第一章 近代移行期中国における人参の管理策及び市場について
第二節 清朝の「参務」管理策の影響
二 参類商品の多様化
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局は現状を追認し、栽培人参(秧参)の販売を黙認して課税することにしたのである51。 一方、参価の高騰にも関わらず、民間における人参の消費ブームは続いたため、人参の 供給不足はさらに深刻化していった。当時の名医である徐大椿(1693~1771年)によれば、
世間の人々は高価な人参を良薬として過度に尊重し、家族も病人も病状を問うことなく、
人参さえ飲めば病に効くと思い込み、仮に効果がなくとも、人参を服用すれば人事を尽く したと判断していたという52。こうして人参の需要過剰はさらなる人参価格の高騰を招き、
乾隆後期になると参価は一般人に入手できない価格にまで上昇したのである。
このような、清朝統治下における人参価格の高騰の要因の一つは、「温補」を重視する医 学思想の普及にある53。またそれとともに、本節で指摘したような、清政府による人参の統 制策の影響も重要な要因であろう。清朝が定額の野生人参の採取・納入を義務づけ、地力 の消耗と野生人参の減少を招く一方、人参栽培を禁止していたことにより、民間市場に出 回る人参は、需要の増大にもかかわらず減少し、そのことが清代後期における人参価格の 急騰を招いたのである。
- 46 - も含まれていた。
清朝の本草学者である趙学敏が述べるように、「参」を冠する市販薬種のなかには、苦参・
沙参など、本来の人参とは異なるものもあり、薺や三七など、形状は人参と似ているだけ のものも含まれていた54。このような人参に関連する薬種の増加や、人参に仮託した類参薬 種の横行により、人参の真偽を見極めるために、種々の専著が発行されるほどだったとい う55。表 1-2 は、明代の本草書『本草綱目』と、清代の『本草綱目拾遺』に記録された、
「参」と称する薬名を網羅的に対照したものである。
表1-2『本草綱目』と『本草綱目拾遺』における「参」と称する薬名
書名・年代 薬名
本草綱目 (1578年)
本草綱目拾遺 (1765年)
①人参 ○ ╳
②参条 ╳ ○
③参鬚 ╳ ○
④参葉 ╳ ○
⑤参蘆 ╳ ○
⑥(人)参子 ╳ ○
⑦丹参 ○ ╳
⑧玄参 ○ ╳
⑨苦参 ○ ╳
⑩沙参 ○ ╳
⑪北沙参 ╳ ○
⑫南沙参 ╳ ○
⑬空沙参 ╳ ○
⑭紫参 ○ ╳
54 趙学敏『本草綱目拾遺』(中国医学大成続集 7、上海科学技術出版社、2000 年)70~128 頁。
55 たとえば、陸烜編『人参譜』(乾隆31[1766]年成書)、兪枚吉『人参譜』(約乾隆時期成書)、
唐秉鈞編『人参考』(乾隆43[1778]年成書)、鄭昴編『人参図説』(嘉慶7[1802]年成書)、
黄叔燦『参譜』(嘉慶13[1808]年成書)などがある。
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⑮拳参 ○ ╳
⑯杏参 ○ ╳
⑰元参 ○ ○
⑱珠(兒)参 ╳ ○
⑲ (上)党参 ╳ ○
⑳防風党参 ╳ ○
○21土人参 ╳ ○
○22太子参 ╳ ○
○23西洋(人)参 ╳ ○
○24東洋参 ╳ ○
○25羅浮参 ╳ ○
○26昭参 ╳ ○
○27菊花参 ╳ ○
○28煤参 ╳ ○
○29建参 ╳ ○
○30阿勃参 ╳ ○
○31紅毛参 ╳ ○
*○は該当薬名が記録されていることを示し、×は記録されていないことを示す。
明代の李時珍が編纂した『本草綱目』は1578年に成書し、歴代の本草書の集大成に位置 づけられる。同書では「参」と称する8種類の薬種を記録している56。これに対し、趙学敏 が1765年に編纂した『本草綱目拾遺』では、「参」を称する薬種は急増加し、31種に達し ているのである。
現在確認できる人参(Panax ginseng)の最も早い記録は、南北朝の梁代に編纂された『本 草経集注』にある。同書には人参以外に、丹参、玄参、苦参、沙参という 4 種の類参薬種 も記載されており、伝統医学で言うところの「五参」がこの時期にすでに形成されていた
56 草部第12巻に、人参・沙参・玄参・丹参・紫参の項目が、同部の第13巻に苦参・拳参の項 目がある。(李時珍編、劉衡如、劉永山校注『本草綱目』新校注本・第三版、華夏出版社、2011 年)。
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ことがわかる57。宋代になると「参」を称する常用薬種は8種類に増加した58。その後、『本 草綱目』が編纂された明末まで、「参」と称する薬種の数に変化はない。つまり、梁代から 明代まで千年以上にわたり、「参」と称する薬種はあまり増加していなかったのである。表 1-2に示した31種の薬種のうち、23種は清代になって本草書に初めて記録されたもので ある。
前述のように、乾隆後期には野生人参が枯渇し、人参価格が急騰していた。これに対し、
人参に対する需要は高い水準を維持していたため、市場には人参の植物体から派生した商 品や、「参」の名称に仮託した類参薬種が大量に流通するようになった。こうした状況が、
本草書における「参」と称する薬種の増加にも反映しているのである。
これらの清代に登場した「参」と称する薬種は、次の 3 種類に大別することができる。
まず第一類として、植物学上の人参に対し、その利用部位によって異なる薬名をつけたも のがある。表1-2の①~⑥がそれに該当する。清代以前には、薬用を目的として利用され る人参は主根部が中心であった。しかし、人参の産出量が減少するに従い、従来は使用さ れなかった部分も薬用に供されるようになった。表中の③参鬚、④参葉、⑥参子は人参主 根の稀少化によって、人参の主根の代替品として使用されたものである。
これらの薬効については、たとえば『本草従新』には、参鬚の条に「而力甚薄」とあり、
また参条や参鬚についても、「要知参条・参鬚、不過得参之余気、危険之証、断難倚杖」59と 記すように、人参主根と比べれば薬効ははるかに劣ると評価されていた。しかし、参価が 高騰するにつれ、薬効が低いとされた参条や参鬚なども利用せざるを得なくなったのであ る。このことは、清代の名医である徐大椿、王九峰(1753~1821)、王士雄(1808~1868)、
57 宋承吉「陶弘景在人参薬用歴史上的貢献(二)」(『人参研究』、2010年第3期)。
58 唐慎微『重修政和经史証類備要本草』(人民衛生出版社、1957年)巻6、157頁。
59 呉洛儀『本草従新』(中国医学大成続集5、上海科学技術出版社、2000年)3頁。
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馬培之(1820~1903)、丁甘仁(1865~1926)などの医案にも、参鬚などの主根以外の人 参を用いた処方が散見されることからも看取しうる60。具体的には、重病には主根を用いる が、軽症には参条や参鬚などを用いるといった処方がなされていた。
第二類は、人参以外の伝統的な「五参」から派生したものである。それらは大きく(1)沙 参類と(2)党参類に二分される。まず(1)沙参類には、表 1-2 の⑩沙参、⑪北沙参、⑫南沙 参、⑬空沙参が該当する。沙参は5世紀ごろ編纂された医書にはすでに記録されている61。 しかし、現代植物学からみると、沙参はウコギ科に属する人参とは全く別種の、桔梗科の 沙参属に属しており、学名はAdenophorastricta Miq.である62。
清代の『本草従新』以降、沙参は南・北の二種に分類されるようになり、特に北沙参は 強い薬効があるとされた63。だが、植物学の分類に基づけば、両者は同類ではない。北沙参 とは傘科珊瑚菜のことであり、学名はGlehnia littoralis F. SCHMDT ex Miq.である。一方、
南沙参は桔梗科の輪葉沙参(Adenophara tetraphylla Thunb. Fisch)、もしくは本来の沙 参を指している64。この2種類の異なる植物がともに沙参と称された原因は、両者の薬効が いずれも「利肺」、「補肺」であったためである。現代の『中国薬典』には、両者ともに「養 陰清肺、益胃生津」の効用があるとされる65。清代には未だ薬種の有効成分に対する科学的 な分析が確立されておらず、両者の薬効が共通していることから、ともに沙参と称したの である。また、⑬空沙参とは、桔梗科の沙参属の薺苨(Adenophora trachelioides Maxim)
60 夏翔『歴代名医医案精選』(上海人民出版社、2004年)36~121頁。
61 尚志鈞、尚元勝輯校、陶弘景『本草経集注』(人民衛生出版社、1994年)280頁。
62 中国国家食品薬品監督管理総局(以下「中国食薬局」と略称)『中国薬典』(2015 年第 1 版)100頁の「沙参」条参照。
63 前掲呉洛儀『本草従新』、10頁。
64 前掲中国食薬局『中国薬典』、244頁の「南沙参」条参照。
65 前掲中国食薬局『中国薬典』、100頁の「沙参」条、244頁の「南沙参」条。
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を指し、⑯杏参の別名でもある66。「杏参」は11世紀の医書に記載があるが、清代には桔梗 科の沙参と近縁の植物として認識されるようになった。
ついで(2)党参類について検討しよう。⑲党参は桔梗科に属し、学名はCodonopsis pilosula である。党参が人参と区別されるようになったのも、清代の『本草従新』に始まる67。党参 は本来山西省の上党地方で産出した人参を指していた。5世紀の『本草経集注』では、人参 の産地について「上党及遼東山谷」と記しており、上党は遼東と並ぶ人参の主産地であっ た68。しかし、清代には上党地方での人参は絶滅してしまい、本来の上党産人参に代わって、
桔梗科のCodonopsis pilosulaが党参として利用されるようになったのである。この党参と
人参の関係については、乾隆年間に編纂された『本草求真』(1769年刊)の党参の条に、次 のような詳しい説明がある。
観此則知諸参惟上党為最美、而上党既不可採、豈復別有党参之謂哉。近因遼参価 貴、而世好奇居異、乃以山西太行山出之苗、及以防風、桔梗、薺苨偽造、相続混 行。詎知参有不同、性各有異。防風、桔梗乃属表散風寒傷気之味、人参甘温乃属 補益気之味、即山西太行山新出之党考之、張璐亦謂甘平清肺、並非等於真正党参 確補益69。
これによれば、党参(上党産人参)は古くから最上質品とされてきたが、清朝にはすで に産出されなくなっていた。一方、当該期の遼参(遼東産人参)の価格が高騰するにつれ、
防風や桔梗など類似の植物を党参と詐称するようになったが、これらの薬効は党参と異な るものであった。山西の太行山で産出する、「甘平清肺」の効用を持ち、「補益」の効能を もつ薬種が、本来の党参に代わって、党参と称されるようになったのだという。なお、⑳
66 前掲李時珍編、劉衡如、劉永山校注『本草綱目』草部第12卷、489頁。
67 蒋竹山『清代的人参帝国』、44頁。
68 前掲尚志鈞、尚元勝『本草経集注』、207頁。
69 黄宮綉編『本草求真』(中国中医出版社、1993年)2頁。