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大江を通して「憂国」を読む

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 114-118)

第六章 同時代における〈政治〉と〈性〉

第一節、 大江を通して「憂国」を読む

〈政治的人間〉・〈性的人間〉という用語は大江独自のものではあるが、同じ ようなテーマを扱う三島の小説にも適用できるのではないかという仮説を立てみ よう。ここで第一章の第一節に引用した大江の定義に再び戻ってみる。

政治的人間は他者と硬く冷たく対立し抵抗し、他者を撃ちたおすか、あるいは 他者に他者であること をみずから放棄させる。〔中略〕性的人間はいかなる他者 とも対立せず抗争しない。かれは他者と硬く冷たい関係をもたぬばかりか、か れにとって本来、他者は存在しない。かれ自身、他のいかなる存在にとっても 他者でありえない109

大江の定義を通して三島の小説を読むことによって、大江の定義はどれほど普 遍的であり、どれほど確かであるかのを明らかにしたい。三島と大江の小説にお いて〈政治的〉と〈性的〉の要素が類似性を持つならば、大江の理論的なとらえ 方は三島にも十分当てはめることができるであろう。逆に、この定義は三島の小 説に当てはまるならば、大江の定義は大江自身だけの空想ではなく、確実に同時 代を写す理論であることがわかる。

大江の提供するこの定義を用いて「憂国」を読んでみると、登場人物の関係を 次のように捉えることが出来る。〈武山中尉〉は〈性的人間〉に当たる。彼は〈他 者〉である軍隊や天皇制に対立出来ない者である。それゆえに〈他者〉の圧迫か ら逃げ、妻を相手取って家に閉じこもる。そして〈性〉に救いを求め、妻に抱か

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れて周りの世界を忘れようとする。これらの行為は全て〈性的人間〉のものであ る。

斎藤内府の邸は近くであったのに、二月二十六日の朝、二人は銃声も聞かなか った。ただ、十分間の惨劇がおわって、雪の暁暗に吹き鳴らされた集合喇叭が 中尉の眠りを破った。中尉は跳ね起きて無言で軍服を着、妻のさし出す軍刀を 佩して、明けやらぬ雪の朝の道へ掛けだした。そして二十八日の夕刻まで帰ら なかったのである。(「憂国」参)

この文章から窺える〈武山中尉〉の行動は、軍隊の指示に従って反乱軍との戦 いに参加したということである。

妻の〈麗子〉も主人に逆らわらず同行するから〈性的人間〉になる。下記の文 章からは、〈麗子〉の主人に従う覚悟が明確に窺える。

言わないでも、妻が言外の覚悟を察していることが、すぐわかったからである。

〔中略〕「覚悟はしておりました。お供をさせていただきとうございます」。(「憂 国」参)

両方の主人公は他者の目を敏感に意識し、他者の目に映る自分がどのようなも のであるかということで悩んでいる。他者は自分をこの姿で見ているだろうから、

この様に振る舞いをする、というように主人公はいつも自分と他人の関係を意識 する。これは下記の二つの引用文からも窺える。

「俺の切腹を見届けてもらいたいんだ。いいな」(「憂国」参)。

麗子は自分たちの屍が腐敗して発見されることを好まない。やはりあけておい たほうがいい。・・・・・・彼女は鍵を外し、磨硝子の戸を少し引きあけた。(「憂国」

伍)

この文章では、〈武山〉も〈麗子〉も彼らを見る者を強く意識していることが分

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かるが、それぞれに違いもある。〈武山中尉〉は妻のことをその傍観者として認め ているのに対して〈麗子〉はより広く、周りの人を意識している。新聞報告文体 で書かれている小説の冒頭分(壱節全体)は、上記の〈麗子〉の振る舞いによっ て可能になる。夫婦は〈性的人間〉であったからこそ、その〈外〉の世界との対 立に耐えられず、自害する。

「セヴンティーン」の主人公にもこの〈他者〉の意識が強く、そのことは次の 文から窺える。

おれの怨みっぽい大きな鼻を見るたびに他者どもはみんな、ほらこいつはあれをや るやつだ、と見ぬいてしまっているのかもしれない。そしてみんなで噂しているか もしれない。(「セヴンティーン」1)

この様な文章は何度も小説中に繰り返され、主人公における他人の意識の拡大 を示している。

第二の要素として、〈武山中尉〉には〈政治的人間〉になりたい という気持ち もある。これは反乱軍に属したかった気持ちとして表されている。

「俺は知らなかった。あいつ等は俺を誘わなかった。」(「憂国」参)

ここでは長い間付き合ってきた友達が秘密を教えてくれなかったことで裏切ら れた気持ちになる武山の様子が語られている。

「セヴンティーン」の主人公も同様である。小説の始まりには我が侭な野良猫 のように誰にでも対立出来る強い人になりたい、と〈おれ〉は夢見る。しかし、

〈武山〉も〈おれ〉も実際には願望を実現できない。

おれはギャングのような存在になりたい、とおれは考えたが、それこそ奇蹟で もなければ達成できない願望だということもわかっていた。(「セヴンティーン」

1)

〈武山〉は事件が起こってからも反乱軍に再編入しようともしない。〈おれ〉

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はテレビの政治家を真似て姉と議論をしてみても簡単に負ける。〈武山〉は「セ ヴンティーン」の主人公と同じく〈性的人間〉でしかあり得ない。この箇所は大 江の定義によく当てはまる。

また、主人公が〈性的人間〉でありながら〈政治的人間〉の要素も持っている 構造も「憂国」と「セヴンティーン」共通する。〈武山中尉〉は〈麗子〉に同行 以外の選択肢を与えないから〈麗子〉を他者として認めず「他者であることをみ ずから放棄させ」た。

中尉は悩みを語っているのに、そこにはもう逡巡がないのである。(「憂国」参)

「セヴンティーン」の〈おれ〉が姉に暴力を振るって自分の意見を押しつけよ うとするシーンにもこの要素が見られる

おれは逆上した、おれは喚きながら姉の額をしたたか蹴りあげた。(「セヴンテ ィーン」1)

両方の主人公の行動は公に自分の強さを表すという動機からなる。 しかし〈性 的人間〉である者は一所懸命その動機を隠そうとする。両者はそのため、天皇制 を自分の看板にして他者に見せる。だが両者の内面的な動機は自分の弱さであり、

それを隠すことである。

もう一つの要素は、両方の主人公は〈性的人間〉になることを自意識で選んだ 訳ではなく、時代の事情や社会の事情によってこの生き方を余儀なくされている ということである。「セヴンティーン」の〈おれ〉は家族の皆に同情されず、学 校の同級生にも人気がなく、才能を発揮できない哀れな青年である。故に周りの 批判的な目から逃げ隠れる道へと追いやられる。「憂国」の〈武山〉は仲間に見 捨てられて一人で何もできない状態に置かれているから同じくこの状態から逃げ る道を選ばざるをえない。この点でも「憂国」と「セヴンティーン」は同じよう な設定になっている。

しかし、〈武山中尉〉には「セヴンティーン」の〈おれ〉と異なる事情もある。

〈武山〉に他者が二種類あることはまず、注目すべき点である。軍隊や天皇制は

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他者であると同時に、反乱軍の友達も他者である。友達である他者にも〈武山〉

は対立できない。両面から迫る他者に面した〈武山〉は結局どちらにも同化でき ず、自殺を選ぶ。

「明日の朝はきっと、奴らを討ちに出かけなければならんのだ。俺にはそんな ことはできんぞ、麗子」(「憂国」参)

一方、大江の主人公は片方からの圧迫しか受けていないため、その圧迫に逆ら わず同化するという選択肢は与えられている。その意味で大江の主人公は小説中 の時間ずっと〈性的人間〉としての役割を果たしているが、三島の主人公は二つ の圧迫力で押しつぶされそうになり、対立から逃げる道として自殺を選ぶ。

第二に、自殺のテーマに関して注意せねばならないのは、「憂国」の主人公と

「セヴンティーン」の主人公の自殺に内容の類似性はないというポイントである。

外面的な類似性は見られるが、それは両主人公が外に見せる形に過ぎないと考え られる。両者は確かに「天皇陛下の為に」と告げ自殺するが、それぞれの動機は 異なる。〈武山〉は軍隊の圧迫に同化出来ず逃げる道を取ったが、〈おれ〉は右 派に同化する行為の頂点として自殺を選ぶ。

主人公の置かれる事情には違いがあるため、主人公の行動も具体的なところで は異なる。しかし、先に述べたように、全体的な行動のパターンにおいて〈武山〉

と〈おれ〉は多くの類似点を持っているので、両作家の〈政治的人間〉と〈性的 人間〉のとらえ方は類似点を持っていると言えるだろう。、大江の主人公の定義 は三島の小説にも十分当て嵌るのではないかと思われる。

ドキュメント内 金沢大学大学院 人間社会環境研究科 (ページ 114-118)