動物的な要素の一つである「臭い」が、黒人兵が死んで もそこに残ることは、その証である。

「臭うなあ」と兎口はいった。「お前のぐしゃぐしゃになった掌、ひどく臭う なあ」

僕は兎口の闘争心にきらめいている眼を見かえしたが、兎口は僕の攻撃にそな えて、足を開き、戦いの体勢を整えたのも無視して、彼の喉へ跳びかかっては ゆかなかった。

「あれは僕の臭いじゃない」と僕は力のない嗄れた声でいった。「 黒んぼの臭 いだ」

兎口はあっけにとられて僕を見守っていた。僕は唇を噛みしめて兎口から眼を そらし、兎口の裸の踝を埋めている、小さく細かい草の葉の泡だちを見おろし た。兎口は軽蔑をあらわにして肩を揺り、勢よく唾を吐きとばすと、喚きたて

36

ながら橇の仲間へ駆け戻って行った。(傍線引用者)

上記の箇所から窺えるのは、一回〈臭う〉外国人と付き合った者は周りの日本 人の目には同じ〈臭い〉を持つ存在となり、差別的な扱いを受けるということで ある。一度結んだ関係はもう断つことはできず、〈臭い〉に喩えられた影響は常 に残る。主人公は友達にその臭いを指摘され 、差別されるように思い、裏切られ たと感じてその関係を切ろうとして物理的に離れても、精神的な関係は依然とし て残る。

黒人兵の動物化のもう一つの理由は、歴史的背景の中にある。戦争中の日本で は、欧米諸国に関するプロパガンダが激しく、「鬼畜米英」という概念が一般に 流通していた。それは文字通り、戦っている敵国の米英を「獣」として認識 する 概念であり、実際の外国人を知らない一般市民に悪いイメージを植えつけようと した。「飼育」の村人は、黒人兵が村に預けられることになると分かったら、直 ぐに、「預ける」か「留置する」ではなく、「飼う」という言葉を使い始める。

「どうするの、あいつ」と僕は思い切って訊ねた。

「町の考えがわかるまで飼う」

「飼う」と驚いて僕はいった。

「動物みたいに?」

「あいつは獣同然だ」と重おもしく父がいった。

「躰中、牛の臭いがする」

父親から初めて「飼う」と聞いた主人公は上記のように最初驚くが、直ぐ自然 と同じ言葉を使うようになる。

「ずっと村で飼っておけないかなあ」と僕はいった。

これは黒人に対する特別な扱い方であるかも知れないが、「鬼畜米英」という 言葉の影響でもあるだろう。

もう少し違う観点から、村人の黒人兵に対する関係について見てみよう。黒人

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 37-46)