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明治前期の人参栽培の拡大と中期の生産混乱

ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 135-138)

第三章 明治前半期における日本産人参の輸出と産業転換について

第三節 明治中期における日本産人参の対清輸出

二 明治前期の人参栽培の拡大と中期の生産混乱

1880年から1886年に至るまで、日本産人参の輸出量は急減を続けていた。この時期の 人参輸出の急落は、明治前期の人参政策と密接に関連すると考えられる。具体的には、明

75 前掲神原周平『日本貿易精覧』、38頁。

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治前期に進められた人参生産の促進政策の外部ラグによって76、明治中期の人参産業に混乱 状態が生じたことが想定されるのである。

明治前期における日本産人参輸出の特徴として、高輸出量と低単価が同時に起きている ことが注目される。図3-4は明治前期と中期の人参の輸出量の変動を、図3-5は同時期 の人参の輸出単価の変動を示している。図3-4によれば、人参の輸出量は1879年にピー クになり、山型を示しているが、図3-5によれば、輸出単価は逆に谷型を示している。前 期初頭(1874年)の輸出単価は1.56円であったが、中期初年(1880年)には人参の単価 が0.32円に落ち、前期の1/3ほどになった。両図を対照すると、人参の輸出量は中期から 減少し始めたものの、その輸出単価は前期からすでに継続的に下がっていたことがわかる。

つまり、明治前期には人参の輸出量が急増する一方で、輸出の単価は急低下しているので ある。

図3-5 明治中期までの日本産人参輸出単価77

76 経済政策が発動され、実際に効力が発生するまでのラグを外部ラグ(Outside lag)と いうこと。(浅子和美・竹田陽介「財政金融政策とマクロ経済」『21世紀初頭の財政政策 のあり方に関する研究会報告書』財務総合政策研究所、2000年、177頁)

77 前掲神原周平『日本貿易精覧』、38頁。

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上述の現象と、明治前期の人参生産の進展には関連性があると考えられる。残念ながら、

明治期の全国の人参生産額の統計は残っていない。しかし、前期における各主産地での生 産量の変化から、人参総産額の増加の一斑を窺い知ることができる。たとえば、前節で紹 介したように、新興の人参生産地であった長野県では、1873年から1877年までの4年間 で人参の産出量は10倍近い成長を記録している。また福島においては、1873年の産出量 は4万5千斤であったが、1879年には21万斤に増えた。各地の産出量の急増に伴い、輸 出の供給も大量に増加したことはほぼ間違いなかろう。つまり、人参の輸出において競争 が過度に激化し、そのことが輸出単価の暴落を招いたと考えられるのである。

一般に、輸出量減少の原因としては、まず産地からの供給量減少が考えられるが、その 際には輸出単価の上昇を伴うことが普通である。だが、1879~1884年の間に、年間輸出量 は50万以上から19万ほどに急減したにも関わらず、同期間内の輸出単価はあまり上昇し ていない。輸出量の減少にも関わらず、単価の上昇は見られなかったということは、当該 期の輸出量減少は供給量の減少が原因ではない可能性が高い。

このことは次のことからも裏付けられる。明治前期の輸出単価の低下は、人参の栽培面 積の縮小を引き起こして然るべきであるが、その時期 (1870年代後半) はあたかも明治 政府による「民業振興」の産業政策の実行期であり78、「殖産興業」(1874年)・「直輸出」

(1875年)など産業や貿易策が相次いで施行され、多くの人参製造会社がそれら促進策のも

と相次いで設立された79。人参に関する会社の増加によって、日本における人参生産や輸出 の規模は拡大し続けた。このように、国内の産出量は継続的に増加しており、人参の栽培 周期を考えると、中期に供給が減少したとは考え難い。

だが、明治前期に人参製造会社が各地に設立されたのは、消費市場の動向よりも、産業

78 杉山伸也『日本経済史』(岩波書店、2012年)近世・現代巻、186~191頁。

79 日本人参販売農業協同組合連合会『日本人参史』、108頁。

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政策の影響によるところが大きかった。各人参製造会社は政策的奨励を受け、生産や輸出 などの過程を再編し、全体として日本国内の人参生産は拡大したが、それにより供給過剰 の問題も深刻になっていく。ひとたび供給過剰により輸出単価が暴落すると、新たに設立 された人参製造会社はそれに対応できず、その経営は大きく悪化していった。また、1881

(明治14)年から松方正義が大蔵卿に任命され、西南戦争戦費による不換貨幣の超過を解

消するため、デフレーション(1882~1885年)誘導の財政政策を行った。それにより、人 参業のみならず、輸出が全体的に沈滞し、産業界は全般的な不況期を迎えていた。輸出単 価が下落を続けたことに加え、産業促進策によって支給された人参の生産や輸出に対する 支援金も打ち切られたため、新興の人参製造会社の多くが倒産に追い込まれてしまった80

このように、明治前期からの人参輸出の急上昇は、人参栽培の拡大をもたらしたが、人 参の栽培には5年から8年に及ぶ期間が必要なため、短期間の内に産出量を調整すること はできなかった。そして、1870年代後半の産業政策の誘導効果による人参製造会社の無秩 序な増加は、人参の過剰供給を一層促進し、輸出需要を遥かに超過することになった。さ らに、明治中期には松方デフレーションの影響も受け、日本産人参の輸出産業は深刻な打 撃を受けることになった。要するに、明治中期における日本産人参の輸出沈滞の原因は、

明治前期の人参生産・貿易政策に潜在していたのである。

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