1.遺
構 の変 遷今回の第
5地
点の報告では、18列以南の本体 区を先の年報6で
、 これ より北の部分 について 本年報で報告 した。 ここでは、5地
点の調査区全体 について、I期か らⅣ期 にいたる各時期の 遺構 を、それぞれ検討 してみたい。(1)I期
の遺構I期は、元禄年間の整地層以前の もので、二の丸拡張以前に置かれていた、五郎八姫の居館、
西屋敷 に関わ る遺構 と考 えられ る。
I期
は、Ia期
とIb期
に細分 された。 まず、 このIa期
と
Ib期
の年代 を検討 したい。①
la期
・Ib期
の遺構の年代文献か ら知 られ る西屋敷 に関わ る記述 の内、屋敷の改変 につなが る可能性のある出来事 とし ては、以下の
3件
が考 えられ る。元和
6年
(1620年)五
郎八姫 の帰仙 に伴 う西屋敷の造営。寛永13年 (1636年
)伊
達政宗の死去 に伴い隠居 した茂庭綱元が、愛子村栗生の西館 を五郎八 姫 に差 し上 げ、西屋敷 と愛子の西館が併存するようになった こと。6号建物跡
池 7埋 1層・ I‑18Ⅵ Ⅱ層
図
31 1a期
の遺構 出土遺物Fig 31 Porcelains and glaτ ed ceranlics fronl features of phase l a at NM5
463
1号 配石他
20号溝掘方埋土他
寛文元年 (1661年
)五
郎八姫の死去。Ia期
の開始時期 を直接検討で きるような遺物 は出土 していないが、元禄年間以前で庭囲を 伴 う礎石建物群 という大規模 な造営 は、西屋敷の造営以外 には考え難い。 したがって、Ia期
の開始が、元和
6年
(1620年)の
西屋敷造営 にあた ると考 えられる。図31に示 したのは、
Ia期
の遺構 を埋 めている層か ら出上 した陶磁器である。この内、453が 1640〜 1650年代、その他の ものは、17世紀後半の ものか、17世紀後半以降の もの と考 えられ る。これ以外 に、
Ia期
の20号濤埋土か ら17世紀末以降の磁器が出上 しているが、Hb期
に畑が作 られた際 に、20号溝 に重な り、その窪みを利用する形で、畑の周囲の区画溝が設 けられてお り、本来 は
Hb期
の遺物であった と考 えられ る。 したがって陶磁器からは、Ia期
とIb期
の境 を 寛永13年の西館 との併存開始の時期 とす るのは難 しく、寛文元年の五郎八姫の死去以降 と考え られる。また、3号
石列遺構 の掘方埋土か ら寛永通宝が出上 している。寛永通宝の鋳造開始 は、寛永13年であ り、 この点か らも
Ib期
の開始 を寛永13年まで上 げることは難 しい。Ib期
の遺構 を埋 めているⅧ層か らは、元禄4年
(1691年)の
紀年銘のある木簡が出上 して お り、元禄年間 に行われた二 の丸改造の際に埋められていることが判明する。木簡 は荷札 と考 えられ るもので、使用 されてか ら捨て られるまでの時間が、さほど長い とは考 えがたい ことか ら、元禄4年
頃 までには、Ib期
の遺構 は廃絶 した もの と考 えられる。以上 の点か ら、
Ia期
が元和6年
(1620年)の
五郎八姫の帰仙か ら、五郎八姫 の亡 くなる寛 文元年 (1661年)ま
で続 き、Ib期
が寛文元年以降で、元禄4年
以前であることは、 ほぼ確実 であると判断で きる。②
la期
の遺構 と西屋敷Ia期
の遺構 (図32)は
、先 に述べた ように、伊達政宗の長女五郎八姫の西屋敷の遺構 と考 えられる。西屋敷が記載 された絵図は、正保2・3年
(1645・ 46年)の
「奥州仙台城絵図」が 唯―の ものである(図33)。 この絵図は、西屋敷の南 に存在 した伊達政宗の四男伊達宗泰の屋敷 のあった場所 に、寛永13年 (1638年)に
二の丸が造営 されて以降の状況を表 している。城下全 体 を表 した絵図であ り、屋敷の中の建物 な どは描かれていないが、東西102間、南北60間の規模 であった ことが記 されている。今回の調査区が、 この西屋敷の中で、 どのような位置にあたるのかを検討 したい。 これまで の二の丸跡の調査 において、二の丸造営以前の遺構が検出されている地点 としては、今回の第
5地
点の他 に、1984年度 と1987年度 に調査 した第4地
点 (年報5)と
、1990年度調査 の第9地
点 (東北大学埋蔵文化財調査委員会1990、 須籐 。佐久間・ 山田1991)が
ある。第
4地
点では、二の丸造営 に伴 う大規模 な整地層の下層か ら、伊達宗泰の屋敷 と、西屋敷 を 分 ける施設 の可能性のある遺構が検 出 されている(図34)。 59区か ら75区の間が、幅 の広い浅い\ /
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図
32
二の丸跡第5地点全体遺構雷E置 図(Ia期
)Fig 32 Distribution Of features at NM5(phase l a)
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図
33
正保二 。三年仙台城下絵図 (『絵図・地図で見る仙台yょ り)
Fig 33 A histOrical rnap of Sendai city,draM/n in 1645‑46
堀状 を呈 してお り、その中に6・ 7号溝が掘 られている。6・
7号
濤 は平行することか ら、道 路の側溝の可合を陛もあるが、溝 にはさまれた部分 に堆積 した地層か ら多量の木製品が出上 し、低湿な状況であった と推定 されることか ら、宗泰の屋敷 と西屋敷 を区画する堀状の浅い掘 り込 みの中で、排水 を目的 とした溝の可能性 を指摘 している。 これ らのさらに南側 に、
8号
溝が存 在する。第9地
点 は、未報告であ り、詳細 な検討 は加 えていない段階であるが、二の丸造営に 伴 う整地層の下層か ら、伊達宗泰の屋敷 と考 えられ る建物跡 と、第4地
点の南端で検 出された8号
溝 の続 きが検 出されている。この第
4地
点 と第9地
点の様相か ら考 えると、西屋敷の南端 は、少 な くとも、第4地
点で検 出された堀状 の落 ち込みより南 には行かない ことは確実であろう。但 し、 ここで問題 となるの は、今回の第5地
点で検 出された遺構群 は、二の丸期の もの も含 めて、基本的にN‑25° 一Wの
方向を取 り、ずれ るもので もN‑24° 一
W程
度である。それに対 して、第4地
点 と第9地
点の下了ェとを と 量
01 1 1 14m
160区│
図
34
第4地点下層検出遺構Fig 34 Distribution Of features at NM4(earlier phase)
層遺構 は、
N‑29〜
30°一Wの
方向を取 っている。そのため、宗泰の屋敷 と対面する西屋敷の南 辺 を、どちらの方向で復元す るのかが問題 となる。N‑29〜
30°一Wの
方向で復元す ると、西屋 敷の西南隅の位置が、著 しく南 によってしまうことと、屋敷内の建物 との方向がずれることに なるため、 ここではN‑25°一Wに
直交す る方向で南辺 を想定 した。西屋敷の北辺 には、北側 の沢 を拡張 して造 られた と考えられる「ため池」があ り、 ここが屋 敷の北端 となっている。 この「ため池」 は、二の丸が拡張された以降 も、その北辺の堀 として 幕末 まで継続 していることが、 その後の時期の絵図か ら判明する(年報4)。 10区の北端で検出 された堀状の落 ち込みが、二の丸北側の堀の南岸の落ち込みに相当すると考 えられるが、 この 10区の堀が形成 された時期 は、 その埋土か ら遺物が出土 していないため不明である。 しか し、
現状 の地形 も合わせて考 えると、大 きくその位置が動いているとは考 え難 い。次に述べる西辺 の推定 ラインか ら、屋敷南西隅のコーナーを推定 し、そこか ら1間三197cmとして60間 (118,2
m)北
に進んだ所 に北辺 を推定すると、 この10区北端の堀の落ち込みの位置 に近 い所 にあたる。西屋敷の北辺の東側 は、 この部分だけ「ため池」が南に広がっている。現地形で も、 これに相 当すると考 えられ る部分で標高が低 くなってお り、この部分は現地形か ら推定 ラインを考 えた。
正保2・
3年
図では、二の丸北辺の裏門である台所門の前は、「ため池」 となってお り、その 西側 に西屋敷の前の道が南北 に走 っている。後の二の丸が拡張されて以降の城下絵図 と見比べ ると、周囲の武家屋敷 との関係などか ら、正保2・3年
図の西屋敷の前の道が、後の絵図で台 所門か ら北へ伸びる道 に相 当す ると考 えられ る。台所門の位置が時期 によって変化 している可m m m 59
・ 58
・ 57
・
能性 は低 いので、正保2・
3年
図の台所門の位置が若干ずれて描かれている可能性がある。そ うであるな らば、西屋敷の東端 は、台所門の位置 までは行かず、それより西側であると考 えら れる。後 に詳述す るが、Ⅲ期 (二の丸期)の
遺構 と二の丸絵図 との対比か ら、Ⅲb期
で検 出さ れた門跡が中奥の門に相当す ると考 えられ るため、 この中奥の門の位置を基準 に、台所門の西 側 の位置 を算出す ることがで きる。二の丸絵図の中で、1間ごとの方眼が描 かれている享和2 年図を利用 して、間数 を数 えて距離 を算出 した。中奥の門の西端で中奥北辺の塀 とぶつかるところを
A点
、台所門西側か ら北 に伸びる塀が御借長屋の脇の門に分かれ るところをC点
とする と(図42)、A点
か らC点
までの距離 は、東 に80間、南 に17間進んだ ところになる。1間を6尺 5寸
(=197cm)と して計算す ると、それぞれ157.6mと 33.49mになる。 この点 を現地形上 に落 としたのが図35のC点
である。 この点 を通 るように、南辺の推定ラインか ら直角に振 って東辺 のラインを推定 した。 ここか ら102間(200.94m)西
に進んだ所 に西辺のライ ンを想定すると、現地形上で平坦面か ら丘陵斜面 に移行す る付近 に位置することとなる。
以上の検討か ら、現地形上 に西屋敷の範囲 を復元 したのが図35である。 この復元では、西屋 敷の西辺が、第
4地
点の調査区の中を通 るが、第4地
点の調査では、西屋敷 の西辺 に相 当する と考 えられ る確実な遺構 は検 出されていない。 このため実際には、 この復元か ら若干ずれるで あろう。わずかなデータか ら推測 を重ねた復元であるので、今後、修正が必要な部分 も多 く残 つているであろう。 しか し、北側 の沢 と、西側の丘陵地 との関係か ら、西屋敷の推定範囲が こ の復元か ら大 きくずれることは考 え難い。以上のように西屋敷の範囲 を考 えると、第
5地
点の調査区は、屋敷の西 よ りの部分 に相 当す ることとなる。正保二・ 三年図で は、西屋敷の問は東側 に描かれてお り、東側が屋敷の表であり、第