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―4、「暗い川、おもい櫂」

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 58-62)

第三章 〈政治的人間〉の先駆―アメリカ人像―

第一節 ―4、「暗い川、おもい櫂」

この小説で大江は再び黒人兵のモチーフに戻る。その描写は「飼育」の描写の 反復となっている。しかも、主人公の〈僕〉もまた少年であり、黒人兵を見る目 は「飼育」の〈僕〉とほとんど同じである。子供としてアメリカ人 を見ることの

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面白さ、、黒人兵に対する興味という設定も大江はこの小説で繰り返している。

かれは外国人と生まれてはじめて握手することを、夏休みのはじめのうまい記 念だと考えた。

この描写は村に連れてこられた「飼育」の黒人兵が子供を喜ばせたという場面 に似ている。

違いは、「暗い川、おもい櫂」の〈僕〉はより年が上で、アメリカ人を見ること に慣れている。驚いた目ではないのに、描写は同じである。、この小説もステレオ タイプ的な描写が使われているのだと言える。前の小説にはなかった要素として、

〈僕〉の黒人の受け取り方に大人の〈女〉が影響を与える。

「あの人、ばかみたいでしょ?」と女はいった。「なにからなにまで人一倍ふと いのよ」

このような説明を受けた少年は初めから黒人に対してネガティブなイメージを 持つようになる。

ここまで取り上げた三篇では、日本人主人公のアメリカ人に対する態度に一連 の発展性が見えたが、この小説では主人公の年齢という点でも、主人公の黒人兵 に対する興味という設定でもそれまでの進行を一歩手前に戻したように見える。

しかし、連続性はここで完全に逆行する訳ではない。主人公がアメリカ人を見る ことに慣れている点では、「人間の羊」からの明らかな連続性が見えるが、外国人 への興味が元に戻ることが退歩を意味するとは思えない。従来の三篇では大江は 日本人とアメリカ人の関係の極端なパターンを描いていた。「飼育」では日本人が アメリカ人を親しい家畜のように扱っているが、「不意の唖」と「人間の羊」では その反対に、完全に無視している。しかしどちらのやり方も、コミュニケーショ ンの構築という点で成功には終わらない。

「暗い川、おもい櫂」で大江は中道的なパターンを探り始めている。日本人と アメリカ人は親友にはなれないし、離別もできないから、何らかの形での共生の 必要性が浮かび上がるのである。この小説で大江は様々な共生の形を設定し、日

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本人とアメリカ人の間の平和的関係の可能性を追求する。

「暗い川、おもい櫂」における中道的な設定とは、具体的にどのようなもので あるか見てみよう。主人公は黒人兵に対して興味を持つことにより、その存在を 受け入れ、それを知りたいと思っている。以前から隣に住んでいる黒人の存在を 知っていた〈僕〉はチャンスが与えられたら直ぐにそれを掴み、実行しようとす る。

かれは隣りの女と、その情人に知りあったことが嬉しかった。ピーターソンは 朝鮮で人を殺してきた男だ。かれと一緒に夕食をすることは、どんなにおもし ろいだろう。〔中略〕かれはピーターソンに英語で話しかけながら 食事をしてい る自分をゆめみた。留守番の最初の夜が楽しくすごせること、それはまったく 僥倖というべきだった。

ここで大江は、違う文化の人が隣に住み互いを知る重要さに焦点を与えている。

それは平和な関係への第一歩であるからである。

かれは自分が重要な人生の智恵をさずかったような気がしていた。こんなふう に思いがけなく、しっかりした人生を知ってゆく、これが大人になろうとして いる人間のやりかた。

しかし、このような試みはうまく行かない。作者がうまく行かせないのだ。不 親切な設定により大江はその平和的共生の試みを破壊し、悲しい結果に小説を導 く。その不親切な設定とはすでに触れた主人公の黒人に対するネガティブな態度 である。その態度は〈女〉の影響により生まれ、強化される。ストーリーの真ん 中辺りで、主人公は黒人兵を軽蔑してほとんど相手にしないのである。その態度 は完全に「飼育」における黒人兵に対する軽蔑と類似したものになる。主人公は 黒人兵を殺そうとも思うようになる。

〈女〉の形象自体も悪意ある設定になっている。情人を憎む彼女は、黒人とよ く喧嘩をし罵り合うが、黒人と関係を切ることはできないため、心が安まらない。

そこに〈僕〉が都合よく現れ、自分の中の感情を〈僕〉と寝ることにより自分の

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外に出すことができ、〈女〉は一端落ち着くのである。しかし、彼女はそのような 行動によって生じた三角関係がいかに危ないかに考えが及ばず、〈僕〉と黒人兵が 対立することを気にしない。

この設定は平和的関係を生み出す試みを台なしにし、悲しい結末に結びつく。

これも「飼育」と「不意の唖」の設定の繰り返しになる。、主人公である青少年の 日本人とアメリカ人の間に起こる問題は、脇役の大人によって引き起こされる。

不和をもたらす大人は〈外〉の存在であるが、この〈外〉からの圧迫や〈外〉が 生む状況により日本人とアメリカ人の関係は崩れる。「暗い川、おもい櫂」におけ るこのパターン化した設定の違いは、〈僕〉と〈女〉の関係にある。「飼育」と「不 意の唖」における〈外〉の大人は主人公とは明 らかに関係のない存在であったが、

「暗い川、おもい櫂」の〈女〉は〈僕〉と直截な関係で結びつく存在である。そ の点で異なっている。これは主人公が「飼育」と「不意の唖」の主人公より年上 という設定とも関係している。しかし、年齢より重要なのは、大江がこの小説群 で作り上げる登場人物同士の関係の発展過程である。「暗い川、おもい櫂」は「飼 育」と「不意の唖」を次の段階に発展させたものであるため、主人公が結ぶ関係 も発展している。

最後に、「暗い川、おもい櫂」という題名について考察してみよう。この言葉は 黒人兵が歌っている歌の一行であるという点でやはり他の小説と同じく黒人に繋 がっている。主人公〈僕〉との繋がりもここにあり、歌の川とは主人公の人生で もある。小説の最後にその言葉は繰り返され、主人公の人生との繋がりが強調さ れている。

暗い川、おもい櫂でこいでゆく。おれこそ人生の暗く冷たい川のどん底でげい げいやっている、とかれはざらつくかたまりを吐きだしながら考えた。

、この小説においてもアメリカ人黒人兵と日本人の主人公の出会いの運命的な 意義が浮かび上がる。その出会いがなければ主人公は平凡な生活を続けていたの であろう。これも「飼育」と「不意の唖」のアイディアを発展させる設定である。

「飼育」と「不意の唖」と同様に、「暗い川、おもい櫂」におけるアメリカ人との 出会いは主人公に侮辱をもたらすが、この不幸は主人公を成長させる。黒人兵の

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描写自体は「飼育」の描写と同じであるが、主人公の態度は変わる。黒人兵を父 の銃で殺そうとする主人公の設定は、特に「人間の羊」の主人公の無抵抗と著し く異なる。登場人物同士の関係については本章の第二節でより詳しく論じる。

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 58-62)