第三章 明治前半期における日本産人参の輸出と産業転換について
第一節 明治初頭日本における人参の輸出とその生産
一 明治初頭における日本産人参輸出の概況
従来、日本産人参の輸出については、明治維新の前後を転換点として時期区分を行うこ とが多い。しかし人参栽培には 5 年以上に及ぶ期間が必要なため、明治最初期に輸出され た人参は、幕末に栽培されたものであり、人参の生産と貿易の全体像を考察するためには、
明治維新以後の状況を検討するだけでは十分ではない。また、開港から 1872(明治 5)年 頃までは、幕府による人参輸出に対する統制はなくなったものの、各地の人参生産は、依 然として各藩の支配下で行われていた。ただし、その生産体制は、当初は旧来の形態を継 承しながらも、徐々に改革も進められ、明治中期における人参事業の近代的経営へと至る 過渡期的状況にあった。そのため、本節では先に維新前後における人参の生産体制の変化 を踏まえて、明治初頭における日本産人参の輸出の問題について考察することにしたい。
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幕末の開港により、幕府による対外貿易への統制が撤廃されたことに伴い、日本の対 外貿易額は急増していった。特に開港の直後には、海外では日本産品の需要が大きく、対 外輸出は輸入に比べてかなり優位にあった6。輸出品の中心は、主として欧米市場向けの生 糸・茶・蚕卵紙などであったが、やがて海産物や人参などの、中国市場への輸出も大きく 増加していく7。幕末から明治初頭にかけて、日本産人参の対中輸出は、一時的な減少はあ っても、全体としては増加傾向にある。たとえば、長崎港に経由して清朝に輸出された日 本産人参は、1863(文久3)年には323.31ピクル8(約38,798斤)であったが、2年後の 1865(慶応元)年には528.31ピクル(約63,397斤)に増加し、翌1866(慶応2)年には、
さらに634.02ピクル(約76,082斤)に達しており9、三年間で輸出量はほぼ倍増している。
開港前に、人参の輸出は長崎会所に独占されており、その輸出量も厳しく制限されていた が、開港に伴い輸出制限は撤廃され、さらに長崎だけではなく、横浜・大阪・箱館からの 人参輸出も始まった。それにより、人参の輸出量は急増し、明治維新の直前には、年間輸 出量は10万~25万斤までに達した10。
明治期に入ると、人参輸出額に関する政府統計資料が残っているため、輸出動向をより 実証的に分析することができる。明治初頭における人参輸出量の変化は、表3-1に示す通 りである。
6 山口和雄『幕末貿易史』(中央公論社、1943年)5頁。
7 石井孝『幕末貿易史の研究』(日本評論社、1944年)83~120頁の関連数値による 推算。
8 ピクルは英語のpiculであり、旧制の重量単位で、1picul=120斤。
9 前掲石井孝『幕末貿易史の研究』102~107頁。
10 今村鞆『人参史』(朝鮮総督府、1934年)第4巻の407頁の会津産人参の輸出量か ら推算。
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表3-1 明治初頭における日本産人参の輸出量11
年間 輸出量(斤)
1868(明治元)年
1869(明治2)年 113,502
1870(明治3)年 113,778
1871(明治4)年 89,247
1872(明治5)年 65,292
1873(明治6)年 76,035
上表に示した明治元年の数値は、維新時の資料が欠落しているために不明であるが、明 治3年までは、日本産人参の輸出は、おおむね幕末以来の増加傾向を維持していたといえ る。しかし明治3年に113,778斤に達した人参の輸出額は、翌4年には89,247斤、明治5 年にはさらに65,292斤へと急減し、明治6年にはやや回復して76,035斤に増加するが、
依然として低い水準にとどまっていた。
こうした輸出下降の原因について、従来の研究では十分な分析が行われていない。『日本 人参史』では、1871~1873年における輸出の沈滞について、人参産業の民営化に伴う、生 産体制の混乱と産出量の減少、もう一つは戊辰戦争による会津地域の荒廃に伴う、会津産 人参の産出量の急減である12。また『日本人参史』では、会津農協の調査統計に基づいて、
明治初頭の全国、及び福島(会津)・島根(松江)地域における人参産出量の変化を、表3
11 前掲神原『日本貿易精覧』、38頁。
12 日本人参販売農業協同組合連合会『日本人参史』(「日本人参史」編集委員会、1968 年)108頁。
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-2のようにまとめている。
表3-2 明治初頭日本における人参の産量13 (単位:斤)
年間 全国 福島県(会津) 島根県(松江)
1869(明治2)年 113,503 65,000 40,000
1870(明治3)年 113,773 70,000 /
1871(明治4)年 89,247 45,000 /
1872(明治5)年 65,292 40,000 /
1873(明治6)年 76,035 45,000 /
しかし、この資料については、いくつかの問題がある。まず表3-2で全国の人参産額と して示されている数値は、表3-1に示された、政府統計における人参の輸出量とほぼ一致 している。当然ながら、日本で生産された人参が、すべて輸出に回されるとは考えがたい。
表3-2で全国の生産総額として示す数値は、1882(明治15)年版『大日本外国貿易年表』14、
『大日本外国貿易46年対照表』15、『日本貿易精覧』16等の統計資料集に掲載された人参輸 出のデータともほぼ一致しており、実際には対外輸出総額を示していることは疑いない。
日本産人参の輸出量を、あやまって産出量として示しており、結果的に人参の生産・輸出 動向に関する分析が不適切となっていると思われる。
また表3-2によれば、1871~1873年には、日本国内における人参の総産出量は減少傾
13 前掲日本人参販売農業協同組合連合会『日本人参史』の121頁の「明治前期の人参 産額」により。島根県における明治3~6年の数値は不明
14 大蔵省編『大日本外国貿易年表』(東京印刷局印行、1882年)
15 農商務省商工局編『大日本外国貿易46年対照表』(東京製本合資会社、1915年)
16 前掲神原周平『日本貿易精覧』、38頁。
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向にあったことになるが、これらの統計が示すのは、あくまでも輸出量の減少及び会津地 域の産出量の減少に過ぎず、後述するように、人参の主要産地における生産・販売の記録 から見ると、この時期に日本産人参の総産出量が減少したとは考えられないのである。以 下では幕末における人参主要産地の生産や販売の状況を分析し、さらに明治初頭の日本産 人参の輸出状況を再検討してみたい。