第三章 第三章 織田信長の経済政策の考察 織田信長の経済政策の考察 織田信長の経済政策の考察 織田信長の経済政策の考察
1 豊臣秀吉への継受
信長が行ってきた経済政策は、既に第一章で述べた通りである。信長は、当時としては 革新的な改革を行ったのだが、周辺の諸大名の勢力や公家勢力の板挟みのため中世権力を 否定していたものの、それを破壊することはできなかったのである。信長にも成し得なか った中世権力の破壊を完成させたのは、信長の意志を引き継いだ豊臣秀吉であった。では、
信長にもできなかったことを秀吉ができたのは一体どのような理由からであったのか。秀 吉が完成させた関所の撤廃と楽市楽座令からその理由を考察してみたいと思う。
まず、関所の撤廃をみてみたいと思う。信長による関所の撤廃は、彼の分国においての みであり、京都の七口関といった関所は存続させたのである。京都の七口関は皇室領であ り、信長は皇室・公家に対して正規の権限はないため、政治的配慮から皇室領には手出し できなかったのである。ところが、秀吉は皇室領に対しても関所を撤廃するという行動を とった。天正一〇年(一五八二)六月に秀吉は山崎の合戦に勝利し、天下人としての道を 歩み出し、一〇月九日に関所の撤廃を行ったのである。これは、公家との関係があっても 京都への流通を円滑にしたいとの考えからだと思われる。信長が公家勢力へ介入すること による争いを嫌ったのに対し、天下人への道を歩み出していたとはいえ、この秀吉の行動 は信長よりも一歩踏み出したことだといえるだろう。
次に、楽市楽座令をみてみたい。信長が行った楽市楽座令は、城下町に商工業者を誘致 するために行ったもので、具体的には商工業者が自由に商売することができるように保護 するという内容であった。しかし、当時においての座の中心であった京都や奈良などの座 は安堵したため、中世権力の破壊はできなかった。信長が座を安堵した理由は、座の形態 と当時の勢力図が関係する。座は、将軍・公家・寺社などの領主権力を本所として独占権 を得ており、座を廃止するとなればこれらの勢力との間に衝突が起きたであろう。周囲の 勢力と公家勢力を敵に回すことは信長にとっても得策ではなく、無用の衝突は避けなけれ ばならないという考えからくるものであろう。そして、当時の勢力図から考えると、座を 廃止して物資を調達するために信長が自分の御用商人をつかったとすると、当然ながら信
第二部 武家法への展開
長と敵対する周囲の戦国大名が黙っているはずがなく、妨害工作を行ってくると考えられ る。このようなことから、信長は楽市楽座を徹底することができなかったのである。しか し、ここで注目しなければならないことがある。関所を撤廃しても座がなくならない限り、
流通の自由は確保されていないということである。たとえ関所が撤廃され、物資に関銭が 加算されなかったとしても、座が存在していれば、座から課税されてしまい物資の値があ がってしまうのである。だから、関所の撤廃と楽市楽座令は供に行わなければならなかっ たのである。秀吉が楽座令を出したのは、天正一三年(一五八五)九月のことであった。
信長が成し得なかった楽市楽座令を秀吉が完成させることができたのはどのような理由か らであったのか。秀吉が楽座令を出したこの時期には、秀吉は関白になっており、座の本 所である公家・寺社などにも命令をできたのである。支配圏は、関東と九州の島津氏を除 けば本州の中央部にまで及んでおり、毛利氏との関係も良好で瀬戸内海水運も確保されて いたのである。こういった状況下であれば、座を廃止して新しい流通組織の編成を行って も支障がなかったためであると思われる。では、秀吉が行った楽座令はどのような内容で あったのだろうか。この楽座令では、公家・武家・一般の商人であっても、他の商人から 役を取ることを禁止している。そのことがわかる資料として、天正一三年一〇月の秀吉事 記があげられる。この秀吉事記には、「公家・武家・地下商人に至るまで諸役をとどめ座を 破らる。これによって悦者多く、悲者少し、珍重平均の時、何れの年かこれに比せん」と ある。この楽座令により、流通の円滑と費用の軽減に大きな効果がみられた。しかし、座 という旧来の特権を手放すということは、既得権を犯されるのであり、当然なんとかして 役銭を取ろうとする人物が出てくるのである。公家の薄家などがそれにあげられる。こう いった事態に対して、秀吉は役銭を取る者がいたら、公家であっても捕らえよという命令 を下している。毛利家文書には、「諸国の牛に役銭を相懸け候て、薄と云ふ公家これを執る 由候、秀吉いささかも知らざる事の候、定めて謀判たるべく候、言語道断曲事に候」とあ ることからも、その徹底ぶりがうかがえる。つまり、商工業者に対する旧勢力による旧来 の支配を否定したのである。秀吉による楽座令は、商工業者を自由にしただけでなく、統 一権力として必要な商工業者を把握することもできたのである。そして、旧来の座とは異 なる同業組合としての座は残して、そこから秀吉は役銭を取っていたのである。千利休の 遺言状には、和泉の国の問や泉佐野の塩魚座からの収入が記されていることから、それを 知ることができる。
以上に述べてみたが、信長が成し得なかった経済政策をなぜ秀吉が完成できたかが理解 していただけたと思う。つまり、信長の時代に問題として残っていた公家勢力や周辺勢力 が、秀吉の時代になると解消されていったために経済政策を完成させることができたので ある。もし、信長がもっと早い時期に死んでしまい、秀吉に引き継がれていたとしたらも っと違う結果になっていたのかもしれないだろう。
2 信長と諸大名との比較とその先見性
信長が行ってきた経済政策は、徹底したものではなかったが、当時の時代背景を考慮す ると革新的なことであった。しかし、信長が行ったこの政策は他の戦国大名ではできない ことであったのだろうか。ここでは、中世権力に対する考え方が信長と諸戦国大名とでは どのように違っていたのかを考えていきたいと思う。
第二部 武家法への展開
戦国時代には、天皇を中心とする公家勢力,足利幕府,寺社勢力といったものが存在し ていた。当時の大名は、天下統一するためには上洛して天皇をおさえてしまわなければと 考えていた。そのために、上洛前から朝廷に金や銀などを献上して関係を親密にしようと したのである。この行動は信長にもみられるのだが、中世権力を否定していた信長がこう した献金を行ったのは一体なぜだろうか。その理由は、信長の父である信秀に由来するの である。信秀は、天文一一年(一五四二)に朝廷に献金を行っている。これにより、京都 に織田の名が知られるのである。こういった父の姿をみてきた信長は、朝廷の重要性を認 識していたのであろう。また、幕府への対応だが、足利義昭が将軍となれるよう尽力した 信長は、幕府を実質操っていたのではないだろうか。他の戦国大名が幕府からの大義名分 を得るために画策しなければならなかったということを考えると、信長が経済政策を行う ことのできる土台はできあがっていたのである。
しかし、最も注目すべきことは、信長の先見性である。信長は、中世権力を天下統一の 妨げになるものとして廃除すべきだと考えていたのに対して、他の戦国大名はその権力を そのままにして天下統一を目指したということが大きな違いである。経済政策においても、
目先の利益を求めなかった信長に対して、他の戦国大名は年貢を中心とした直接的な利益 を求めたのである。信長の行った楽市楽座も、当時の常識からすれば、領国内に他国の人 間を簡単に入れてしまうとは信長はうつけであるというようにしか写らなかったであろう。
しかし、信長は人が集まり、物資が安く大量に仕入れられることや他国の情報が集まり戦 いが有利になるといったことまで考えていたのである。こうした信長の先見性は、他にも いろいろとみられる。当時ではまだ普及していなかった鉄砲を重要視したことやフロイス らと接見してヨーロッパの政治経済,戦術に関心をもつなどからもみられるのである。い ずれにせよ、信長の中世権力に対する考え方や先見性により、楽市楽座令をはじめとした 経済政策が行われたといえるのである。
おわりに おわりに おわりに おわりに
私は、この論文を進めていく過程において、織田信長という人物が自分が考えていたも のと大きく異なることに気付かされた。これまで私は、信長は中世権力を否定し、革新的 な経済改革を完成させたと思っていた。しかし、信長も中世権力や他の戦国大名との関係 のため、ジレンマに悩まされていたのであった。そのため、いくつかの政策は不徹底とも いえる結果が残ったのである。しかし、信長の先見性や中世権力に対する考えがしっかり とあったからこそ秀吉に引き継がれていったといえるだろう。そういったことからみると、
信長という人物は偉大であったといえるだろう。信長という人物が存在しなければ秀吉や 家康における経済政策は、なかったものだとさえいえるだろう。
今回、この論文で再認識することができたことが多くあり、こういった郷土の大名のい る愛知という土地に住んでいる以上は、もっといろいろな観点から信長・秀吉・家康を調 べていきたいと感じたのである。
参考文献 参考文献 参考文献参考文献
『信長公記(上・下)』 一九九二年 中川太古 新人物往来者 『織田信長中世最後の覇者』 一九八七年 脇田修 中央公論社