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第七章 〈政治的人間〉と〈性的人間〉の止揚

第四節、 止揚

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切腹を考えた。この場合、大江の主人公よりははるかに異端的な行動であるが、

とにかく政状を変えたいという熱願は大江の主人公にも三島の主人公にも共通し ている。

全ての追加定義が「憂国」にも当てはまるという仮説はこれで確かめられたと 思われるが、一つの問題が残る。それは〈麗子〉である。〈麗子〉も〈性的人間〉

に属するが、小説における〈麗子〉の行動がどこまで自由であったかは先行研究 でも問題になっている。筆者の解釈では、〈麗子〉は只主人の言いなりに行動し た訳ではない。〈麗子〉にも自己主張があり、自由選択で取った行動を選んだと 言える。その証左として次のことが挙げられる。〈武山中尉〉は〈麗子〉に同行 することを命令せずに提案するだけであるし、切腹の準備の時に〈麗子〉が友達 に残した贈り物もあるし、ベッドシーンの途中に〈麗子〉が頼んだことは全て自 発的に他ならない。何よりも〈麗子〉が扉の鍵を開け、自刃したのは主人の切腹 の後であるから、自分の意思で行った行動である。故に〈麗子〉の行動は〈武山 中尉〉の行動と同じく扱うべきであると筆者は見ている。

上記のように、筆者が提案する〈政治的人間〉と〈性的人間〉の定義への追加 内容は小説を理解する上に有効的なものである。

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という結果から見れば、大江の定義通りになるのである。しかし 、この試みも定 義に加えたい。中期小説の〈性的人間〉である全ての主人公がその試みをするか らである。

大江は〈政治的人間〉と〈性的人間〉を対立と闘争の過程を通じて発展的に統 一する。小説上に見られる両者の対立は、最終的に主人公の新しい自覚を生み出 す。性的人間である主人公の〈J〉と〈おれ〉は一所懸命に〈政治的人間〉になろ うとしているが、その無理を悟る。大江の定義に従えば、〈性的〉なるものは決し て〈政治的〉なるものと交差しないためであると容易に解釈される。しかし、主 人公の「試み」を詳しく見ればこれと異なる結論に至る。主人公は意図的に〈政 治的〉になろうとする以前からすでに〈政治的〉な要素を持っていた。主人公は それを無意識的に持っていたのである。意図的に〈政治的〉になる試みをし始め れば、その眠っていた要素は露わになり、主人公を過激な異端行動にかりたてる こととなる。主人公はしかし、その要素を自覚していないままである。自覚して いないからこそ、最期の自己欺瞞の悟りと挫折が生じる。〈J〉は父親の後継ぎに はなれないと思い、それまでに行った〈安全な痴漢〉を捨てて、見られるに違い ない、捕まるに違いない痴漢の極地に踏み込む。この〈J〉の絶望的な行為につい て、奥野健男はこの小説を坂上弘の『暖かい日』と比較し、「画一化されて行くサ ラリー マンの 絶望 的な 抵抗を 表現し てい る」133と論じ た。『暖 かい 日』 の〈 女 性 社員〉と〈J〉とは実際のサラリーマンとしての経験面では比較できないと筆者は 考えるものの、確かに絶望感はその二人の主人公にとって奥野健男の論じるよう に同じようなものであろう。 ただし、〈J〉はそれを予想するだけで、自分の〈性 的人間〉性とその生活はいかにも合うことがなく、挑戦しようと思った願望の欺 瞞性、〈政治的人間〉になり得ないことを悟る。

「セヴンティーン」の〈おれ〉は政治運動を信じようと思っていたが、仲間の裏 側の本音を悟り、自己欺瞞したと悟って自殺をした。そもそも右翼運動に引っか かった時点では、この運動によって自分が変わる訳ではなく、外見にだけ何かが 付いてくるという認識が主人公にはあった。〈弱くて卑小な自分〉はそのまま残っ た。

両主人公は自分の中に存在していないものを一生懸命作ってみようと思い、失 敗したという結論に至った。その要素が自然に己の中にあると分かれば、極地の

144 最期には陥いらなかったであろう。

この極地、すなわち、「セヴンティーン」における青年の自殺はどうして起きた かということについて、上記より更に具体的な分析が必要であろう。小説の始め において、青年は死を恐れている。他者の目線からの圧迫は〈おれ〉に縊るよう な気がし、〈おれ〉が反発的に周りの皆を殺したい気持ちで燃えている。

ああ、おれのことを、他人どもは、あいつは自涜常習者だ、あの顔の色やら眼 のにごりを見ろよなどといって厭らしいものでも見るように唾を吐いて見てい るのだろう。殺してやりたい、機関銃でどいつもこいつも、みな殺しにしてや りたい。(「セヴンティーン」1)

上記の引用から窺える主人公の孤独感と周りの世界に対する怯えは反発願望を 生む。この反発を実現できない主人公は更に悩んで、ほどを忘れて自分の姉を蹴 り飛ばす。一回放った反発心はしかし、完全に自由に表面に出ることはできず、

心の中の怯えは貯蓄するだけである。この怯えは、右翼運動に初めて出会った時 に解かれ、〈おれ〉に宿命的な刺激を与える。

おれはいま自分が堅個な鎧のなかに弱くて卑小な自分をつつみこみ永久に他人 どもの眼から遮断したのを感じた。〈右〉の鎧だ。(「セヴンティーン」1)

この「鎧」を主人公は以前想像も出来なかったが、初めて上記のように感じた 主人公はこの「鎧」が一生必要になったと思い込む。ただし、〈おれ〉はその「鎧」

の下にある自分自身の弱い〈性的人間〉はまだそこにいると敏感に感じている。

皇道派の制服〔中略〕に身をかためて街を歩く時も、おれは激しい幸福感をお ぼえ、甲虫のように堅牢に体いちめんに鎧をまとい、他人から内部のぶよぶよ して弱く傷つきやすい不恰好なものを見られることがないのを感じる(「セヴン ティーン」4)

ここには後になって主人公が体験した欺瞞からの目覚めの芽生えが隠れている。

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主人公は「鎧」は何も変えていないと分かっているが、この時点ではまだそれを 気にしていない。外側の〈政治的〉な様子と内側の〈性的人間〉の葛藤は、最初 のうちは、主人公は自覚していないが、それは徐々に大きくなり、最後には自殺 に導かれてゆく。

また、主人公の〈自涜〉もここで重要である。自身の〈性的人間〉性で悩む主 人公はその〈性的〉性の象徴である〈自涜〉にふけっているが、政治運動にかか わるにつれて〈自涜〉のシーンは小説から消える。物理的な〈自涜〉は政治運動 に代用されるようになったからである。その極地は次の文章に見られる。

おれは国会前広場での暴力の劇の日々からずっと訪れることのなかった、至福 の強姦者のすばらしく熱く、じんじんする全精神と全肉体のオルガスムスに、

たちまちおそわれてしまい、駆けながら呻いて歯ぎしりする《ああ、天皇よ、

ああ、ああ!》(「政治青年死す」3)

この文章の意味するものは、主人公は〈政治的人間〉らしい活動に精神的な〈自 涜〉を得るようになったといえる。しかし、この〈至福〉感も自己欺瞞であった ことは、小説の幕に明らかになる。大江は自殺の前に物理的な〈自涜〉をする主 人公を比喩的に小説の始めに戻す。言い換えれば、主人公は〈政治的人間〉らし い自己欺瞞の精神を捨てて、〈性的人間〉らしい行動に戻る。この帰還によって主 人公は〈政治的人間〉になろうとする行為が間違いであり、失敗であったと自ら に認め、自殺する。

大江がエッセイで論じる「青年は〔中略〕政治的人間を志向しながら性的人間 におちいる罠を自分の足もとにつねに用意している」134と述べる点は、ちょうど ここに現れている。これは〈性的人間〉が〈政治的人間〉に変わることの出来な い根本的な理念の証左である。

この 時点 まで 見 てき た 〈政 治的 人間 〉と 〈 性 的人 間〉 の間 の主 人 公 の移 動は、

〈性的人間〉が〈政治的人間〉になろうとした片方のみであったが、「性的人間」

の〈老人〉が代表するパターンは、これと逆方向も可能であることを意味してい る。、〈政治的人間〉と〈性的人間〉は文字通りに相互に染まれることや相互に志 向することがある。

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〈政治的人間〉と〈性的人間〉は互いに完全に化けることはあり得ない。その試 みは絶えず行われるが、主人公は完全に自分の反対のタイプになることはできな い。なぜならば、片方が他方に化ければ一方しか残らないからである。一方だけ の存在は大江の小説の世界ではあり得ない。第三章で論じて来たように、仮に片 方を小説からなくせば、小説全体は崩れて残った片方もなくなる。〈政治的人間〉

だけの世界はあり得ないし、〈性的人間〉だけの世界もあり得ない。両者は同時に 存在している時のみにバランスがあり、大江の小説の世界が存在する。

本論文で大江の小説に対して導入する〈止揚〉という用語は従来は哲学の用語 である。『哲学事典』はこれを下記のように定義する。

止揚 この語は対立の統一というときにもちいられる。すなわち、分裂した諸 要素がたがいに対立し闘争し、内的に浸透しあい、その過程をとおして統一さ れ、高度に発展した事態が成立するとき、諸要素が統一のなかに止揚されたと いう135

この定義を筆者は文学に合わせ下記のように定義する。止揚とは 矛盾する諸要 素(文学の場合は登場人物のタイプ)は、対立と闘争の過程を通じて互いに浸透 し合い、発展的に統一することである。この概念は〈政治的人間〉と〈性的人間〉

の関係をよく説明していると筆者は考える。ここまで具体的に見てきたように、

大江の定義だけに従って小説を解釈して見れば、その定義に矛盾するような箇所 はある。本章で提案してきた〈政治的人間〉と〈性的人間〉の追加要素は、大江 の定義に見られる〈対立〉では説明できない。ここから大江の定義を乗り越えて、

小説の解釈上に現れる諸要素をもとにして、より細かな定義の必要性が生じる。

筆者はこの必要性に応じてテキストを分析した結果、大江の定義に加える要素 を提案し論じてきた。更にこの新しい要素を説明する理論としてこの〈止揚〉概 念を用いたい。この概念にある「対立と闘争」は〈政治的人間〉と〈性的人間〉

の相互侵入をも説明しているし、「発展的に統一する」ことも上記の例で明確に見 えてくる。互いの関係上、活動範囲上、仲間の取得上、互いに化けようとする過 程上、などには〈政治的人間〉と〈性的人間〉は互いを必要としている。この状 態は単なる静態的な対立ではなく、常に変化しつつある〈止揚〉である。大江の

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 147-154)