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日本における人参生根の栽培の進展

ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 79-83)

第二章 19 世紀前半、日本産人参の生産拡大と対中輸出

第一節 日本における人参生根栽培の発展

二 日本における人参生根の栽培の進展

18世紀前半にいたり、幕府はようやく薬用人参の国産化に成功した。特に日光では、1729

(享保14)年に人参生根の栽培に成功したのち、栽培規模は急速に拡大していった。1763

(宝暦 13)年には、江戸神田屋で朝鮮種人参座を設けて、日光産人参を専売するほどであ

った37。その後も日本における人参栽培は着実に発展し、幕府による直営栽培地として、日 光のほかに、小石川御薬園、駒場御薬園など 8 箇所が設置された。さらに、幕府は各藩に 対しても人参栽培を積極的に推進し、これに応じて各地で人参生根の栽培が試行された。

北は東北の津軽藩、松前藩から南は九州の福岡藩、鹿児島藩に至る、ほぼ日本全土で人参 生根の栽培が試みられたが38、気候風土などの原因により、栽培に成功した地域は、日光地 域、松江藩、会津藩、信州地域などに限られていた。これらの地域は、その後日本人参の 主産地として成長していくことになる。

ここでは先行研究を参照して、これらの主産地における人参生産の進展を概観しておこ う。まず日光地域における人参生産については、熊田一により詳細な研究がなされている39。 日光における人参栽培は幕府の直営事業であるため、江戸吹上役所掛役と日光奉行の共同 監督下で行われた。人参栽培は幕府直営の「御用作」に限定され、無許可での栽培は禁じ られており、百姓の中から「御作人」が選定され栽培に当たったのである。さらに、栽培 人参の品質向上のために、1763年からは、公儀で人参生根を買い上げ、幕府直轄の製造所 で加工製造を行うという、「御製法」も制定された。この制度は1729年から1872(明治5)

年までの 140 年間にわたって行われた。その間、生産者による自由栽培(勝手作)が許さ れたのは計13年間のみであり、それ以外はもっぱら「御用作」によって人参が生産されて

37 前掲川島『朝鮮人参秘史』、94頁。

38 前掲今村鞆(『人参史』、第4冊、221頁。

39 前掲熊田一『野州一国御用作朝鮮種人参の歴史』。

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長期間にわたり「御用作」が行われたことにより、日光で生産された人参はおおむね高 い品質が維持されていた。このため、江戸に設置された人参座では、日光産人参が高く評 価され、それに応じて日光における人参栽培はさらに拡大し、生産量も増加していった。

たとえば、弘化2(1845)年には、日光における人参の栽培規模は、三年生人参が84,069 根、2年生人参が570,688根、1年生人参が1,029,516根であり、合計で1,651,686根に達 している41

江戸時代に日光に次いで人参栽培が発達したのが松江藩であり、雲州人参の産地として 著名であった。松江藩における人参生産については、小村弌による通史的研究があり42、ま た堀江保蔵も松江藩における人参専売制度について論じている43。このほか、明治後期に島 根県内務局が編纂した調査書にも、旧松江藩の人参栽培反数や製造高に関するデータが記 録されている44。これらの研究によれば、松江藩の栽培は1760(宝暦10)年に始まったも のの、成果が挙がり始めたのは1804(文化元)年以降である。栽培の発展に伴って、1816

(文化 13)年には、幕府から他藩に人参を販売することが許された。その販売利益は極め

て高かったため、人参栽培の規模はさらに拡大され、翌1817(文化14)年には、藩営人参 畑は180余畑から500畑までに急拡大したという45

松江藩における人参生根栽培は、日光における「御用作」体制に準じているが、日光に おける完全官営体制と異なるのは、藩営の「御手作畑」と百姓による「百姓畑」という二

40 前掲熊田一『野州一国御用作朝鮮種人参の歴史』、69~78頁。

41 前掲熊田一『野州一国御用作朝鮮種人参の歴史』、96頁。

42 前掲小村弌『出雲国朝鮮人参史の研究』。

43 堀江保蔵『我国近世の専売制度 』(日本経済史研究所研究叢書、1933年) 。

44 島根内務部『島根県旧藩美蹟』(島根県内務局、1912)。

45 前掲今村鞆『人参史』、第4冊、271頁。

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種類の人参畑があったことである。「御手作畑」とは、藩自ら御手人と称する耕作者を使役 して人参を栽培した畑を指す。一方、「百姓畑」とは、領内の農民に許可を与えて人参を栽 培させた畑を指している。ただし、「御手作畑」と「百姓畑」を問わず、藩から種子を下賜 され、収穫した人参は藩によって買い上げられ、精製された点では共通している。このよ うな藩営体制は1872年まで続けられたが、その後は民間に払い下げられた。

幕末開港後は、松江藩直営の「御手作畑」や許可栽培の「百姓畑」における栽培規模は、

いずれも大きく拡大している。栽培規模を見ると、1858(安政5)年から1864(元治元)

年までの6年間に、「御手作畑」は2,686畑46から5,271畑に増加し、増加率は96%に達す る。「百姓畑」は3,932 畑から5,070 までに増加し、29%以上の増加率を示している47。ま た、明治末期の調査書によれば、松江藩の人参生産額は、嘉永年間(1848~1854年)には、

おおむね7万斤から11万斤を推移していたが、その後は急速に拡大し、1864年には、年 間製造高は約25万斤に達したという48

さらに会津藩における人参生産については、福田要が人参生根の栽培の沿革、栽培方法、

加工製造、検査制度について包括的に検討している49。それによれば、会津藩では当初は栽 培や加工製造を自由に行わせていたが、1829(文政12)年からは自由栽培を禁止し、許可 制が採用され、その後は藩営事業として発展を遂げた。会津藩では人参役所と製法所を設 け、日光に倣って人参生産・加工を管理し、栽培人参の品質を維持するため、一人あたり

46 ここで栽培面積を示す単位の「畑」は、人参の作立の特別の単位であり、一区画の畑地を指 しており、必ずしも一定の面積を示すものではない。小村弌の研究によれば、「畑」一枚とは おおむね長4間3尺、幅2尺5寸をいう。

47 前掲島根内務部(1912)著書、付録1~3頁。

48 前掲今村鞆『人参史』、第6冊、589頁。原表には人参製造高の単位を貫で示すが、統一の ためにここで貫を斤に換算する(1貫=6.25斤)。

49 福田要「会津薬用人参に関する研究」(『会津短期大学学報』第6号、1957年)。

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の人参畑面積の上限は3畝と規定されていた50。しかし、会津地域における人参栽培は戊辰 戦争により荒廃に帰してしまい、そのため、会津藩における人参生根の栽培に関する史料 もほとんど失われてしまった。ただし1859~1860年の二年間については、会津藩における 人参生産高は、約18万斤であったと推定されている51

なお『日本人参史』では、上記の三地域における人参生産について、史料を網羅的に収 集して叙述するとともに、信州における人参生産についても包括的に検討している52。それ によれば、他地域とは異なり、信州における人参生産は、農民による自発的栽培から発達 した。すなわち1844(弘化元)年に、北佐久郡志賀村百姓の神津孝太郎が日光から密かに 人参の種 29 粒を持ち帰り、試作を行ったことが始まりだという。安政年間(1854~1860 年)には、人参の栽培・製造は北佐久郡志賀村を中心として、周辺地域にも普及していっ た。ただし、人参生根の栽培には多大な資金や時間を要するため、私人による栽培の大規 化には困難が伴い、それが軌道に乗ったのは明治以降のことであった。明治 10 年代には、

佐久地域における人参製品の年間生産額製品は7000~10000斤に達し、有力な換金作物と なった。その後も信州の人参事業は、鑑札制度のもとに製品の質が管理され、明治政府の 輸出振興策のもとで発展していった。

以上紹介したように、各地における人参生産は着実に発展し、日本では人参を自給でき るようになった。享保年間以降、朝鮮産人参が日本に輸出された記録は残されていないこ とから、日本での人参の輸入代替生産は成功したといえよう53。さらに人参栽培規模が拡大 するに伴い、会津産人参を始めとして、日本産人参は中国市場へ輸出されるようになる。

次節では19世紀前中期における日本産人参の対清輸出動向について検討することにしたい。

50 前掲川島祐次『朝鮮人参秘史』、107頁。

51 前掲日参連『日本人参史』、81頁。

52 大井隆男「明治初期にける長野県東信地帯の産業構造」(『信濃』第13巻第3号)

53 田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』(創文社、1981年)383頁。

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