第四章 明治後半期日本における人参産業と中国市場
第四節 第Ⅲ期における日本産人参の輸出
一 第Ⅲ期における中国の参類市場
前述のように、第Ⅱ期には日本産人参の対中輸出の再拡大期であったが、中国産人参の生 産も成長しつつあった。さらに第Ⅲ期になると、日露戦争後、日本は中国東北地方や朝鮮 を勢力下に収め、それらを拠点として中国全域に経済的協力を拡大していった。また、同 年に日清両国は、「満州善後条約」(中国では「中日会議東三省事宜正約」と称する)を締 結し、中国がロシアから日本に譲渡された東北地方の利権を承認し、加えて日本に対して 東北での鉄道建設・守備権、沿線の鉱山の採掘・軍隊の常駐、営口・丹東及び奉天におけ る日本人居留地の設置などの権利を認めた65。ここに日本は中国市場における支配権を確実 なものとしたのである。このような状況下で、日本産人参の対中輸出動向はどのように推 移したのであろうか。
まず第Ⅲ期における参類商品の対中輸出動向を確認しておこう。第Ⅲ期における各国産 参類商品の輸出量を図示したのが、図4-5である。
図4-5の近似曲線によれば、①中国産・④朝鮮産人参の輸出量は下降傾向にあるが、② 日本産・③北米産人参は上昇傾向を示している。まず、1906(明治39)年に各国産参類の 輸出量が戦後の回復軌道に乗り、総じて前年よりも増加している。しかし、翌年には日露 の間で中国の東北地方、外モンゴル、朝鮮での利権の再分配・承認をめぐって第1次「日 露協約」が締結され、また日本が「間島」66地方の大韓帝国への併合を企て、東北アジア情 勢は緊張を深めていた。このような国際情勢も背景として、1907(明治40)年には各国産 参類の対中輸出量はいずれも減少している。
65 明治大学出版部 『国際法規提要』(明治大学出版部、1915年)471~478頁。
66 中・朝辺境の延吉、汪清、和龍、琿春という四つの県である。
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図4-5 第Ⅲ期における各参類の輸出量67
さらに、1908(明治41)年2月に日本の「第二辰丸」がマカオへの武器密輸の嫌疑で中 国の税関に拿捕されたが、日本はこれに対して武力で清政府を威嚇した。その結果、清国 側が日本側の圧力に屈するかたちで第二辰丸の釈放・損害賠償・謝罪など五ヵ条の要求を 受け入れることになった68。この事件を契機に、広東では日本の圧力外交と清朝の屈辱外交 に抗議するため、日貨排斥運動が発生し、香港・南洋各地にも波及して、日本の対中貿易 に多大な損失を与えた。この時期、香港を経由して中国南方に集散する日本産人参はほぼ 輸出量全体の4割を占めていたが、1908年には日本産人参の香港への輸出は確認できない69。 ところが、翌1909(明治42)年には日本産人参の輸出量は30万斤を超え、前年比118.98%
67 日本産人参の輸出量は前掲『日本貿易精覧』の38頁の統計データにより、中国産・北 米産・朝鮮産の人参輸出量は前掲今村『人参史』第6巻の583頁、577頁、605~608頁 の関連記録による。
68 菊池貴晴『中国民族運動の基本構造:対外ボイコットの研究』(大安、1966年)57~95 頁。
69 前掲中国第二歴史档案館『中国旧海関史料』第47冊のImport and Export Trade at the port of Cantonによる集計。
②
③
①
④
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の急増を記録している。これは前年の日貨排斥により滞留していた日本産人参が、香港に 再輸出されたためではないかと思われる。
ところが、1910(明治43)年には日本産人参の輸出は約30万斤から16万斤未満に落ち 込み、前年比48.28%の減少を記録している。同時期の日本における人参生根の産出額を確 認すると、1909~1911(明治42~44)年の3年間の産額はそれぞれ650,054、502,002、
644,402斤となっている70。比較すれば、1910年には何らかの要因で、前年から15万斤ほ
ど生産額が減少しており、対中輸出の減少もこれに連動した現象であったと考えられる。
そして1911年には、中国では10月に辛亥革命が勃発し清朝が滅亡するに至る。この年に は日本産人参の対中輸出量は増加したが、中国産・北米産参類商品の輸出量は減少した。
翌1912年に中華民国政府が成立すると、各国の参類商品の輸出量はいずれも増加している。
第Ⅲ期における参類商品の対中輸出の一つの特徴としては、①中国産・④朝鮮産人参の 輸出量が緩やかな下降傾向にあったことが挙げられる。前述のように、第Ⅱ期には中国東 北地方での人参栽培は中国東北部における人参生産は、日露戦争や黒竜江事件の影響で大 きな打撃をうけており、その影響は第Ⅲ期まで継続していたと思われる。第Ⅲ期にも東北 産人参の内地への輸出量は、各国産参類商品の首位にはあったが、輸出量は全体的に下降 傾向を辿っていたのである。
また朝鮮産人参の対中輸出も下降傾向にあったが、その要因について、『韓国人参史』で は以下の4点を指摘している。第一に、人参の病害の頻発がある。1899年の京仁鉄道の開 通に伴い人参需要が高まったため、朝鮮の人参農家は10年間の休耕期間を経ることなく植 付けを行った。その結果、各主産地において病害が蔓延することになった。第二に、在韓 日本人による参圃(人参栽培地)での盗掘、窃取である。第三に、韓国商人の没落に伴う 人参交易の衰退である。第四に、朝鮮の人参農家の激減である。これは1910年朝鮮総督府
70 北海道庁内務部『北海道ニ於ケル人参ニ関スル調査』(北海道内務部、1916年)116頁。
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専売局長による法令で、人参栽培が許可制となったためであった71。こうした諸要因が重な り、図4-5が示すように、朝鮮産人参の対中輸出量は、白参・紅参のいずれも下降傾向に あったのである。とくに朝鮮における人参生産に大きな被害を与えたのは病害の蔓延であ った。これに対し、朝鮮総督府は人参生根の栽培に関する病原や土壌の研究を行い、日本 人技師による人参栽培改良も進められたが、その効果が現れるにはなお一定の時間を要し た72。
最後に、第Ⅲ期における北米産西洋参の輸出は上昇傾向にあるが、その増加率は緩やか なものであった。アメリカにおける西洋参の栽培は1893年に開始されたが、その後10年 刊は殆ど病害を被ることもなく、順調に発展を続けていた。しかし、この時期に利益を求 めて過剰な作付けと収穫が行われたため、1900年ごろから病害が頻発するようになり、そ の栽培も大規模な被害を受けることになった。またマサチューセッツ・ニューヨーク・ミ ネソタなどの諸州では人参栽培が加熱して人参苗の値段が高騰したため、栽培者は投資に 見合う利益を得ることができなかった73。このようなリスク要因もあったため、第Ⅲ期にお ける北米産西洋参の輸出は比較的緩やかな増加に止まったと考えられる。