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ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報7 (ページ 107-125)

昭 翌

義 ロ

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F ‐1

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オ            \

面 一

図 39こ の丸跡第う地点全体連構配置図

(■

b期

)

風憲・39 Distributio4 of featuFeS at NM5 1phase IIbl

91

されていた可能性が指摘 された。ただ し、その密度 は低 い値であった。 この段階では、狭義の 二の丸の範囲内で はない ものの、仙台城の一連の施設のある区域の中で、陸稲が栽培 されてい る状況 とい うのは、あまり想定 し難い。畑の存続期間が短い とする と、何 ゆえ稲 を栽培する必 要があったのか、解釈 しず らい ものがある。 あるいは、保温のためな どに稲藁が敷かれた場合

も想定 しておいた方が良いのであろうか。

なお、花粉分析ではスギ属の花粉が高率 を占めているが、二の丸 の周囲には杉の並本がめ ぐ っていた ことと関連す るものであろう。今回の調査区の周辺では、北側の堀 との境付近 に現在 で も二の丸時代か ら残 る杉が存在 している。

13)Ⅲ

期の遺構

Ⅲ期 の遺構 は、元禄年間の二の丸改造 によって、中奥が この区域 にまで拡張 された後の遺構 群 と考 えられ る。III期は、Ⅲ

a期

III b期に細分 されたが、基本的な土地利用のあ り方 は、両 期 を通 じて大 きな変化 は見 られない(図40・41)。 次 に詳 しく検討す るが、Ⅲ

a期

とⅢ

b期

では、

ほ とん ど位置 を変 えないで、同様 の遺構が存在 してお り、ある時期 に、この区域全体で

2C層

と、

それに対応す る整地層 によって整地が行われ、造 り替 えられている。本体 区の

2C層

に相 当す る と考 えられ る、

1区

3A層

か ら18世紀後葉 の陶磁器が まとまって出上 してお り、 この頃 に整 地が行われた可能性がある。 しか し、文献記録上では、18世紀後葉 に二の丸 の改変の記録 は見 つ けられない。文化元年 (1804年

)に

、雷火のため中奥 を含 む二の丸が全焼す る とい う記録が 残 ってお り(仙台市教委1967)、

Ha期

か らⅢ

bへ

の改変が、第

5地

点のほぼ全域で認 め られ る 大規模 な ものであるため、この文化元年の火災 に伴 う造 り替 えのである可能性 も考 えられるが、

3A層

の一括遺物 の年代 とずれて しまう。 また、今回の調査区では、火災の痕跡 を示すような 状況 は確認で きなかった。 そのため、今回の調査成果か らは、Ⅲ

a期

か らⅢ

b期

に移 り変わ る 時期 は、18世紀後葉以降 と限定す るに留 めてお きたい。

a期

とⅢ

b期

では、基本的な遺構配置 は変化が無 いので、以下、両期 をまとめて検討する。

 

検 出遺構 と絵図 との対比

A.調

査区の位置

ma期

III b期で は、 ほ とん ど同 じ場所で、同様 の遺構が存在 しているが、特 に区画施設 と 考 えられ る遺構で顕著である。但 し、10区の北端 で検 出された落 ち込 みは、 その位置か ら、二 の丸北側の堀 の南岸の落 ち込み と考 えられ るが、 これ については

1時

期のみの確認である。埋 土か ら遺物が出土 していないので、その時期 は不明であるが、

ma期

・ Ш

b期

ともに、ほぼ近 い位置 に堀 の落 ちが存在 した もの と考 えられる。 この堀 より南側の、Ⅲ

a期

III b期の対応す る遺構 を、北か ら順 に示す と次の通 りである。

│―

一煮煮―――ゴ 市

/        /        /   

40 

二の丸跡 第5地点全体 遺構固E置図 (Ⅲa期) Fig.40 Distribution of features at NM5(phase  ⅡIa)

日藻零

/

嗜蜜昌 量 盟警

   

B国 酔墓果

==言

‐ ミ ミ て 三

F=宦

菫 」 れ

/

41 

二の丸跡第5地点全体遺構配置図 (Ⅲb期)

Fig 41 DistibutiOn Of features at NM5(phase IHb) た≠/幼

ma期  34号

・39号溝、

9号

建物

‑9号

‑4・ 6号

b期 33号

・37号溝、

8号

建物

‑8号

‑5号

ma期

の34号 。39号溝、Ⅲ

b期

の33号 。37号溝 は、方向が一致することから一連の清である と考 えられ る。 しか し、 これ らが一連 の溝であれば、

5区

の撹乱 を受 けていない部分で検 出 さ れ るはずであるが、確認で きていない。この点で問題が残 っているが、

5区

は試掘調査のため、

遺構 をほ とん ど掘 り下 げていないため、十分確認 で きなかった もの と考えておきたい。

Ha期

の4・

6号

溝、Ⅲ

b期

5号

清の南側 には、掘立柱 の建物跡や柱列が集中 してい る。

b期

では、

2号

溝が

5号

溝の南側 に平行 して走 ってお り、 これ らの溝の西側 に門跡1・

2が

ある。

ma期

には門跡が確認 されていないが、 これはⅢ

b期

の門跡2の規模が大 きいため、遺 存 していない もの と考 えられる。 また、門跡の西側 には、確実な遺構が確認 されていないが、

Ⅳ期の

7号

溝 を保存 したためその部分の調査 を行 っていない こと、

2号

建物跡な どⅣ期 の遺構 が比較的密な部分であるため、 これ らによって破壊 されたか、あるいは十分認識できなかった

もの と考 えられる。

この ような遺構 のあ り方か ら、絵図で類似す る部分 を探す と、中奥の北辺に設 けられた門 と その周辺か ら、北側の中奥馬場 。屏風蔵 をへて、二の丸北側の堀の部分に相当すると考 えられ る (図42〜45)。 すなわち、

9号

建物 と

8号

建物が「屏風蔵」 に相当 し、34・39号清、33・37号 溝が、「屏風蔵」の北狽1の溝 に相当す る。 これ らの遺構の南側 は

9号

溝、

8号

溝 まで、遺構 はほ

とん ど検 出されてお らず、 この部分が「中奥馬場」 に対応すると考 えられる。

9号

溝か ら4・

6号

溝 の間、

8号

溝か ら

5号

溝の間が、二の丸北辺の外側 の道路状 の部分 に対応す ると考 えら れ る。Ⅲ

a期

では、4・

6号

溝の北側が、石 を敷 いた道路状 を呈 していた。 この4・

6号

清 と

5号

溝が、中奥北辺の塀の外 に伸びる溝で、門跡が北辺の門 に相 当するであろう。

二 の丸 の絵図の内、北側の堀 まで

1間

ごとの方眼 にのせて施設 を描 いている享和

2年

図 を利 用 して、 これ らの遺構 と、絵図に表 された施設 との距離関係 を検討 してみたい (図44、 註3)。

なお溝 は、その中心で距離 を計測 した。

絵図

 

土手

A南

‑12.5間

―溝

A― ‑18.7間

―溝

B― ‑3.5間

―溝

C― ‑2.2間

―溝

D

(24.6m) (36.8m) (6.9m) (4.3m)

ma期   

堀上端

‑23.5m‑34号

‑39.8m‑9号

‑9.2m‑4号

Ш

b期   

堀上端

‑23.6m‑33号

‑39.6m‑8号

‑9.6m‑5号

‑2.Om‑2号

溝 いずれにおいて も、若干のずれが出ているが、大 きな位置関係 としては、対応 しているとみ なして良いであろう。 また、 このように推定すると、門跡の西側で南北方向に伸びる、Ⅲ

b期

3号

柱列 。

4号

柱列 は、「番所」か ら南 に伸 びる塀 に相当す るものであろう。

ただ し、享和

2年

図では「御屏風蔵」 は梁行

3間

で描かれている。

8号

建物 と

9号

建物 は、

42 

享和三年御家作御絵図写 (『近世 武士住宅習 よ り、一部改変)

Fig.42  A transcript Of cOnstruction plan for♂V力珍οttα%%(Origina■y drawn in 1802)

43 

調査 区周辺の絵図 (享2年図、『仙台城習 よ り、上 が北)

Fig.43 A picture rnap around the area of NM5(transcript,Originally drawn in 1802)

いずれ も東西方向は柱間約

2mで

、ほぼ1間

6尺 5寸

と考 えられ るのに対 し、

9号

建物跡の 南北方向の柱間は

4.5mと

な り、絵図の

3間

とい う表現 に合わない。ただ し、図45のなかで は「御 屏風蔵」は梁行

3間

(4間 ?)で

描かれている。 また、 この

8号

建物 と

9号

建物 については、

周囲に撹乱が多 く、柱穴 も全て検出で きている訳で はない。 そのため、示 したの とは異なる組 み合わせ になる可能性 も残 っている。問題 は残 っているが、

8号

9号

建物の位置関係か ら、

礎石 を用いた建物 としては、「御屏風蔵」以外 に対応 しそうな建物 は見あた らないため、 この よ うに考 えておきたい。

享和

2年

図では、

8号

溝 。

9号

濤 に相 当す ると考 えられ る溝

Bの

南側 に、土手の表現が ある (図44、 土手C)。

8号

溝 。

9号

溝 はいずれ も、 その両側で岸の高 さが異なってお り、 南4Rllが高 く、北側が低 く なってお り、溝 をはさんで地表面の高 さが変わる。 その高低差 は、

9号

溝 で40

cm、

8号

溝で30cmで あ り、 この段差の部分 を上手 として表現 した もの と考 えられる。

さらに、宮城県立図書館所蔵の F御修覆帳』所収 の「御貸長屋井御二丸御屏風蔵」 と題 され た絵図には、中奥北辺の塀が描かれているが、 この北辺で門は、先 に推定 した場所 にのみ見 ら れ、それ以外 には「塀 口」しか無 く(図45)、 上記の推定 に符合す る。なお、 この絵図には、中

日 塀 口 建物 園 溝・ 井戸

区目土手

44 

中奥 と屏風蔵付近の絵図 (享和2年図、 1/500、 上が北)

Fig.44  A picture map aroundか リカαθ力%and 5ヶοう″gク拓彦(transcript,Origina■y drawn in 1802)

Ma

□ 図

45 

御二丸御屏風蔵井御貸長屋絵図(手前力Чヒ) Fig.45 A picture■lap of the north end of氏οttρη(transcriptl

ΦΦ

奥北辺の北側 に、土手の表現 と同 じ色で、中心 を開けた表現が見 られる。これが先に指摘 した、

享和

2年

図の濤

Bに

あたると考 えられ、

8号

溝・

9号

濤 に相当する。 このす ぐ北側 に、細い平 行線で施設 を描 いてお り、脇 に「竹柄垣」 と記載 されている。具体的な構造 は不明であるが、

竹 を用いた垣根 であると思われ る。

9号

溝では、その北岸 に小規模 な杭状 の穴が多量 に検出さ れてお り、 これ らが絵図に記載 された「竹柄垣」に相当する可能性が高い。 また、「馬場」中央 に も、土手の色 で中心 を開けた表現が見 られるが、Ⅲ

b期

の38号溝が、これに位置が対応する。

享和

2年

図では、土手

Bに

あた る位置である。

B.門

跡東側の遺構

ma期

。Ш

b期

ともに、門跡の東側 にあた る区域 には、多 くの掘立柱の柱穴が密集 していた (図47)。 遺構 の整理 に努 めたが、きわめて複雑 なため、なお多 くの組み合い関係が不明な柱穴 が残 ってお り、実際 には示 した以上の柱列や建物が存在するもの と考 えられる。

享和

2年

図で は、 この区域 に相 当する中奥の「御門」の東側 には、

4間

の間 をあけ、約1問× 約7間の東西 に細長い建物が描かれているが、建物の名前 は書かれていない(図43)。 この建物

は、北側半分 に平行線が引かれてお り、板敷 きを表 していると考 えられる。同様の建物 は、同 じ享和

2年

図で は、二の丸の正門である「詰之門」北側 に存在する (図46A)。 この「詰之門」

北側の建物 も名前が書かれていないが、嘉永六年図では同 じ建物 に「又者腰掛」 との名前が記 載 されてお り、「詰之門」の西側の広場 を取 り囲むように、同 じ表現で「又者腰掛」「腰掛」 と 記 された建物が描かれている(図46B)。 これ らの「腰掛」は、供廻 りの者の控 え所 と考 えられ、

半間分の平行線 の引かれた部分が板敷 きで、空 白の半間分の部分が土間であろう。「詰之門」の 脇 には、 これ らの「腰掛」 とともに「番所」が並んでいる。「中奥御門」は、表から中奥に入 る

享和三年之御家作御絵図写 御二丸御城中並御中奥下水技溝御絵図 (嘉永六年)

46 

詰之問周辺 の絵図 (上が西)

 (貿k中

Fig 46  Picture map around the main gate of Secondary Citadel(transcript)

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報7 (ページ 107-125)