第三章 明治前半期における日本産人参の輸出と産業転換について
第二節 明治前期における日本産人参の輸出動向と産業化
二 人参製造会社による人参産業化の経営
前述したように、1872年における官営事業の払い下げを機に、民間では有力製造人また は人参製造会社が主導する、二つの流通システムが形成されていく。特に人参製造会社は、
明治政府の殖産興業政策とも呼応して、人参産業に対する支配力を次第に強めていった。
以下では島根県を例として、明治前期における人参製造会社のもとでの人参生産の状況を 考察してみよう。
島根県では人参事業の民間払い下げをうけ、1873(明治6)年にそれまで藩営であった 人参事業を、松本歓次郎ら10人に譲渡し、島根県第一人参製造会社が設立された60。前述 のように、旧幕藩時代には、松江藩の人参生産は「御手作畑」と「百姓畑」という二つの 方式に分かれていた。松本歓次郎は人参事業の払い下げを受けた時点で、すでに「百姓畑」
により、大量の人参を栽培していた。県庁は農商務省の指導策に従い、人参事業全体を松 本に委譲しようとしたが、その方針は他の「百姓畑」生産者による猛烈な反対を招いた。
交渉の結果、すでに栽培済みの「百姓畑」については、藩営事業を継承した人参製造会社 に、従来通り納付させることになった。しかしそれ以降の人参畑については、栽培農家が
59 前掲日本人参販売農業協同組合連合会『日本人参史』、106~114頁。
60 前掲堀江保蔵『我国近世の専売制度』、219頁。
- 124 - 自由に経営することが認められたのである61。
この処置は、一見すると個別農家と人参会社を同様に扱っているかのようである。しか し実際には、藩営人参事業の廃止に伴い、藩による栽培農家への人参種や資金の前貸もな くなり、小規模な栽培農家が生産規模を拡大するのは困難な状況であった。それに対し、
人参製造会社は政府から貸金を得て、その資金を利用して旧藩にかわって栽培農家に前貸 しを行い、収穫された人参を納付させるようになっていく。こうした状況下で、人参を栽 培する農家の数自体は増えていったが、同時に人参製造会社による栽培農家への支配力も 強まり、個別の栽培農家は、あたかも各製造会社の小作人のような地位に置かれることも 多くなっていく。
さらに各製造会社は、栽培農家による人参の収穫量を増加させるために、生産資金だけ ではなく、人参種子の貸付も行った。藩営の人参事業では、人参種子の販売は禁じられて おり、藩が認めた栽培者だけが、藩から一定量の種子を給付され、余った種子はすべて消 却するという厳しい管理が行われており、それによって人参の生産量も制限されていた62。 しかし人参製造会社のもとで、種子の販売が自由化されると、人参の栽培は急速に拡大し ていく。
人参製造会社による栽培農家への貸金を通じて、栽培農家の小作化もさらに進み、製造 会社による大規模な人参生産が発達していった。こうした人参生産の大規模化に伴い、各 県における人参栽培の総規模も拡大している。たとえば信州人参の生産地であった長野県 では、1873年の収穫量は1万6千斤に過ぎなかったが、1877年には約14万斤に達し63、4 年間で10倍近い成長を記録している。人参の収穫量の増加に伴い、その加工製品の生産額 も大幅に増大している。島根県の場合、1875年には「輸出製品九十二万斤九千七百斤余、
61 前掲堀江保蔵『我国近世の専売制度』、221頁。
62 前掲小村弌『出雲国朝鮮人参史の研究』、67頁。
63 前掲日本人参販売農業協同組合連合会(1968)編著、121頁。
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其価格十万千六百余円に達した」64という。このように明治前期には、全国各地の人参生産 は空前の活況を呈し、人参の収穫量とその加工製品の生産量は増加をつづけ、海外市場、
特に中国への輸出量も急増していったのである。
さらに人参製造会社は、人参の栽培や加工製造のみならず、人参の国内市場での販売と、
海外市場への輸出にも進出していった。人参製造会社による人参の販売・輸出は、既存の 薬種問屋による販売・輸出と競合しながら、しだいに規模を拡大していく。幕末の開港後 も、海外市場への人参輸出は、おおむね横浜もしくは大坂の中買商人を経て、各居留地の 外国外商に売り渡すという方式をとっていた。たとえば明治前期における信州人参の輸出 ルートについて、『日本人参史』では次のように述べる。
横浜向けの人参は(これは販売の大部分を占めていたが)、横浜の和薬・唐薬問屋の 長岡商店に集中された。即ち、毎年10月下旬から11月上旬にかけて季節的に同 店の手代がこの地区に買い込みにやってきて、栽培農家の各戸をまわり、5~6年 生の、水洗いして細根(ひげ根)を除いて日乾した粗製人参を貫当りいくらと値段つ けて買い集めた。これが当地区の一般的な販売方法であった。なお、細根(ひげ根) も薬用に供せられ、主として国内で発汗剤として上流階級の常備薬に供されたと 言われる65。
つまり信州人参は、「個別農家(栽培)」―「中買商人(薬種問屋)」―「外商(輸出港の 輸出商人)」というルートで、海外市場に供給されていたのである。前節で紹介した、栃木 県における人参販売の状況も参照してまとめれば、明治前期において個別栽培農家が収穫 した人参の販出ルートは、次の図3-2に示すように図式化することができる。
64 前掲堀江保蔵『我国近世の専売制度』、221頁。
65 前掲日本人参販売農業協同組合連合会(1968)編著、119頁。
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図3-2 地元製造人・薬種問屋による人参販出ルート
図3-2によれば、個別栽培農家が収穫した人参は、まず地元の製造人が買い集め、加工 して製品化した。その後、製造人は人参製品を都市や輸出港の薬種問屋に売り渡し、薬種 商組合はそれを販売網を通じて国内市場に供給し、あるいは外国商人を通じて、海外市場 に供給したのである。
このような人参製造人と薬種商組合が主導した流通体系に対して、人参製造会社は中買 商人を経由せずに、直接輸出港の外国商人と取引することによって、新たな販出ルートを 構築していった。その具体例として、島根県における事例を紹介してみよう。
松本歓次郎は島根県第一人参会社の頭取として、旧松江藩の人参事業を引き継いだ。彼 は「当時長崎居留の清商は大概下等の小商人で、ともに議するに足らない」とみなし、直 接に横浜、大坂に赴き、在日の中国商人と「旧時の如く人参等級価格を定め置き、之を年々 何掛といふ歩合で、取引する事を承認させ」るように交渉した66。この交渉は人参貿易にお ける特殊な取引方法とも関係している。前章で紹介したように、近世以来、長崎会所を通 じた人参輸出では、複雑な基準に基づいて人参の等級を分類し、精製するという慣行が行
66 前掲島根県内務部『島根県旧藩美蹟』、300頁。
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われていた。たとえば会津産の精製人参は、24種に細分され、旭記・宇記・宙記・天記と いって名称で販売されていた67。旧時の藩営事業においては、中国商人との交易に際しては、
もっぱら人参の等級に応じて価格を議定していたが、包装した人参を全品検査することは なかった。しかし、各地の人参事業が民間に払い下げられると、中国商人は民間会社が精 製した人参の品質をただちには信用せず、人参製品の大小や斤目の全品検査を行うように なった68。しかし、人参は一本ずつ精製のうえ包装されていたので、全品検査は極めて非効 率であり、製造会社にとっても経済的ではなかった。
松本は大坂の豪商五代友厚の協力も得て、中国商人との交渉を進め、その結果、人参製 造会社が「所謂商人方の手を離れて、清商と直取引する事」69が認められたのである。こう して人参製造会社は人参の栽培・製造にとどまらず、薬種問屋を介さずに、製品を外国商 人に供給することもできるようになった。こうして人参製造会社が人参の栽培・加工製造 から、国内流通も主導する、新たな流通体系が形成されていく。
また各生産地の人参会社は、海外市場の開拓にも尽力した。幕末以来の居留地貿易では,
外国商人が輸出を掌握しており、国内商人は対外貿易では不利な立場にあった。このため 大久保利通は、「海外直輸出ノ基ヲ開クノ儀」を提出し、「一二ノ商賈ヲ誘ヒ、相当ノ資本 ヲ付託シ、一鋪ヲ横浜ニ設ケ、専ラ海外各邦ノ商会ト通信シテ直ニ我物産ヲ販売スルヲ務 メシメ、他日商業ノ模様ニ由リテハ海外ニ分店ヲ設置セシメ、内外ト相応シテ以テ其ノ業 ヲ盛大ナラシメン」70ことを建議している。このような、外国商人を介さない海外市場との 直接貿易の奨励策に応じて、各人参製造会社も、海外市場を開拓し、海外市場における日 本産人参の直接販売を企図している。たとえば島根県第一人参製造会社は、1877年に南京・
九江・漢口・寧波などの、中国大陸における主要人参消費地の市場調査を実施し、その結
67 福田要「会津薬用人参に関する研究」(『会津短期大学学報』第6号、1957年)。
68 前掲島根県内務部『島根県旧藩美蹟』、339頁。
69 前掲島根県内務部『島根県旧藩美蹟』、300頁。
70 前掲大久保利通『大久保利通文書』第6巻、363~367頁。