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開港以来の人参主産地における生産と輸出の動向

ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 108-116)

第三章 明治前半期における日本産人参の輸出と産業転換について

第一節 明治初頭日本における人参の輸出とその生産

二 開港以来の人参主産地における生産と輸出の動向

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向にあったことになるが、これらの統計が示すのは、あくまでも輸出量の減少及び会津地 域の産出量の減少に過ぎず、後述するように、人参の主要産地における生産・販売の記録 から見ると、この時期に日本産人参の総産出量が減少したとは考えられないのである。以 下では幕末における人参主要産地の生産や販売の状況を分析し、さらに明治初頭の日本産 人参の輸出状況を再検討してみたい。

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農協の統計調査によれば、会津地域の人参産出量は、1869年には6万5千斤であったが、3 年には7万斤に増加している。ただし人参の栽培には、5年から8年におよぶ期間が必要で あり、この時期に収穫された人参は、実際には戊辰戦争以前に作付けされたものである。

1871年以降、人参の産出量は4万~4万5千斤まで急減しているが、これは明らかに、1868

~1869年における戊辰戦争により、会津地域の人参の収穫量、また加工製造などの関連事 業が大きな打撃を受けた結果である。

このように、当該期の会津における産出量は確かに減少したが、では他の主要産地であ る松江地域・日光地域はどうであろうか。

(2)松江藩

表3-1 によれば、日本産人参の輸出量は1870年に113,778斤に達したが、翌年に減少

に転じ、1872年には65,292斤まで減少し、1873年にまだ76,035斤で低い水準にあった。

人参の栽培周期は比較に長く、採取した人参種をただちに蒔いたとしても、発芽まで20か 月の時間が要る。催芽処理した種18でも播種してから発芽までが約8か月間が必要となる19。 その後、人参苗を現地に育てる。2年目に、育った人参の苗を掘り起こし、その中から育ち のよい生根を選んで植え替えをする。植え替えてからまた 3 年が経て、やがて収穫が可能 になる。すなわち、人参生根の栽培には、種まきから収穫まで少なくとも 5 年の育成周期 が必要である。人参の栽培期間を考慮すれば、1871~1873 年に収穫・輸出された人参は、

安政後期から明治維新の直前にかけて作付けされたものとみてよい。幕末期までの人参の 作付面積や生産量については、統計資料は残されていないが、ここでは松江藩の記録から、

18 催芽処理というのは調合した沙の埋蔵によって人参種の中の芽胚の成熟をうなが すことである。これによって人参種の発芽率が高まる。

19 川島祐次『朝鮮人参秘史』(八坂書房、1993年)、156頁。

- 106 - この時期における人参生産の概況を検討してみたい。

幕末の開港に伴い、日本人参の販売や輸出も好景気を迎えた。幕末期における人参市場 の情況について、当時の松江藩主松平定安の伝記に、次のような記述がある。

嘉永末年より安政の初期に入りて、世上の需要高まり、殊に安政年度の如き、空 前の豊作を告げ、かつ價格上りて利する所多く、同四年には長崎表よりの注文殺 到し……20

これによれば、嘉永末期から、国内外で日本産人参の需要が増大し、価格も高騰した。特

に1857 (安政4)年には、長崎から松江藩に大量の人参の注文があったという。長崎に出

荷された人参はもっぱら中国市場に輸出されていた。そこからの輸出の過熱は、当時の中 国市場における人参需要の高騰を反映している。

前章で述べたように、近世には人参の生産や輸出には幕府による許可が不可欠であった ため、日本産人参の輸出量は、必ずしも海外市場の需要量に十分に対応していなかった。

開港後には、海外市場の膨大な需要が各藩の人参栽培事業を刺激し、消費地の需要増に応 じて、生産地での供給増も図られるようになっていった。しかし、こうした人参需要の増 加にもかかわらず、松江藩はこの時期に、1856(安政3年)年、1864(元治元)年の2回 にわたり、人参栽培面積の減反を指示している21。なぜ海外からの需要が高まり、輸出量が 増加した時期に、栽培面積が制限されたのだろうか。

まず、減作の実態について検討してみよう。松江藩の人参畑は「御手作畑」と百姓畑」

に分かれていたことはすでに前章で紹介した。「御手作畑」とは、藩自ら御手人と称する耕 作者を使役して人参を栽培した畑を指す。それに対して「百姓畑」とは領内の農家に許可 を与えて、藩から種や資金を前貸して産出物を藩に回収するという方式で、人参を栽培さ

20 松平直亮『松平定安公伝』(松平家編纂部、1934年)482頁。

21 島根県内務部『島根県旧藩美蹟』(島根県内務部、1912年)付録。

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せた畑を指している22。松江藩による人参畑の減反令は、後者の「百姓畑」に対して行なわ れたのである。

松江藩が「百姓畑」の削減を図ったのは、人参の生産性に限界があったためである。人 参栽培では、他の農産物と比べて、多くの時間や資金を集約的に投入する必要があった。

長年に育てると大きくなるものの、人参が作付から 5 年たつと、非常に病気にかかりやす くなる。そのため、「百姓畑」を営む農民は、おおむね作付から5年以内に人参を収穫した。

このため、「百姓畑」で生産された人参には、サイズが小さいものが多かったのである。

また加工製造の方面からみると、当該期の人参加工品は、「紅参」と「白参」に分けられ る。「紅参」は中国市場での需要が大きく、価格も高かったが、紅参の加工原料には一定の 大きさが必要となる。このため「百姓畑」で生産された人参は、藩直属の「御手作畑」で 生産された人参と比べると、サイズも小さい傾向があり、紅参に加工できないものがおお かった。

輸出人参の価格はサイズと製法によって決まり、「百姓畑」で生産される人参は、サイズ や製法が劣るために価格が安い。幕末から中国市場の好景気で、松江藩は「百姓畑」の面 積を削減し、輸出向けの高級人参を多く生産できる「御手作畑」に転換することを図った のであろう。幸い、幕末期の松江藩における人参栽培面積については、ある程度の統計資 料が残っている。表 3-3 では、1854~1864(安政元~元治元)年について、松江藩にお ける人参栽培面積の変化を、百姓畑と御手作畑にわけて整理した。

22 堀江保蔵『我国近世の専売制度』(日本評論社、1933年)217頁。

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表3-3 幕末期松江藩における人参畑の内訳23

年間 栽培面積(畑)

御手作 百姓作 合計 百姓作の割合

1854(安政元)年 3,173 3,961 7,133 55.5%

1855(安政2)年 2,145 3,719 5,864 63.4%

1856(安政3)年 2,562 3,342 5,904 56.6%

1857(安政4)年 2,891 4,150 7,041 58.9%

1858(安政5)年 2,686 3,932 6,618 59.4%

1859(安政6)年 3,445 4,095 7,819 52.4%

1860(万延元)年 3,724 4,362 8,086 53.9%

1861(文久元)年 4,636 4,456 9,092 49.0%

1862(文久2)年 4,439 4,431 8,870 50.0%

1863(文久3)年 4,528 5,017 9,545 52.6%

1864(元治元)年 5,271 5,170 10,441 49.5%

表3-3が示すように、松江藩における人参栽培面積は、1854~1855(安政元~2)年の 間に、7133畑から5,864畑に減少し、特に「御手作畑」は、3,171畑から2,145畑へと、

1/3近くも急減したことがわかる。人参栽培は著しく地力を消耗するため、一度人参を栽培 した後は、50~60年間の休耕時間が必要となり、いわゆる「連作を忌む」の特性がある24

23 前掲島根内務部『島根県旧藩美蹟』、付録1~3頁。

24 前掲川島祐次『朝鮮人参秘史』、157~158頁。

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こうして、農民が自営する「百姓畑」と比べて、藩営の「御手作畑」の作付はより利益が 高い。松江藩が限られた人参の栽培地により上質な人参を栽培しようとした可能性が高い。

1855年には「御手作畑」の面積が急減したため、翌1856(安政3)年に、松江藩は、次 のような指示を下し、「百姓畑」の減反を命じた。

一 人参畑十畑作の者、右二ケ年續て一畑一貫目以下、上一歩以下作出し候者三 畑減畑作り、尤翌年より二ケ年續て一畑二貫目以上、上二歩以上作出し候はゞ、

三畑返し遣、如元十畑の事。……

一 右減じ畑、取上げ畑の者、是まで仕込畑掘立の内、上作致し候はゞ、如元再 作可致候と申渡候處、右二ケ年續て一畑二貫目以上、上二歩以上作り出し、尚殘 畑手入等も宜敷、引續上作の見込に有之候者、減じ畑に相成候畑高返し遣し作方 申付、且三ケ年不作にて不殘取上候者、引續一畑二貫目以上、上二歩以上作出し 候は、二ケ年不作の場にて減じ畑殘り畑へ再作申付、尚又引續上作致し候は、如 元作方爲致可申候事25

これによれば、「百姓畑」のうち低級人参が多い畑、つまり2年連続で一つの畑の産出量 が1貫目以下で、かつ上質人参の栽培が 1歩以下の人参畑に対して、栽培面積の減反が命 じられたことになる。その目的は、前年に「御手作畑」畑の面積が大きく減少したため、

生産性が低い「百姓畑」の減反を行い、将来的には生産性の高い「御手作畑」に転換する ことにあった。ただし「百姓畑」であっても、一つの畑で、2年連続で2貫目以上の人参を 産出し、かつ上質人参の栽培面積が 2 歩以上であり、その後も上質人参を生産する見込み があれば、元通りの畑で作付させることを認めたのである。すなわち、農民の経営努力に より人参の生産力が向上すれば、減反以前の畑をふたたび耕作することを許したのである。

しかし、この指示は必ずしも十分な効果を挙げなかったようだ。表3-3によれば、指示 が下された1856年には、たしかに「百姓畑」の面積は、前年の3,718畑から3,342畑へと 減少している。ただし1857(安政4)年には、「百姓畑」の面積は、むしろ4,149畑に急増

25 前掲松平直亮『松平定安公伝』、483頁。

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