第三章 明治前半期における日本産人参の輸出と産業転換について
第一節 明治初頭日本における人参の輸出とその生産
三 明治初頭における人参輸出減少の要因
すでに論じたように、幕末から明治維新の直後まで、日本人参に対する海外需要は増大 し、国内の人参生産も拡大傾向にあり、輸出額も増加傾向にあったと考えられる。ところ
が1871~1873年にかけて、人参の輸出は急減する。戊辰戦争の影響で、会津地域における
人参栽培は大きな打撃を受けたが、他の主産地である松江や日光では、幕末以来の人参栽 培の拡大により、生産量は増加をつづけており、日本国内における人参の総生産量は、1871
~1873 年においても、それほど減少していなかったはずである。それでは、1871~1873 年における人参輸出の減少をもたらした主因は何だろうか。この問題を考察するためには、
日本国内の状況だけでなく、中国における日本産人参の輸入や日清貿易の動向を、より広 い観点から論じる必要がある。
当時の中国産人参の不足を補うため、市場で北米産西洋参と日本産人参は安価参類とし て大量に輸入されていた。表3-4では、1870~1874(同治9~13年)年の中国における 広州港による北米産西洋参の輸入量27を示している。
27 米国産西洋参の直接輸入量に、香港を経由した輸入量を加算(資料では香港経由の 輸入品は別枠として計上されている)。
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表3-5 1870~1874年北米産西洋参の輸入量28
年間 輸入量(斤)
1870(同治9)年 40,512
1871(同治10)年 48,593
1872(同治11)年 55,555
1873(同治12)年 61,566
1874(同治13)年 66,095
表3-4によれば、日本産人参の対中輸出量が急減した1871~1873年の前後に、北米産 西洋参の対中輸出量は、1870年の40,512斤から、1874年の66,095斤へと、0.5倍以上も 増加していることがわかる。日本産人参と北米産西洋参は、中国市場において、同じ低価 格帯の人参として競合していた。従って、この時期における日本産人参の対中輸出の減少 は、日本国内における人参生産量の減少ではなく、むしろ北米産西洋参の対中輸出が増加 し、日本産人参のシェアを奪ったことにあると考えられる。この時期に中国市場において、
北米産西洋参が日本産人参よりも優位に立った理由は何であろうか。その背景には、1871 年における「日清修好条規」の通商条約の締結があった。
「日清修好条規」の締結以前は、日本と清朝の間には正式な通商条約がなかったため、
両国間の貿易は、「無条約国」間の通商という形式を取り、日中両国の商人が、相手国にお いて行う交易は、欧米諸国との条約の規定を準用して管理されていた。在日清商の貿易活 動について、重藤威夫は、「附属唐人」のなかには、上海などから西洋人に伴われて渡来し た事実上の外国商館の使用人もおり、唐人屋敷内に居留する有力な清国商人の中には、高
28 中国第二歴史档案館『中国旧海関史料』(京華出版社、2001年)、第2~9冊のImport and Re-export Trade at the port of Canton.内容を参照。
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価な名目料を支払って、西洋人の附属唐人という名目で居留地に進出し、自由な外国貿易 に従事する者もいたと指摘している29。鎖国時代から長崎に来航した清国商人は、唐人屋敷 に居留して貿易を行なっていたが、開国後は無条約国の商人という立場になり、居留地で の貿易が禁じられてしまった。このため在日清商の一部は、欧米条約国の商人に雇用され て貿易に従事し、あるいは高価な名目料を払って欧米商人の使用人となり、居留地に進出 して貿易を行なっていたのである。
一方、開国の後、中国との貿易を試みた日本商人もいた。在日清商と同じように、「無条 約」国である中国との貿易は政府に禁じられていた。しかし、度重なる交渉の結果、1861(文 久元年)年、上海通商大臣の咨文により、日本商人は「西洋無約諸国之例」に倣って、上 海での貿易を許可されたのである30 。「西洋無約諸国之例」については、上海通商大臣の咨 文には、西洋の無条約諸国は、条約締結国の通商章程に従って貿易を行うことと明記され ている。かくして、日本商船は清朝において、実際に欧米諸国の通商条約に準拠して貿易 を行ったのである。
ここで問題となる人参の関税については、1858(咸豊 8)年の中英「通商章程・善後条 約」の税関税則に規定されていた。すなわち「上等人参は百斤あたり 8 両、下等人参は百 斤あたり6両が納税される」のである31。中英の通商条約の中の人参は西洋参を指すもので あるため、この関税率は、元来は英国やアメリカ商人を通じて輸入された西洋参を対象と するものであった。上海通商大臣の咨文により、日本産人参に対しても、同率の関税が適 用されることになったのである。
しかし、この関税率は 1871 年の「日清修好条規」によって変更されることになる。「日
29 重藤威夫「長崎居留地貿易時代の内地通商と居留地自治行政」(『経済と経営』第 44巻 第2号、1964年)
30 黄栄光「同治年間中日経貿交往清档」(『歴史档案』第2期、2008年)
31 王鉄崖『中外旧約章匯編』(三聯書店、1967年)第1冊331頁。
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清友好条規」によって、日本産の上等人参は千斤につき税 500 両、下等人参は千斤につき 税350両という、従量税を課されることになった32。この結果、日本産人参に対する関税率 は、北米産西洋参の 6 倍まで引きあげられたことになる。しかも、この時期に清朝に輸出 されていた日本産人参は、松江藩などで上質人参の生産増大が図られていたとはいえ、中 国市場では「道地」性の評価は北米産の西洋参の以下の順位である33。「日清修好条規」よ る大幅な関税率の引き上げにより、品質的にも競争力が不十分であった日本産人参の対中 輸出は大きな打撃を受け、北米産西洋参にシェアを奪われて、輸出量が急減することにな ったのである。