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図
52
二の丸跡第5地点全体遺構配置図 (Ⅳ期)Fig.52 Distrihtion of features at NM5(phase IV) /
\
る寛文元年 (1661年
)ま
で続 き、Ib期
は寛文元年以降か ら二 の丸の改造が行われる元禄年間 までの時期 に相当すると考 えられた。したがって、Ia期
が五郎八姫の西屋敷の時期 に相 当 し、Ib期
は「天麟院様元御屋敷」 と呼 ばれた時期 に相 当す る。Ia期
については、今回の調査地点以外で、二の丸以前の遺構が検出されている調査 区の成 果を合わせて、絵図 と対比 して検討 した ところ、西屋敷 の範囲 を大 まかではあるが復元す るこ とがで きた。 その結果、今回の調査区が屋敷の中で も奥 よりの部分 にあたることが判明 した。この ことか ら、今回の調査で検出された池か らなる庭園 と建物の一部 は、屋敷の奥 よりに設け られた、私的な供応・ 遊興 のための施設 と考 えられ る。調査範囲が限定 された ものであったた め、不確実な部分 を多 く残 しているが、江戸時代初期の庭園の調査例 として貴重である。
Ib
期 については、「天麟院様元御屋敷」と記 された絵図 を中心 に検討 を加 えたが、今回の調査 区が 具体的に どの ような部分 に相当す るかについては、明確 にはで きなかった。
Ⅱ期 は、元禄年間に行われた、二の丸が改造 され る時期 に相 当する。
Ib期
の遺構 は、廃棄物層や整地層 によって埋 め られ、 この廃棄物層か らは元禄
4年
(1691年)の
紀年のある、荷本L 木簡が出上 している。 これ らの層の上面 にあた るHa期
は、遺構密度が低 く、存続期間 は短か った もの と推定 され る。Hb期
は、Ha期
の遺構面 に盛土 を行 い形成 され、畑の畝状遺構が展 開す る。花粉分析では、畑 として利用 された積極的根拠 は得 られなかったが、存続期間が短か った と考 えられ、 この点が関係する可能性がある。Ш期の遺構面 は、
Hb期
の遺構面 に大規模 な整地 を行 って形成 されてお り、元禄年間の改造 によって、北側 に拡張 されて以降の中奥 に相 当す ると考 えられ る。Ⅲ期の遺構 も、整地層 をは さんで、Ⅲa期
とⅢb期
に細分 されたが、両期で基本的な施設の配置関係 に違いは認 め られな い。元禄年間の大改造 によって二の丸の基本的構成が確立 し、幕末 まで維持 されることが確認 された。ma期
か らⅢb期
に移 り変わ る時期 は、出土遺物か ら見て、18世紀後葉以降であるこ とは確実であるが、細かな年代 は確定で きなかった。Ⅲ期 の遺構 については、絵図 との対比か ら、中奥 の北辺 とそれに伴 う門の周辺か ら、北側 の 中奥馬場 。屏風蔵 な どを経て、二の丸北側 の堀 にいたる部分 に相 当す ると推定 され る。門の東 側で検 出された多数の掘立柱建物 は、供回 りの者が控 えるための「腰掛」 と考 えられ、北辺 の 塀 とともに何回 も建て替 えられていることが判明 した。細部では、若干絵図 とずれる部分 も残 るが、検 出された門跡が、中奥北辺の門 にあた ることは確実であると考 えられ、今後 の絵 図 と の対比 にあたって、定点の一つ となるであろう。
この検討結果 をもとに、以前の調査地点の絵図 との対比 を見直 した ところ、第
2地
点が「河ヽ 広間」の北西側 の「伺公之間」 と「時斗之間」の間の「御橡通」 に相当 し、第3地
点が「元御 書院」の南側 に相当す ると推定 された。 この推定か ら、二の丸の中で最 も中心の位置 を占め る建物である「小広間」は、破壊 をまぬがれて遺存 している可能性が高いことが判明 した。今後 、 絵図 との対比 の精度 を高めてい くとともに、検討結果 を遺跡の保護策 に活かしてい くことが重 要であろう。
Ⅳ期 は、明治以降の層位で検出された遺構 と、検出層位が不明で も出土遺物か ら明治以降に 下 る遺構 を一括 したため、 さらに細か く時期が分かれる可能性があるが、いずれ も土地利用の あ り方 は、Ⅲ期 とは大 き く変化 している。ゴ ミ穴 と考 えられる
1号
・2号
土坑 は、出土遺物か ら、明治15年 (1882年)よ
りは古 くに形成 された と考 えられ、 この区域では明治15年の火災以 前 に、二の丸の建物が既 に改変 されていた ことが判明 した。今回の第
5地
点の調査 は、仙台城二の丸跡の調査 としては、最 も広い面積の調査であ り、な おかつ大別4期
、細分では7期
にわた る複雑 な変遷 を遂 げている。そのため、整理作業、絵図 との対比 な どの分析作業の過程 において、膨大 な作業量 と時間が必要 とな り、 ここでは、調査 地点 に直接関わ る絵図な どの資料 を検討 したに留 まり、他の遺跡の調査例などの関連資料 を検 討することはで きなかった。近年、近世遺跡の調査例 は増加 してお り、 これ らの調査成果 とも 照 らし合わせて、検討 を進 めてい くことが、今後必要であろう。(註
1)こ
の「天麟院様元御屋敷」図 と、図45の『御修覆帳』の「御二丸御屏風蔵井御貸長屋」図については、宮城県立図書館 において撮影 させていただいた写真 と、同図書館所蔵の複写を 元 にして、図面 を起 こした ものである。そのため、寸法が原本 に厳密に対応 している訳ではな い。
(註2)「天 麟 院 様 元 御 屋敷 」図、 な らび に図45の「御 二 丸御 屏 風 蔵 井御貸長屋」図 の、 図 中の 文 字 の記 載 、 また 図49の 墨 書 陶器 の墨 書 の再 検 討 につ いて は、 東 北 大 学記念 資料室 の中川学助 手 の ご教 示 を得 た 。
(註
3)こ
の享 和2年
図 と、 図48の 文 化 元 年 図 は、 宮城 県立 図書 館 にお いて撮 影 させ て い ただ い た写 真 を元 に、 方 眼 を1間と して 、 図面 を起 こ した もの で あ る。≪引用 。参考文献≫
阿刀田令造
1936 F仙
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名著出版 佐藤宏一 ほか199o
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佐藤
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須籐隆・ 佐久間光平・ 山田しょう
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東北大学理藤文化財調査委員会 ‑1982 F東
北大学埋蔵文化財調査年報ど4・ 5
東北大学埋蔵文化財調査委員会
1998
「東北大学埋蔵文rヒ財調査年判 G 土生慶子1987
昨確 政宗娘いろは姫』 東光出版
2.陶
磁 器(1)仙
台城二の丸跡第5地
点出土陶磁器の検討仙台城二 の丸跡第
5地
点か ら出土 した陶磁器の うち、北 区のⅧ〜V層
、3号
土坑、4号
土坑 、 1区3A層
な らびに2号
土坑出土資料 は、一括性が比較的高 く、層位的な検討が可能である。北区Ⅶ〜
V層
は、西屋敷時代 に庭園を構成 していた、池の埋土や、元禄年間の二の丸拡張に伴 うと考 えられ る整地層である。二の丸古段階の遺構群 は、IV層上面か ら構築 されてお り、ⅥI〜V
層 は少な くとも、二の丸の大改造が完了 した、元禄13年 (1700年
)以
前 に位置づけられ る。Ⅶ 層 とⅥ層か らは、 ともに元禄4年
(1692年)の
紀年銘木簡が出上 している。 さらにⅥ層 とV層
の上面 には、恒久的な建造物が存在 していないことか ら、 これ らの盛上、整地は、元禄の二の 丸大改造が行われた、元禄元年 (1688年
)か
ら同13年までの、 きわめて短期間に行われた可台ヒ 性が高い。Ⅵ層上面で検 出された4号
上坑 の年代 も、上記の時間幅 に収 まる。3号
土坑 は、IV 層上面で検 出 された二の丸古段階の遺構で、年代の上限を元禄年間に求めることができる。1区
3A層
は、二の丸中奥古段階(Ha期 )と
新段階 (Ⅲb期 )に
挟 まれた整地層であ り、18世 紀後半の遺物 を主体 とす る。2号
土坑 は、Ⅳ期 の遺構で、幕末か ら明治初年の遺物が出土 して いる。以上、層位関係か らみた盛土・整地層、遺構の年代観 は、次の様 になる。a.北
区Ⅶ層出土陶磁器 (図53) 1680‑90年
代前半 (元禄年間前半期 ?)b.北
区Ⅵ層出土陶磁器 (図53) 1680‑90年
代前半 (元禄年間前半期 ?)C.4号
土坑出土陶磁器 (図53) 1690年
代 (元禄年間後半期 ?)d.北
区V層
出土陶磁器 (図54) 1690年
代 (元禄年間後半期 ?)e.3号
土坑出土陶磁器 (図54) 18世
紀前葉f.1区 3A層
出土陶磁器 (図55) 18世
紀後葉g.1号
土坑出土陶磁器19世
紀前棄〜中葉h.2号
土坑出土陶磁器 (図56) 19世
紀前棄〜中葉元禄年間 に比定 され る一括資料の うち、北区Ⅷ層には、17世紀中葉の肥前磁器や、明末・清 初の青花 な ど、少量ではあるが、年代の上が る資料が含 まれている。
はじめに、上記の一括資料のうち、
a〜
e・gohの
数量的分析 を行い、器種別・ 産地別組 成の変化 を検討す る。fは、表土剣 ぎの際 に、重機 によ り層の一部が削平 されて しまっている ため、定量的な分析か らは除外 した。なお、数値 は、接合および同一個体の認定を行 った上で、破片数 を用いた。器種毎の組成 については、表32〜35、 図57、 58、 60、 61に示 した。
江戸時代 中期では、17世紀末葉か ら18世紀前葉 にか けて、磁器、陶器 ともに、碗類が増加す る。 それ と併行 して、磁器では皿類、陶器では播鉢がそれぞれ減少する。碗類が この時期 に増 加 した背景 には、肥前産の大衆化 した磁器碗の普及 と、大堀相馬産陶器碗の流通量の拡大が挙