第二章 第二章
第二章 後水尾帝即位 後水尾帝即位 後水尾帝即位 後水尾帝即位
1 後陽成帝譲位
慶長一四年(一六〇九)師走、後陽成天皇の譲位の意思が家康に伝えられた。一端は、
幕府も譲位を認めた。しかし、この譲位は思いがけない事件で中断されることとなる。
慶長一五年(一六一〇)閏二月一二日、家康の五女市姫が、たった四歳で急死したので ある。市姫は、家康が最も愛したといわれる側室お勝の方(お梶の方ともいう)が産んだ 娘である。家康は本来、子供に対して酷薄とも思えるほどの父親だったが、関ヶ原以降は 人が変わったかのように溺愛している。おそらく方便ではなく、本心からであろう。家康 は譲位の延期を申し出ている。
しかし将軍職を息子に譲り、隠居した形にある家康の娘が死んだからといって、天皇の 譲位を延期するいわれはない。延期の申し出は所司代を通じて行われるのだが、理由がこ れでは、さすがの名所司代板倉勝重も困惑したことだろう。
困惑どころではすまないのが、後陽成天皇である。この頃、天皇は病を患っていた。後 陽成天皇はもともと病気がちであったらしく、目まいがしたり、胸が苦しくなったり、も のを食べると吐いたり、胃の具合が悪かったり、下痢をしたり、誰もいない部屋にいると 急に神経が昂ってきたりしたという。
この時の病は天皇の持病であったとされる癰、つまり腫れ物だったらしい。この治療に は鍼灸が良いとされてきたが、古来天皇は玉体を傷つけることは許されぬという理由で、
鍼灸を据えることが出来なかった。どうしても治療しなければならない場合には、天皇の 位から退くしかなかった。この時代、腫れ物は、命を失うほどの病気であった。天皇が譲 位を考えた理由は時勢への不満からだけでなく、病のことにもあったと思う。
それが、家康の突然の申し出で白紙に戻った。それも子供の病死が原因でだ。『逆鱗あり
』とある公家が書いているが、当然であろう。
しかし天皇としては如何ともしがたい。譲位とそれに続く新帝の即位、譲位後に上皇が 住む仙洞御所の建設等については、幕府の援助なしにできることではない。
慶長一五年(一六一〇)三月、天皇は武家伝奏広橋兼勝と勧修寺光豊を勅使として駿府 に送った。しかし一ヵ月後、彼らが持ち帰った家康の返事は、天皇にとって思いもよらぬ ものであった。
『御譲位諸事、御構ひなく、是非当年成さるべきと思召さく候わば、その通りに申し付 くべく候』
つまり、「譲位等の諸事について幕府の手助けが必要でなく、是非今年中にやりたいとお 思いならば、その通りにおやりなさい」ということだ。いや、むしろ「やれるものならや ってみろ」といった方が正しいと言えよう。
さらに、御譲位をなさるなら先ずもって三宮政仁親王の元服の儀を行うべき、という意 見も述べられていた。三宮はまだ元服の式をすませていない。本来ならば、元服の次に即 位というのが通常である。天皇が元服と譲位を同時に行おうとしたのは、延喜の例、つま り醍醐天皇の即位に倣いたいと望んだからだ。⑵
醍醐天皇は、天皇親政の手本とされる『延喜の治』を行った天皇である。醍醐天皇は寛 平九年(八九七)、元服と同時に宇多天皇より帝位を譲られた。元服と譲位が同時だったわ
第三部 完成した武家社会
けだ。後陽成天皇が延喜の例に倣おうとしたことには、天皇の権威再興という本心があっ たものと思われる。
家康はそれを見抜いて、譲位の前に元服を、と言いだしたのだろう。家康の内意を知っ た関白近衛信尹は、まず親王元服を行おうとした。また、八条宮、所司代と相談の上、一 一月二二日、天皇に書状を奏請している。一種の諫言状であった。その内容は、せめて今 年中に三宮の元服を実現して戴きたい。さもないと禁裏と幕府の関係は悪化するに違いな い、というものであった。
この諫言状が献じられたのは一一月二二日付である。今年中といってもあと一月少々し かない。正に切羽つまった事態だったのである。
後陽成天皇の返事はこうであった。
『何事も悪しく候て苦しからず候』
なにもかも悪い、八方ふさがりだからどうなっても良い、答えたのである。
皇族・摂家衆も、これには色を失ったという。どうなっても良い、とはどういうことで あるか。天皇は明らかに破れかぶれになっている。そして、明らかに疲れていた。
結局、臣下らは、禁裏がどうなるか判らぬがお好きなようになされませ、と奏上した。
もし事破れたら、禁裏はなくなるかもしれぬ。それは全て天皇の御意向のためである。臣 下たちもそこまで決意したのだ。全ては天皇のお心のままに、と伝えたのである。
『只だ泣きに泣き候。何と成ともにて候』
これは、どうにでもせよ、ということである。後陽成天皇は、ついに折れた。結局家康の 要求を承諾したのである。投げやりな言葉とも思える⑶が、この言葉には天皇の強い無念 と絶望、そして怨念が込められている。こうして見るとやはり、後陽成天皇は不憫な天皇 である。
慶長一五年(一六一〇)年一二月二三日、三宮政仁親王の元服の儀は、無事とり行われ た。しかし、後陽成天皇は翌慶長一六年(一六一一)正月元日の四方拝・小朝拝にも、正 月節会にも姿を現さなかった。譲位の日時は三月二十七日と決まったが、二月二一日の立 太子の儀式は天皇の逆鱗が伝えられ、式途中で中止とされた。天皇は病んでいたとしか思 えない。それも身体ではなく、心をである。この欠席は、おそらく天皇の一種の『抵抗の 形』であろうが、はっきり言って、この『抵抗の形』は理不尽であり、これでは三宮が不 幸である。この点が後醍醐天皇との決定的な違いである。後陽成天皇には、後醍醐天皇が 鎌倉幕府を打倒したほどの強い活力というものが欠けていたことが、この態度でわかる。
慶長一六年(一六一一)三月二七日、後陽成天皇の譲位の儀は、大御所家康立ち会いの 上で、無事とり行われた。三宮政仁親王の受禅は、里内裏で行われた。
四月一二日、即位の儀がとり行われ、ここに後水尾天皇が誕生した。この時、天皇一六 歳、後陽成上皇四三歳であった。
2 僣上
徳川家康が、泰平の世をつくることを望んだ武将であるという話はよく聞かれる。家康 が武家の棟梁である征夷大将軍を望んだのも、徳川家による千年の平和を考えたためであ ろう。しかし、泰平を乱す者は武士だけとは限らない。徳川家による千年の平和を考えた 時、家康の思考が、孫娘(父は秀忠)和子を後水尾天皇の中宮にのぼらせようというとこ
第三部 完成した武家社会
ろに行き着いたことは、容易に首肯できよう。
徳川家の娘が皇后になり、その皇子が天皇になれば、家康は天皇の外祖父という地位に 立つこととなる。それが家康の願望であったのである。家康が、足利義満のように天皇の 地位まで望んだとは思えない。(義満は、上皇を狙ったのだが)しかし、どちらにせよ武士 の僣上ということには違いがない。
後水尾天皇が即位した慶長一六年(一六一一)では、和子はまだ五歳である。だが、政 略結婚に年齢は関係ない。政略結婚に必要なものは、男と女の形をした人形のみである。
人形に年齢が必要であろうか。
更には、慶長一八年(一六一三)六月一六日、朝廷にとって思いもよらぬ法律が制定さ れた。『公家衆法度』がそれである。内容は、第一条に公家が家々の学問に励むのを勤みと することを定め、第二条に法令に背く者は流罪となることを示し、第三条に禁裏での勤務 励行を、第四条、第五条はかぶき者的な行為の禁止を求めたものであった。
武家政治がいまだ嘗て禁裏に対して法令を発布した例は無い。幕府は本来政権の一部で ある兵馬の権のみを委任されたものであり、立法権は持たない筈であった。『貞永式目』に せよ『建武式目』にせよ、武家社会の中での規約であり、国家の法律ではない。国家の法 律は朝廷だけが作れるものであったからだ。武士が勝手に立法権を行使し、しかもその法 によって禁裏を規制しようとするなど、僣上至極の振る舞いなのだが、家康は敢えてそれ を行った。
しかし、家康はこの『公家衆法度』に抜け道を作っておいた。それは、五摂家並びに武 家伝奏より幕府に対して申し出があった場合に限り、幕府の沙汰として実施に及ぶという 点である。つまり五摂家と武家伝奏が幕府に申請しない場合には、この法は死法となるわ けだ。家康が法の発効の最終力を公家側に残したことは、世間を憚った証拠であろう。
この『公家衆法度』には、『勅許紫衣法度』というおまけが付いていた。紫衣とは鎌倉期 以降、天皇の手によって高位の僧侶に与えられた特別の袈裟のことを言い、これまで大徳 寺・妙心寺・知恩寺・知恩院など七つの寺院では、自由に住職を定め、天皇の勅許を請う て紫衣を着けることを許されて来た。それをこの法度は覆し、勅許の前に先ず幕府に申請 して許可を取ることを強制したのである。明らかに天皇の権限の制約であった。
この二つの規定が、朝廷に大きな衝撃を与えたのは言うまでもない。朝廷としては、絶 対に受け入れることができない法律であった。だが、無理を承知でこの二つの法を送りつ けて来た徳川家康を罰する法があるわけではない。兵馬の権を持たぬ朝廷に、そんな力が あるはずがなかった。しかも、兵馬の権を持っていたとしても、後醍醐天皇の場合を除い て、禁裏が幕府に合戦で勝った例は一度もないのである。
幕府に抗うとすれば、天皇は武力以外のもので戦うしかない。武力以外のもので幕府を 打ち負かし、禁裏に対して跪かせなければならなかったのである。
3 大坂の陣
大坂の陣は、史上余りにも有名な京都方広寺の鐘銘事件を端緒とする。
それにしても、この鐘銘事件ほど史上悪名高いものも珍しい。余りに無茶で強引で、正 にいいがかりとしか言いようがないものなのだ。
先ず、大仏殿のために新しく鋳造された梵鐘の銘に不穏当な部分があるから、予定され た堂供養と大仏の開眼供養を延期して、鐘銘及び棟札(大工頭中井正清の名がないと文句