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財政の窮乏と改革 財政の窮乏と改革 財政の窮乏と改革 財政の窮乏と改革

ドキュメント内 『律令法』 (ページ 161-176)

第三章 第三章       財政の窮乏と改革 財政の窮乏と改革 財政の窮乏と改革 財政の窮乏と改革

1  五代藩主水野氏    

               

水野  忠任(和泉守)―忠鼎―忠光(和泉守)―忠邦(和泉守)

      宝暦十二年(1762)〜文化十四年(1817)

      四代  五十六年 

土井氏が古河へ転風になり幕府は上使として安部平吉、松平藤十郎を送り さらに日田代官楫斐十太夫を派遣して領内を巡視させた。宝暦十三年五鼎 月十五日、水野忠任が入部したが、その前の二月五日に浜崎で大火があり横 町の千吉の家が火元で百六十五件が焼失してしまった。

五月十五日には岡崎から家老の拝郷源左衛門、松本仲、水野伊左衛門、高宮伊左兵衛、水 野藤吉、郡奉行の剣持嘉兵衛、代官の小滝六郎が入城し、上使、日田代官立会いのうえに城 の引渡しを行った。また、同日、中町の高徳時に藩中の庄屋を呼び集め、日田代官ら今ま で唐津藩に属していた怡土郡の福井村、吉田村、鹿家村、松浦郡から渕上村、谷口村、関口 村、五反田村、南山村、宇木村の黒須田、栗木、合計壱万石が上知となった旨を達した。

これによって水野家の知行六万石となったわけである。同日にさらに安楽寺に庄屋を集め て水野藩郡奉行の剣持嘉兵衛から耕作に精を出すように達した上に、大庄屋の帯刀は禁止 した。又水野忠任の入部の際には満島で庄屋を引見し、この際も鳥目壱貫文宛組中より古 銭ばかりを集めて祝儀として差し出した。水野忠任は織部正とも称し、のちの和泉守と改 称した。

<水野氏と百姓一揆>

水野氏が入部するころになると幕府の財政および藩財政は極度に苦しくなってきた。特に 水野氏も出費が続いて経済が逼迫していた。そのために積極敵に財源の拡張に乗り出して 財源の立て直しを図った。このためには志摩守時代からの先例さえ無視して農民に大きな 負担を与えたので、農民たちの中から不満の声が漏れ始めた。水野氏の改革は地方奉行の小 川茂手木、代官の松野尾嘉藤治が中心となって行ったが、まず租税知を増加させるために竿 入れを行った。測量しなおすのである。大名の知行高と実際とは一致しないのが普通で、

唐津でも実際の検地高を草高と呼んでいるが、この草高の増加を図ったわけである。楮を強 制的に植えさせて専売品として藩が安く買い入れたりして経済統制も行っていた。それに 加えて、明和元年早害、明和三年洪水、明和四年蝗害、明和七年洪水と続いたため、幕府が 明和六年と七年に続けて農民の一揆を禁じたにもかかわらずついに明和八年(1771)に農民 一揆が起こった。

第三部  完成した武家社会

<虹ノ松原一揆>

    

 

明和八年に起こった虹ノ松原一揆の前年にはすでに一揆の組織はできており、七月十二 日の夜に各村村に檄が配られていた。それには、

    一、  永側のこと

      これは川べりの遊水地など生産量の低いところを指定して課税の対象としなかった。

水野氏はこれにも課税しようとした。

    二、  御蔵米桝のこと

現在使っている桝は京桝であるが各藩では納桝といって大きな枡を年貢の取り立てるとき に用いた。しかも雪降りといって水平にではなく山盛りにした。ここではその雪降りの廃 止を要請したのである。

    三、お指米おとりなされぬこと

  指米は米の質を検査するために穀取人が竹のそいだのを俵に差し込むのをいい、こ        れを水野の時代には俵に戻さず百姓がその分だけ余分に入れるべきだとした。このために

もし一俵でも規定の量に達していない場合はその不足分にその村の収めた俵数をかけた分 をとりたてられた。もし百俵納める村がその中の俵で不足分が一合あった場合は一石〜三 俵だけ余分に納めさせられた。(納桝は三十杯で三斗四升〜一俵であった。)

    四、御用捨お取上げのこと

御用捨というのは水洗、砂押など水害のために耕作できないところは課税されない    事 になっていたが、水野氏はこれを廃止し課税地とした。

    五、楮御買上げのこと

  紙の原料である楮を専売品として従来の自由な売買を禁止して藩は非常に安い値  段で 買い占めた。商人相場が七十二銭で五拾匁の時拾六匁で買い上げており三拾四匁も値段が 違った。

    六、諸運上のこと

  一種の事業税であるが、たとえば川魚の鮎や鯉を取るのにも運上をかけられ、山を持って いる村には竹木運上までが課せられた。

以上の六項目をかかげ

    其外何品に不寄、御先代御仕事之通り願立候間、当月廿日明六ッ時より虹ノ浜御料境  へ御出張可被成候、但村役人には堅く御沙汰御無用に候  以上

      七月十二日      人々御中

とあり、参加しないものには赤牛をかけるといった。(赤牛とは放火のこと)

ただ、和田組、唐津組、神田組、佐志組、には計画の漏れるのを恐れて二十日の夕方に連絡し た。幕府側はそれまで全然この計画を知らなかったわけである。七月十九日の正午頃名護 屋の城番足軽から昨日の夕方から今日の明け方までに烽火があがったと連絡があり、家老、

郡奉行、地方奉行、代官などが登場して対策を協議したが、なかなかまとまらなかった。とり あえず代官は村々の庄屋に対して松原まで行って百姓をつれて帰るように命じたので、庄 屋達は新堀から川船で渡ったがとうてい百姓に近づく事もできなかった。しかも一揆側の 統制がよく取れており結束も容易に崩れなかった。

幕領との境には幕領の庄屋が詰め所を使って警戒していたが、夜になると提燈を連らね気 勢をあげた。七月二十一日朝、穀取役人と庄屋が松原に来て説得にかかったが、一揆側は全

第三部  完成した武家社会

員幕僚に移動した。穀取役人十五人も幕僚に入って説得にかかったが、一揆側は誰一人とし て返事もしない。そのうち遅れた村の百姓たちも集まってきたのでますます気勢があがり、

その数は二万三千名を越えた。この数は郷村人口の三分の一以上にあたる。

  二十二日午後、郡奉行古子四郎右衛門、同剣持嘉兵衛は、代官、穀取、横目、大小庄屋を 引きつれて一揆側の要求の仲で許可する文を読み上げて早く村へ帰るように伝えた。しか し内容は第一項目の永川の事だけで、しかも三ヵ年だけは無税その後は高の五厘だけを納 めるというないようであり、その他の事はあとで達示をしようということであったので、一 揆側はただ無言の作戦で動けなかった。夜になって呼子、名護屋、浦島、新堀、水主町その 他の浦、島から漁民たちが集合して新しい要求をした。それは

    一、五歩一鮪網魚取立直段之事

    鮪がとれた場合その売上高の五分の一を藩に納める事になっており、これは土井氏の 時代から定められていた。これの廃止を要求した。

    二、諸浦鮪網二歩五厘之事

鮪網の魚を売るときに口銭として二歩五厘を納めなければならなかった。鮪網に    つい ては網運上銀六拾匁と五分一、さらにはこの二歩五厘と三重に取られていた。

    三、干鰯運上之事

干鰯は唐津藩では重要な商品の一つであるが、楮同様藩が強制的に安く買い上げ    てお り、領外に輸出するときは一石について銀三分の運上を課した。

    四、問屋之事

    とれた魚をすべて領内の問屋に売らせ自由販売を禁止したため、値段が安くて漁民は 苦しんだ。

    五、長崎梅野新左衛門二歩五厘懸り之事

    長崎の魚問屋梅野新左衛門の問屋口銭が二歩五厘で非常に高かったのでこれの廃止を 要求した。

漁民たちが参加したために総勢二万五千六百四十九人となり、ますます気勢があがった。

  一方城のほうではいつ一揆が乱入してくるかと武備を固め、家中の武士に対し号砲五発 を合図にまた足軽は三発を合図に大手口に勢ぞろいをするように達した。二十三日になっ て一揆のほうは意気盛んであり、それに日田代官所から兵の派遣のうわさが流れてきたの で、藩側も幕僚の庄屋を商人に立てて、大庄屋に解決をゆだねた。そこで幕僚の庄屋横田太 左衛門を証人として二十四日の午後一時、各村から代表者三名づつを出して、百姓の要求 はかならず唐津領の庄屋と幕僚の庄屋とが貫徹するのを条件に解散する。もし要求が入れ られない場合は庄屋を先頭に強訴するか、または庄屋の家を焼いたり、踏み潰したりしても 勝手次第という事で代表者も了解した。二十四日一時過ぎ二万五千あまりの群衆は動き出 しそれぞれの村に帰っていった。

  二十九日になって庄屋側から一揆側との折衝について説明して一揆側の要求についての 返答を求めた。これに対して藩側の回答は

一  永川については前に回答した通り 二  指米は俵毎にまた俵に戻す

三  家居根山の運上は免除する(山は無税地であったのに課税したのである) 四  楮は藩の買上げ値段を高くする。

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