第二章 19 世紀前半、日本産人参の生産拡大と対中輸出
第二節 日本産人参の対中輸出の幕開と中国市場の進出
三 アヘン戦争前後における中国人参市場の動向
五港開港以降、北米産西洋参の対中輸出は急増し、長期間にわたり中国市場における輸 入参類の首位を占めていた73。一方、日本産人参の輸出量は幕府の輸出制限を受けていたも のの、増加傾向にあった。日本産人参は北米産西洋参と同じく比較的安価な参類商品とし て競合関係にあり、両者の輸出動向は相互に密接に連関していた。このため本節では、中 国市場における日本産人参と北米産人参の輸出量の変動を検証し、両者の関係性に検討を 加えたい。
まず本節で分析の対象とする貿易統計について説明しておこう。清朝側の貿易統計には、
アヘン戦争前後の中国市場における北米産西洋参と日本産人参の輸入量に関する数値は残 されていない。ただし北米産・日本産人参の輸出先はほぼ中国に限られていたので、両国 に残る統計から中国市場への人参輸出量を把握することができる。このうち西洋参の対中 輸出量については、アメリカ合衆国の議会に提出された報告書に残された統計を利用する ことができる74。また、開港以前の日本産人参全体の輸出量は不明であるが、会津産人参の
73 アメリカ合衆国の議会報告書に残された統計数値によると、1821~1855年北米産西洋参の 平均の年間輸出量は31万弱であり、同時期の輸入参類の第1位である。
74 Government Printing Office, Summary Statement of the Estimated Quantities and Valuation of the Princial of the Growth Produce and Manufacture of the United States.
United States Congressional serial set. 850, Washington: Government Printing Office 1821. pp.356~524.
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対中輸出量については統計が残されている75。前述のように、会津産人参は当時中国に輸出 されていた日本産人参の大部分を占めていたので、ここでは会津産人参の輸出統計によっ て、日本産人参の対中輸出動向を検討することにしたい。
アヘン戦争前後の1830~1854(道光10~咸豊4)年における、北米産人参と会津産人参 の輸出動向を図示したのが、図2-3である。西洋参の輸出量は会津産人参の輸出量よりか なり大きいので、図2-3の縦軸における単位は左右で異なっている。左側の縦軸は西洋参 の輸出領を示し、100,000斤ごとに目盛りを切っている。一方、右側の縦軸は会津産人参の 輸出額を示し、2,000斤ごとも目盛りを切っている。
図2-3 1830~1854(道光10~咸豊4)年西洋参・会津産人参の貿易量変動
* 会津産人参の輸出量の近似曲線 北米産西洋参の貿易量の近似曲線
75 長崎歴史文化博物館所蔵の貿易記録による会津産人参の輸出量の集計である。(前掲小山幸 伸『幕末維新期長崎の市場構造』、132頁より転引。)
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図2-3からは、会津産人参の輸出量と西洋参の輸出量の間に、全体に反比例的な相関関 係があることが認められる。以下、1830~1854年を4期に分けて両者の動向を検討してみ よう。まず、1830(道光10)年から、ネーピア号事件が発生し、中国と欧米諸国の通商関 係が不安定化した1834(道光14)年までを第Ⅰ期とする。ついで、1834年から、第1次 アヘン戦争が勃発した1840(道光20)年までを第Ⅱ期とする。さらに1840年から、中国 国内で太平天国の乱の勃発の直前、1851(咸豊元)年までを第Ⅲ期とし、最後に、1851 年
から1854(咸豊4)年までを第Ⅳ期とする。
まず第Ⅰ期(1830~1834年)の4年間には、西洋参の年間貿易量は最大で49万斤を超 え、最低でも30 万斤弱であり、平均年間貿易量が38 万斤近くに達し、全体的に上昇傾向 にあった。一方で、会津産人参の輸出量も、変動しながらも全体としては上昇傾向にあっ た76。ただし、西洋参の貿易量が急増した1833(道光13)年には、会津産人参の輸出量が 急減し、前年比40.5%の減少を示していることは注目される。
続く第Ⅱ期(1835年~1840年)には、北米産西洋参の輸出は1836(道光16)年に約 42万斤という高い数値を示したのを除けば、低水準にとどまっている。第Ⅱ期における西 洋参の年間平均輸入量は約20万斤にとどまり、第Ⅰ段階の平均年間輸入量の38万斤弱の 半分近くに減少している。西洋参輸出の減少に対して、会津産人参の輸出は顕著な増加が 見られる。1834年には、西洋参の輸出量が前年の49万斤以上から16万斤まで激減したが、
その一方、会津産人参の輸出量は14,976斤までに増加し、前年比189%増に達している。
翌年には、西洋参の輸出量が30万斤以上に回復すると、会津産人参の輸出量は3,600斤に 減少し、前年比75.9%減となっている。その後は西洋参の輸出量は低水準が続く一方、会
76 1830 年の会津産人参の輸出量は当年秋期分しか残されておらず、年間総量は不明であり、
西洋参と比較することはできない。
- 91 - 津産人参の輸出量は増加を続けている。
この時期に西洋参の貿易量が急減した要因として、中英の貿易紛争の影響を挙げること ができる。1834年7月、ウィリアム・ジョン・ネーピア( W.J. Napier)がイギリスの初代 の中国貿易の首席監督官に任命されたが、これをきっかけとして両国の通商関係は不安定 化した。その原因は、ネーピアがマカオに到着した後、中国の慣例に反し入港許可を受け ずに広州に入り、さらに慣例に従って「公行」の商人77を介さず、両広総督盧坤に直接着任 を伝えたためである。彼の行動に対し、盧坤は貿易停止措置をとると警告したが、ネーピ アは武力を誇示してこれに対抗した78。事態の激化により、ネーピアは9月には広州を離れ てマカオへ退去したが、トラブルを解決するには至らなかった。この事件によって、盧坤 は9月2日に対英貿易を停止するに至る。同時にアメリカ商人も、広州東南部の黄埔港に おいて広東当局の監視下に置かれ、実質的に対米貿易も停止されることになった79。ネーピ アの退去後、貿易停止などの禁令は解かれたが、一連の事件は1834年の英米両国の対中貿 易に大きな打撃を与えた。結果として、西洋参の貿易量は前年49万斤以上から16万斤ほ どに急減し、前年比66.9%減となったのである。
1835(道光15)年には広州での対外貿易は一時的に回復したものの、翌年6月からアヘ
ン輸入問題をめぐる論争が激化し80、清朝と英・米両国との貿易関係は再び不安定化してい った。1938(道光18)年の年末に林則徐が欽差大臣に任命され、広州に赴任してアヘン禁 輸を断行した。こうした外交・通商関係の緊張に伴い、西洋参の輸出量も約6万斤まで急 減してしまった。そして1840年には、第1次アヘン戦争が勃発したため、同年の西洋参輸
77 ギルドを構成する中国の特許商人である。
78 鄭永福「律労卑来華与アヘン戦争」(『史学月刊』、1986年第5期)。
79 1834年9月23日「広州実録報」。頼徳烈著、陳鬱訳『早期中美関係史』(商務印書館、1963 年)105頁から転引。
80 呉本栄「厳禁鴉片的決策之争」(『安徽決策咨詢』、1999年第 11 期)。
- 92 - 出量は4万斤近くにまで減少したのである。
一方、日本産人参は、長崎会所を通じた輸出量が幕府により制限されたために、開港直 前における中国の輸入参類の総額に占める比率はごく低かった。諸藩の人参の中では、会 津産人参の輸出量が最大であったが、年間数万斤にとどまり、当時の中国における西洋参 の年間数十万斤規模の貿易量とは比較にならない。しかしながら、会津産人参の輸出は、
アヘン戦争前後の西洋参の対中輸出の増減と、反比例的な動向を示していることが注目さ れる。
当時の長崎からの人参輸出は、なお幕府の統制を受けており、毎年長崎会所と各藩との 交渉により出荷量が決定されていた。人参の輸出量は国内外の相場によって変動しており、
輸出価格が国内販売より低い時や、中国商人が高級人参のみを購入して、下級人参が売れな い時には、各藩は輸出向け人参の量を減らし、国内市場に回す量を増やして対応していた。
会津の場合、1829(文政12)年から、中国への輸出量の上限は年間1万斤と定められてい たが81。図2-3によれば、1834(天保5)年以前には会津産人参の輸出量が上限に達した 年度は見られない。しかし、ネーピア事件以降の1834~1840(天保5~11)年には、1835 年と1840年を除けば、会津産人参の輸出量は9955斤から 14,976斤という、極めて高い 水準に達している。ネーピア事件やアヘン戦争に伴う西洋参の輸入量減少により、中国市 場において人参供給が不足し価格が高騰したことにより、会津産人参の輸出量が増大した のだと考えられる。
さらに当時、洋参(北米産西洋参と日本産人参の総称)は、アヘンの中毒者が体内の「毒」
素を排出する薬効もあるとされていた。広州に欽差大臣として赴任した林則徐は、洋参を 使った「忌酸丸」と「補正丸」というアヘンの解毒薬を創製し、推奨したといわれる82。1830
81 前掲日参連『日本人参史』、71頁。
82 楊朋、占凱、李特、孫暁濤「「救迷良方」学術思想探析」(『陝西中医学院学報』 2014年
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年8月に清朝政府がアヘン使用の厳禁を命じると83。アヘン解毒用の洋参の需要も急騰し、
西洋参の市販価格は数倍に上昇した84。一方、同じ洋参に属する日本産人参(東洋参)は、
医学上の「道地」性が西洋参より低いとされていたため、西洋参が豊富に輸入されていた 時期には、競争力は相対的に低かった。しかし、アヘン戦争前後に西洋参の輸入が減少し、
さらにアヘン解毒用の洋参の需要が拡大したことにより、会津産人参の輸出量が急増した と考えられるのである。
ただしまだ第1次アヘン戦争の最中であった1841(道光21)年には、西洋参が1斤あた り0.75ドルという高単価で、58万斤以上もの輸出量を記録している85。1841年1月にイ ギリスは香港を占領し、5月には広州も占領した。それによって広州での対外貿易が復活し、
西洋参の供給不足が続いていた反動もあって、同年には西洋参の輸出量が急増したのであ る。これに対し、会津産人参は輸出先である上海周辺で戦争が続いていたため、1841年に は輸出が不可能になっていた。
第Ⅲ期(1841~1850)には中国と欧米各国の条約締約によって五港が開港されたことに より、西洋参の貿易環境も改善された。それに伴って、西洋参の輸出量も順調に推移し、
平均年間貿易量は36万斤以上にのぼり、比較的高い水準を維持している。これに対し、第
Ⅲ段階を通して会津産人参の輸出は低水準に止まっていた。前述のように、1840年以降は 会津産人参の品質は回復していたにもかかわらず、第Ⅲ期の輸出量が第Ⅱ段階よりかなり 減少しているのは、この時期における西洋参の輸出増加により、会津産人参は中国市場に
第4期)。
83 馬士編、区宗華訳『東印度公司対華貿易編年史』(中山大学出版社、1991 年)第 4・5 巻 240~241頁。
84 林則徐全集編纂委員会『林則徐全集』(海峡文芸出版社、2002年)第3册、39~43頁。
85 Government Printing Office, Summary Statement of the Estimated Quantities and Valuation of the Princial of the Growth Produce and Manufacture of the United States.p.389.