第二章 第二章
第二章 諸戦国大名の財政収入 諸戦国大名の財政収入 諸戦国大名の財政収入 諸戦国大名の財政収入
1 武田氏における財政策
武田氏における財政収入は、大きく二つに分類することができる。一つは領国内におけ る税による収入である。その中でも御料所からの年貢,棟別銭,田地銭が武田氏にとって の最大の収入であったといえるだろう。これらの税収は一体どのようなものであったのか。
第二部 武家法への展開
御料所とは、直轄地(武田氏が領主として引き継いでいた地域)と敵対した領主を攻め 滅ぼして没収した領地などから成り、ここからの年貢が武田氏の直接的な収入の一つにな っていた。甲斐における御料所は、山梨郡の石森・窪八幡・上万力・大工村・和戸・萩原・
塩後,八代郡の高萩,巨摩郡の甘利上条・河原部などがあげられる。これらの御料所のあ った地域は、生産力,政治経済的にも重要な場所であった。また、御料所は年貢という財 政面においてのみではなく、城の近辺や交通の要所などにも設けられていたことから、戦 いにおいて兵糧を有利にするという軍事的な意味もあったと考えられる。
一方、棟別銭・田地銭は領国全体に賦課された臨時税である。棟別銭とは、家ごとに賦 課する税のことで本来は臨時税であったのだが、信玄の頃になると恒常的に徴収されてい たようである。「甲州法度之次第」の第三二条には、「棟別法度のこと、既に日記を以て、
その郷中へ相渡すの上は、あるいは逐電、あるいは死去たるといえども、その郷中におい て速やかに弁償いたすべし。そのため新屋は改めずなり」とあり、棟別帳(棟別銭徴収の 台帳)の作成や徴収に注意が払われていたことを知ることができる。信玄の頃に徴収され ていた棟別銭は一軒につき二〇〇文で、同時期の北条氏の五〇文と比べるとかなり大きな 税収であったのだろう。田地銭とは、田地役・田役ともいわれているが、当時の段銭のこ とであると思われる。この税は、田の面積に応じて賦課された臨時税だが、棟別銭と同様 に信玄の頃には恒常的な税となっていたのである。
また、臨時税には徳役銭,過料銭,妻帯役などがあり、これらの税は特定の者にだけ賦 課された。徳役銭とは裕福な者に課された税で、過料銭とは寺や禰宜,地下衆といった者 に課された税である。この二つの税は、財産を持つ者に対する臨時税である。妻帯役とは、
妻帯した僧侶に課す臨時税である。これらの臨時税は主に軍資金となったと考えられる。
もう一つの大きな収入源は金である。軍資金で武田氏といえば、最初に金をイメージす る人もいるだろう。確かに川中島の戦いや京都への上洛といった軍事行動を支えるために は、税収だけでは軍事費をまかなうことができなかったであろう。当時の金は、持ち運び が便利で信用におけるものであったので、軍備の増強や軍事的な恩賞に適していたのであ る。こういったことから、甲斐の金山を武田氏は直轄地として採掘し、軍備の拡張や軍事 行動をとったと考えられていた。しかし、武田氏が金を採掘する金山衆にあてた現存する 最古の文書には、
一、御分国諸商い一月に馬一疋の分、役等免許の事
一、本棟別壱間の分、御赦免の事
一、向後抱え来たり候田地、軍役衆の如く検使を停めらるべきの事 一、郷次の人足普請、禁ぜらるるの事
以上
この度深沢の城において、別して奉公候間、褒美を加えられるものなり、よって件 の如し
元亀二年辛未
二月十三日(竜朱印)山県三郎兵衛尉これをうけたまわる
田辺四郎左衛門尉 とある。この文書の内容は、武士以外の者に賦課される役の免除が記されており、金山衆 は武士であったとは考えにくいのである。もし、武田氏にとって金が最大の収入源であっ
第二部 武家法への展開
たのであれば、直轄地としたうえで武士に採掘させるのではないだろうか。こういったこ とから考えると、武田氏の財政収入で金だけを大きく評価するのは妥当ではなく、税収と 金の二つが合わさった結果、武田氏の財政は潤わされたのであろう。
2 上杉氏の財政策
上杉氏における財政収入で大きな役割を果たしていたのが、料所における課役である。
料所は、政治・経済・軍事上の重要地域や拠点で占められ、天文一九年(一五五〇)頃ま でに支配下にすることのできた料所の数は約三〇ヵ所であった。料所は、府内町,古志郡 の寺泊,出雲崎,荒川津,蒲原郡の蒲原津,刈羽郡の柏崎など越後の日本海沿岸の主要港 に多くみられる。特に謙信の頃に、戦いの費用を捻出するための絶好の財源確保の場とな ったのが府内町と柏崎町である。
府内町は、かつては国府の地で守護所がおかれ、謙信の城下町となり、北陸づたいに若 狭・越前から畿内に通じる都市であった。一方、柏崎町は、宿・問・伝馬と港などの機能 を備えた都市であった。戦いにあけくれる謙信は、これらの料所に容赦のない課役徴収を したために町が荒廃化していった。これは、謙信が家督を相続した天文一年(一五四八)
から永禄三年(一五六〇)までの一二年間に、上田の長尾政景や北条高広らの討伐,再三 にわたる川中島出陣,二度におよぶ上洛などのための費用を捻出するためで、府内町や柏 崎町の町人たちが逃散するほど荒廃化が進んでいた。また、永禄三年の三月には越中への 出陣があり、八月には北条氏討伐のための関東出陣をひかえていた。
このような状況下で、永禄三年の五月、府内町に町の復興・救済を目的とした長尾氏老 臣連署条目写一一ヵ条の課役免除令が発布された。この長尾氏老臣連署条目写一一ヵ条に は、
一条、府内にある寺社領の地子貢納の免除
二条、府内にある長尾氏家臣たちの所領の地子貢納の免除
三条、他国船だけでなく、役所関係の船にかけていた入港税を取ることの禁止 また、港での鉄取引にかけていた課税も免除
四条、清酒あるいは濁酒について、酒税徴収を免除 五条、麹の製造・販売に対してかけていた麹役徴収の免除
六条、吹雪などによる雪害を防ぐための垣根づくりなどに徴収されていた府内町住人 の夫役の免除
七条、他国から来る商人たちの荷駄の駄賃が高く商人が苦しんでいるため、馬方たち が直接商人たちから駄賃を取ることを禁止
八条、薬之座から座役徴収権をもっていた若林に納めてきた座役の納入の免除 九条、りうひん執(販売取引されている各種商品の売上に関して徴収されていた課 役)の免除
十条、府内町での茶取引に対する課税の免除
十一条、府内は今後長尾氏の料所にくみ入れ、守護上杉氏の代官である郡司の入部を 停止 とある。これは、一部の課役・夫役を除いて五年間、府内町人に課していた諸役・地子・
夫役・営業税・入港料などの免除により、町の復興を意図した法であった。
第二部 武家法への展開
では、なぜ上杉氏は町が荒廃するほどの課税をしなければならなかったのだろうか。お そらく、この課税は府内町に限ったことではなく、柏崎町を中心として他の都市でも行わ れていたであろう。これは、領国内の情勢や甲斐の武田氏との関係上、府内町や柏崎町と いった料所支配を強化し、財源確保を行って、周囲の勢力などと対抗しなければならなか ったためである。その結果、町が荒廃して復興政策を余儀なくされたのである。
3 北条氏の財政策
北条氏における財政収入は、家臣に対する出銭と庶民に対する段銭・懸銭・棟別銭が大 きなものであった。家臣に課税されているのは、主君に対する反対給付として負担したも のであった。では、家臣に課されていた出銭とはどういったものであったのだろうか。
出銭とは、城普請のための費用や信長への使者派遣の費用、上洛の費用といった臨時的 経費を知行貫高を基準として賦課された銭貨・黄金であった。「武州文書」の天正一六年(一 五八八)六月七日付の秩父孫二郎殿・同心衆中あての北条氏邦印判状によると、上に述べ た理由で出銭が賦課されていたことをみることができる。また、出銭とは知行貫高が少な いために出陣を赦免され、かわりに参陣衆の兵糧費用を割り当てたときのことも指してい る。「小曾戸文書」によると、天正一六年の西口参陣で小曾戸摂津守に割り当てられた兵糧 費用は三〇〇文であったとされる。小曾戸摂津守の知行貫高は二九貫七〇〇文であったの で、一〇貫文に対して一〇〇文の割合で課されていたと推測することができる。
一方、庶民に課されていた懸銭・段銭といったものはどういったものであったのか。懸 銭とは、畠に対して賦課されていた諸点役・諸公事といわれていた雑多な課役を整理し、
統一した税目といえる。この税率は、畠の貫高に対し六パーセントであったが、散田や川 成りなどの場合には、その額が三分の一に、守護不入の場合には三分の二あるいは二分の 一に減額されていたようである。次に、段銭とは田作りの役銭とみられ、田を賦課対象と している課役である。段銭は天文一九年(一五五〇)の懸銭創設以前から存在が確認でき るが、その後に本段銭といわれるものが設定されたと思われている。この本段銭の税率は 八パーセントで、天文二一年(一五五二)八月一〇日付の虎の印判状によると、相模と伊 豆で賦課されたとある。北条氏の本段銭は、懸銭とは異なり目銭が付加されており、この 目銭を給分として家臣に与えている場合があった。本段銭の他に目銭が付加されているの は、棟別銭と正木棟別銭(棟別銭の増額)である。このように、北条氏は庶民に対して税 制改革を行い、領国支配を強化していったのである。
4 毛利氏の財政策
毛利氏の収入は、公領年貢,段銭,恒常的な借米・借銭によるものであった。この収入 の中で注目すべきは借米・借銭である。借米・借銭は年貢や段銭を担保としており、その 年に収納される年貢,段銭によって返済されていた。では、なぜ毛利氏は財政の破綻をも たらす可能性をもつ借米・借銭を恒常的に行ったのであろうか。
それは、毛利氏と貸付側との関係にあった。貸付側が毛利氏に自分にとって有利な利益 を求めているのであるが、その利益は大きく三つに分類される。一つめは、武士的な性格 の強い高利貸しの場合、貸付によって所領の拡大を指向する傾向があり、担保とされた公 領をそのまま給地とすることで債務が解消されるというものである。二つめは、経済的利