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3号土坑
・A類
。B類
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元禄年間の整地層・遺構 口径(cm)
。3号土坑A類
。3号土坑B類
・2号土坑A類
2号土坑・ 3号土坑
口径にnl 図
67
土師質土器皿 の法量分布Fig 67 Scatter diagrams of size of cera■lic dishes frolm N 笙5
か1985)。 ただ し二の丸跡では、小 のグループに相 当す るものは、口径
3寸
(約9 cm)が その分 布の上限 となっている。第5地
点では、小のグループの回径の分布の上限 は、 ほぼ10cmに近い 値 となってお り、 この点で相違す る。三の丸跡の小のグループに相当す るものの資料数が少な いため、 これが時期差 を示す ものか どうか明確 にはで きない。 また、第5地
点の資料では、 口 径5.5cm前後の ものが、 さらに極小の群 として分離で きる可能性がある。3号
土坑出上の もの も、元禄年間の資料 と同様 に、大・ 中・ 小の3群
に分 けることがで きそ うである。ただ し、小 はA類
が1点
、大 は口径が20cmに近いB類
が2点
存在す るのみなので、確実ではない。 この
3号
土坑出上の中の大 きさのグループには、元禄年間の資料 より、器高の 低 い ものが含 まれ る点で異なっている。図66の43・ 44・ 48な どである。 これ は、A類
、B類
の 両者 に見 られ る現象である。ただ、器高の変化 もさほど大 き くな く、元禄年間の資料 とあまり 変わ らない器高を持つ もの もある。2号
土坑出上の ものは、A類
が2点
あるだけなので、大 きさの作 り分 けは判 らない。いずれ も中の大 きさのグループに属す る。図66の 73は、3号
土坑の器高が低 い ものに近 いが、74はさ ほ ど低 くない。そのため、3号
土坑 の段階 には、器高の低い ものが出現す ることは確実である が、新 しくなると器高が低 くなる とは必ず しも断 じ難い。使われた用途 によって形態が変わる 可能性 も考慮 して、今後時期的な変化 をとらえてい くことが必要であろう。②
耳皿
耳皿は、皿 と同様 に、再調整の有無で
2大
別が可能である。ロクロ整形・ 回転糸切 り後 に両 側 を曲げるもの(A類)と
、両側 を曲げた後に外面を磨 くもの(B類 )が
ある。皿B類
の場合器高
︵U
器高︵廻
は、外面の ミガキが らせん状 を呈 し、回転力 を利用 した と考 えられ るのに対 し、耳皿
B類
の場合、当然なが ら回転力 は利 用で きず、手持 ちで磨いている。耳皿で、出土層位か ら年代 の明 らかな ものは、本体 区V層
出土の2点
(図66‑81・ 82) で、元禄年間の ものである。A類 1点
、B類
1点で、元禄年 間には、 この両者が共存 していた ことが判明す る。③ 焼塩壺
Fig 68 A ceranlic salt pot from NM4図68
二の丸跡第4地点 出土焼塩 壺 焼塩重 は、全部で21点出土 している。年報6で
報告 した本体区部分では16点出上 してお り、その内
8点
が格子タタキロを施 し、 コップ状の形態 と考 えられるものである。2点
は、 日縁部 に段が付 く印籠形の もので、残存状況が良 くないため、刻印の有無 は不明であるが、その形態 か ら、畿内産の もの と考 えられる。2点
が口縁部の小破片で、全体の特徴 は判 らないが、日縁 部 に段が付かないもので、格子 タタキロを施す コップ状 の形態の ものの口縁部の可能性がある。その他 は小片のため、特徴 な どは不明なものである。本年報で報告 した、本体区以外の調査区 では、計
5点
出上 してお り、全て格子 タタキロを施す ものである。これ らの焼塩壷の内、出土層位・ 遺構か ら年代の明 らかなものは、図66の76〜79で、元禄年 間の ものである。 また、10区
V層
出上の図23‑114・ 115も同 じく元禄年間の ものである。今回 の調査以前 に、仙台城二の丸跡か ら出土 した焼塩壷 としては、第4地
点 (年報5)出
上 の もの が1点あるのみである。 これは第4地
点H区
の73・ 74区6a層
出上の もので、年報5で
は、実 測図が掲載 されていないので、図68に示 した。 ロクロ整形で、回転糸切 りの後 に底部外周 をヘ ラ削 りでカ ッ トグラス状 に面取 りを施す。 この焼塩壷の出上 した6a層
は、寛永15年 (1638年)の二の丸造営 に伴 う大規模 な整地層 に覆われる層で、1638年以前であることが確実 な資料であ る。
これ ら仙台城二の丸跡か ら出上 した焼塩壷の中で主体 を占めるものは、ロクロ整形で回転糸 切 り、 コップ状の形態で、体部下半部 に斜格子状のタタキロを施す ものである。第
5地
点出土 の焼塩重で は、21点中13点が このタイプの もので、62%を
占める。 この格子 タタキロの焼塩壷 は、今の ところ、その出土が仙台藩領内に限 られ、他の地域 に見 られないことか ら、地元で生 産 された可能性が指摘 されて きた(佐久間ほか1993)。 図69に仙台藩領内で これ まで に報告 され た焼塩壷 を示 した。仙台城三の丸跡の資料 は、いずれ も三 の丸跡の変遷 のI期の資料である (佐藤洋 ほか1985)。
三の丸跡I期は、三の丸が造営 され米蔵が置かれ る以前の時期 と考 えられている。三の丸造営 は、二の丸造営 と同 じ寛永15年 (1638年
)に
開始 されてお り、 これ らの焼塩壺 も寛永15年以前 の ものである。図69の 1・ 2はロクロを使わないもので、その形態か ら畿内産か、その系譜 を0 5 cm
ー
鵡
鯵
山 ﹈ 躍
14 (128)ロ ガ
15(131)
ドキュメント内
東北大学埋蔵文化財調査年報7
(ページ 148-151)