第二章 第二章
第二章 甲州法度之次第 甲州法度之次第 甲州法度之次第 甲州法度之次第
1 甲州法度之次第とは
甲州法度之次第は、甲斐の国の武田信玄(制定当時は晴信と名乗っていたが、一般には 信玄の方が馴染み深いため、ここでは信玄で統一する)により制定された。江戸時代に信 玄家法と題して版行され世に知られる存在となった。他にも甲州法度や甲州式目、甲州新 式目、信玄法度などと呼ばれているが正確には甲州法度之次第である。この甲州法度之次 第には二六ヶ条本と五五ヶ条本がある。先の甲州新式目の「新」については、前者が後者 の原型であると考えられるため、前者に対する後者の呼び名がこのようになったと考えら れる。しかし、制定に関わったとされる家臣駒井高白斎の記した「高白斎記」の天文一六 年(一五四七)五月晦日の記事に、「甲州新法度之次第書納進上仕候」とある。二六ヶ条本
第二部 武家法への展開
は翌日天文一六年六月朔日の日付と晴信の花押が記されており、これが新法度であると考 えることができるため、先の新式目もこの新法度之次第と同じく、これより以前に発布さ れ基本法となっていた御成敗式目に対する呼び名であるとも考えられる。この二六ヶ条本 の日付から成立は天文一六年六月一日であることがわかる。一方の五五ヶ条本は大別する と二種類ある。一つは二六ヶ条に二九ヶ条を加えた後、追加の二ヶ条を加えて五七ヶ条と したもので、もう一方は二六ヶ条から一ヶ条を除き、三〇ヶ条と追加の二ヶ条を加えて五 七ヶ条としたものである。このどちらにも第五五条の次に「右五五箇條者、天文一六年丁 未六月定置之畢、追加二箇條者、天文廿三年甲寅五月定之」と記されている。そのため二 六ヶ条を定めた後徐々に項目が増やされ、追加二ヶ条が定められた天文二三年五月にこの ような完成形となったと考えられる。(表2)
また永禄元年(一五五八)四月に九九ヶ条の家法が信玄の弟武田信繁の手により制定さ れた。「甲陽軍鑑」には、「信玄公舎弟典厩子息へ異見九九ヶ条の事」と題され、信繁が子 の信豊に与えた教訓という形で収録されている。これは法というより倫理規定が主となる 家訓的色彩の強いものである。倫理、道徳、宗教を根底に、武道、兵法、礼儀作法につい てうたっている。本文中には孫子、論語、史記といった中国の古典が引用されているのに 特徴があり、それらが当時の教養として知っておくべき存在であったことがうかがえる。
先の五五ヶ条を上巻、この九九ヶ条は下巻とする呼び方もあるvii。
甲州法度之次第は隣国駿河の今川氏親の制定した今川仮名目録の影響を強く受け、これを 参考にして制定したものと考えられているviii。最初に制定された二六ヶ条のうち今川仮名 目録の影響を受けて定められた条文は半数近い一二ヶ条に及ぶ(表3)ことからそう判断 して間違いないであろう。
2 甲州法度之次第の内容
甲州法度之次第は大きく八つの内容に分類することができる。(表2)ここでは分類ごとに 特徴のある条文に他国の法とも合わせて触れ、信玄はどのような意図をもってそれぞれ定 めたのか考えてみたい。
<領主とその支配下にある武士、農民に関する行政面での規定>
中小領主である地頭と、その支配下にある郷村の武士、百姓に関する規定を行い公事沙 汰などの行政面について規定している。
第一条は地頭の恣意を抑制する条項で、領主である地頭の支配下にある者達の権益を保護 するための規定である。地頭の支配権にどの程度まで信玄が介入できるか明示している。
この条項を最初に持ってきたのは信玄によるの領国の直接支配について強調しようという 意図の表れであろう。第三条と第四条では他国への音信や縁組、所領や被官の契約を禁止 することで他国への内通を防止しようとしている。物資の移動は許されても人の移動は許 さなかったこのような項目は、戦国家法が排他的性格を持っていたことを意味するもので あろう。訴訟についての規定は第二条と第二四条にある。特に第二四条では審理中に暴力 沙汰を起こした場合、いかなる理由があろうとも敗訴となることを規定している。今川仮 名目録第四条では、同様のことが起こった場合でも道理をもちながら暴力沙汰により敗訴 となるのは不当であるとして、再び審理を行ったうえで判断を下すとしている。これは理 由の究明を秩序の安定よりも重視していることを示すものである。しかし信玄は秩序を重
第二部 武家法への展開
んじる姿勢を示すことで、厳しさを前面に押し出そうとしていたと考えられる。
<領民に対する納税、借金に関する規定>
年貢や夫役、棟別銭徴収といった税に関係するものや借金、隠田等、主に農民に対する 取り締まりについて規定し、納税義務の遂行についてうたっている。
第六条は年貢についての規定で、年貢の滞納は許さず、その場合には地頭に取り立てさせ るとしている。また家屋税として貨幣で徴収する棟別銭についての規定は第三二条から第 三五条までにあり、逃亡しても追ってまで徴収する、あるいは連帯責任制により同じ郷中 に支払わせるよう規定している。隠田についても忘れてはならない。第五七条には隠田が あった場合には何年経っていても調査により取り立てると規定している。このように年貢 の規定、棟別銭の規定、隠田の規定いずれも厳しいものであり、信玄の税収に対する厳格 な姿勢が見られる項目であると考えることができる。
<主従関係、雇用関係についての規定>
恩地に対する替地を望むことを禁止する規定や家臣が抱える被官、奴婢について等主に 主従関係や雇用関係について規定している。
まず、軍役に対する知行である恩地について第一〇条から一二条、第四三条の四条にわた り規定している。信玄からさずかった知行である恩地について替地を禁じた他、恩地に応 じた働きをせよ、といった土地を媒介とした主従関係について厳しくうたっている。第一 四条は被官についての規定で、信玄の承諾なく盟約を結ぶことを禁じた条項である。これ は徒党の禁止についてであり、当時は武士同士の私的結合が盛んであったことが分かる。
これを防ぐため信玄は家臣に忠誠を誓わせる起請文を提出させた。実際に信玄は子の武田 義信に謀反の疑いがかかった際、家臣達から信玄に対し逆心を抱かぬこと、家臣間で結党 せず、信玄に忠を尽くし奉公することを誓約させた起請文を提出させた。これは家臣たち が義信の謀反に加担しないよう、義信の妻の出身今川氏に寝返ることのないよう、また家 臣たちが連合して家中の混乱に乗じることのないよう配慮したものであろう。これら恩地 や徒党の禁止についての規定は、すでに触れた家中法制定における家臣団統制の意図と合 致する内容であるといえる。第一五条は譜代の被官逃亡後の帰属問題についての規定であ る。彼らは逃亡しても見つかればもとの主人に返されるとしている。被官や奴婢の問題は 他の戦国家法にも多く見られるし、後北条氏も国法により人返しについて規定している。
<刑事問題に関する規定>
喧嘩両成敗や子供の口論、殺人の刑罰について規定している。
第一七条に喧嘩両成敗について定められている。喧嘩の本人は是非を問わず両成敗、し かけられても堪忍したものは処罰されないが、共犯者は本人と同様に処罰するとしている。
この喧嘩両成敗は、今川仮名目録の第八条にも「喧嘩に及ぶ輩、理非を論ぜず、両方共に 死罪に行うべきなり」とあり、これを踏襲したものであると考えられる。この条項は家中 法のところでも述べたように、家中の争いを防ぎ勢力の維持を図るとともに、裁定者とな ることで自身の立場を強化することをねらったものであり、またこのような規定をできる だけの権力を持つまでに成長していたことの表れであろう。
<寄親・寄子に関する規定>
軍事組織、軍制の根幹となる寄親・寄子制を中心に、相続の問題と絡めて縦の関係の強 化を図ろうとしている。