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中国市場における各国産参類商品の競合

ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 170-177)

第四章 明治後半期日本における人参産業と中国市場

第三節 第Ⅱ期(1895~1904)における日本産人参の輸出拡大

二 中国市場における各国産参類商品の競合

第Ⅱ期に中国市場で流通した参類商品の総額に関する統計は残っていないが、各国産参 類商品の輸出量のデータは確認することができる。同時期には日本産人参の98.36%48、米

国産の99.11%49が直接中国へ輸出されていた。同時期における朝鮮産人参の対中輸出割合

に関する統計はないものの、1910年の統計によれば、海外に輸出された朝鮮産人参のうち、

93.68%が中国向けであった50。従って、第Ⅱ期にも朝鮮産人参の大部分は中国市場に輸出

されていたと考えられる。一方、中国産人参の大部分は牛庄港を経由して中国各地に流通 したので、ここでは牛庄港からの輸出量によって、中国産人参の国内市場における流通量 を推定することにしたい。

48 前掲今村鞆『人参史』、第6巻、592頁の1895・1896の中国(香港を含む)への輸出 平均数値である。

49 Government Printing Office, United States Congressional Serial Set 4329.1900.

Washington:Government Printing Office.

50 前掲神原周平『日本貿易精覧』、38頁。

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第Ⅱ期における中国市場への参類商品の輸出量については、今村鞆編『人参史』、及び『日 本貿易精覧』に体系的な統計が残されている。これらの統計により、中国産・北米産・朝 鮮産・日本産人参の輸出記録を整理し、それらの変動状況を図示したのが、図4-3である。

これによれば、第Ⅱ期を通じて日本産、中国産、朝鮮産の人参の輸出量は上昇傾向にあっ たが、北米産西洋参の輸出領は漸減していたことがわかる。

図4-3 1895~1904年中国市場における各参類商品の輸出量51

*重量単位は斤。北米産西洋参の1903年、朝鮮産人参の1904年の数値は不明。

まず日本産人参の輸出動向について検討しよう。この時期の日本産人参の輸出量は高い 水準を維持していたが、1895年、1898年、1902年、1904年には、それぞれ前年比8.14%、

3.44%、13.44%、13.60%の減少率を示している。

このうち1895年については、日本産人参の輸出量は299,636斤(前年比8.14%減)であ り、中国産人参は145,336斤(前年比約5%減)となる52。1896年以前の朝鮮産人参の輸

51 北米産、中国産、朝鮮産の数値は前掲『人参史』第6巻の577、583、605頁、日本産 人参の輸出量は前掲『日本貿易精覧』38頁の統計による。中国産人参については、牛庄 港経由の輸出量による。朝鮮産人参に輸出量は海上貿易による白参と紅参の総計である が、1902年・1903年の数値は紅参のみである。

52 前掲今村鞆『人参史』第6冊、583頁の中国産人参の関連数値を参照して換算した。

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出状況は不明である。一方、北米産西洋参は211,588斤(前年比19.88%の増)となってい る53。輸出量の変動については日・中両国のものが減少したのに対して、北米産西洋参が増 加したことが分かる。1895年は日清戦争の最中であり、戦争により日本産・中国産人参の 移出が減少し、その減少分を北米産西洋参の輸出増大が補ったわけである。

1898年の輸出量微減の原因は明らかでないが、1897年に日本は金本位制に移行後、金融の 逼迫により経済活動が沈滞し、1898年には景気指数が低下し、綿糸紡績業の輸出も減少し ており54、こうした短期的な経済混乱と関係しているのかもしれない。

1902年・1904年については、各国産の参類商品の輸出量が、ほぼ全面的に減少しており、

中国市場が全体的に不安定であったことを示している。その背景には中国東北部の情勢不 安定化があった可能性がある。1900年からロシアは北清鉄道保護の名目で東北地方に出兵 し、1902年には清朝とロシアが撤兵交渉を行ったが妥結しなかった。東北地方は中国にお ける人参主産地であり、東北地方の政治情勢の不安定化が人参の生産・貿易に影響したこ とも想定される。またこの年には西洋参の対中輸出量は微増したが、日本産・朝鮮産人参 の対中輸出量は減少している。さらに1904年1月には、日露戦争が勃発し、東北地方はそ の戦場となり、同地における人参生産も大きな影響を受けたのである。

図4-3に基づいて、第Ⅱ期における中国・日本・朝鮮産人参の中国市場への輸出量の総 計と、海外産参類商品の対中輸出量に占める割合を示したのが表4-4である。

53 前掲今村鞆『人参史』第6冊、577頁の西洋参関連数値を参照した。

54 長岡新吉「日清戦後の恐慌と綿糸紡績業(一) : 「産業資本確立期」にかんする一考察」(北 海道大学『経済学研究』第16巻第2号、1966年)

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表4-4 第Ⅱ期における日本産・中国産・朝鮮産の輸出量総計と割合

年間 総計(斤) 割合

1895(明治28)年 444,972 67.77%

1896(明治29)年 526,900 74.47%

1897(明治30)年 615,110 79.06%

1898(明治31)年 686,073 81.29%

1899(明治32)年 788,341 81.58%

1900(明治33)年 493,416 77.17%

1901(明治34)年 937,287 87.39%

1902(明治35)年 732,892 83.99%

1903(明治36)年 828,625 /

1904(明治37)年 537,301 81.79%

平均 659,092 79.39%

*1903年の西洋参の輸出量が不明であり、日・中・韓の人参輸出量の割合も算出できない

表4-4によれば、1895年には日・中・朝三国の人参輸出量の合計は44万斤以上にのぼ り、中国市場への人参輸出量総額の67.77%を占めていた。日・中・朝三国の人参輸出量の 割合は変動しながらも、全体的にみれば上昇傾向にあり、1901年には87.39%を占めるに いたった。1902年以降は、日露の対立によって東アジアの外交関係は不安定化し、1902~

1904年の人参貿易も、それを背景として下降傾向にあった。

これに対し、1902年には北米産西洋参の輸出量が微増している。アメリカの貿易報告に よれば、1902年には東北地方でコレラが大流行し55、これによって西洋参に対する需要が 増加したことが要因であるという56。こうした需要増にも関わらず、この年の西洋参の輸出

量は139,764斤であり、前年比3.4%の微増にとどまった。これは、19世紀を通じて、年間

数十万斤に及ぶ乱獲によって野生西洋参資源そのものが減少しており、輸出量を大幅に増

55 単麗「清代古典霍乱流行研究」(復旦大学博士論文、2011年)。

56 M.G.Kains, Ginseng: its cultivation, harvesting, marketing and market value,with a short account of its history and botany,NewYork,OrangeJudd Company. 1903. pp.102

~106.

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加させることが不可能であったことが原因であろう。1821~1855年における北米産西洋参 の年平均輸出量は37万斤以上であった57が、第Ⅱ期の年平均輸出量は16万斤弱にとどまっ ており、このためアメリカでは、1893年ごろから西洋参の栽培に着手し、1898年ごろから は栽培人参が対中輸出の主体となっていく58。人参の栽培周期や栽培技術を考慮すると、第

Ⅱ期はこうした栽培事業が開始されたばかりで、その栽培規模も限られており、このため 1902年のように人参需要が増大した際にも、十分な供給増加が困難だったと考えられる。

ついで、牛庄港における中国産人参の内地市場への出荷状況を検討しよう。図4-3に示 すように、牛庄港からの東北産人参の出荷は1895年から上昇し続けたが、1900年に急減 している。翌年輸出量は一時的に回復したが、1902年から再び下降に転じた。牛庄港から の人参出荷が急減した1900年には、日本産人参の輸出量は微増したが、北米産・朝鮮産参 類商品の輸出量も前年を下回っている。この参類貿易量の減少は、同年に勃発した北清事 変の影響であると考えられる。1900年に義和団による排外運動が勃発し、清朝政府も欧米 列国に宣戦したが、3カ月後には八カ国連合軍が北京を占領し、清朝は莫大な賠償金を課さ れることになった。

北清事変は華北地域で起こったため、上海や香港から輸入された日本産・北米産の参類 商品にはそれほど影響を与えなかった。しかし、牛庄などの北方の港から輸入されていた 中国産・朝鮮産の参類商品への影響は大きく、特にロシアが中国東北地方を占領したこと により、中国産人参の生産・輸出は大きな打撃を受けた。1900 年6月に、ロシアは義和団 の乱を機として東北地方に出兵し、10 月には全東北地方(黒龍江、吉林、遼寧三省)を占

57 Government Printing Office, Summary Statement of the Estimated Quantities and Valuation of the Princial of the Growth Produce and Manufacture of the United States. United States Congressional serial set. 850, Washington: Government Printing Office, 1821. pp.356~524.

58 前掲今村鞆『人参史』第4冊、443頁。

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領した59。東北地方は中国の伝統的な人参産地であり、特に清末の開拓によってウスリー川 東岸は新興の人参生根の栽培地となっていた。「璦琿条約」(1858年)及び「北京条約」(1860 年)の締結によって、清朝はウスリー川東岸(外満州)をロシアに割譲し、新たに開拓し た人参主産地を失うことになった60。ただしその後も、ウスリー川東岸には依然として中国 人が居住し、従来通りこの農業や商業に従事することが許されていた。

しかし1900年に黒竜江事件が発生し、中国人居留民5000人以上が虐殺され、1万人以 上が黒龍江西岸に避難し、この地に居住していた中国人は一掃されてしまった61。これによ り、この地域での人参生根栽培も深刻な打撃を受けたのである。翌1901年には、中国産人 参は45万斤以上もの膨大な輸出量を記録しているが、それは1900年以前の栽培拡大によ る収穫量増加が原因であり、その後は第Ⅲ期に至るまで、人参生産量は下降傾向を辿るこ とになった。

なお、朝鮮産人参については、陸上貿易による輸出量のデータはなく、図4-3には海上 貿易による輸出量だけを示しているため、比較的少額に止まっている。そのうち、白参の 輸出量の推移を整理したのが、表4-5である。

59 鮑里斯・羅曼諾夫著、陶文釗、李金秋、姚宝珠訳『俄国在満州(1892~1906)』(商務 印書館、1980年)209~235頁。

60 王鉄生『中国人参』(遼寧科学技術出版社、2001年)53頁。

61 薛銜天「海蘭泡惨案死難人数究竟有多少」(『歴史研究』、1981年第1期)。

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