第三章 第三章
第三章 和子入内 和子入内 和子入内 和子入内
1 禁中並公家諸法度
大坂の陣により、三〇年に及ぶ豊臣家の勢力は殲滅された。しかし、徳川家にとって、
豊臣家以上に手ごわく、厄介な相手がまだ残存していた。むろん朝廷のことである。
朝廷に対する政策としては、慶長一八年に『公家衆法度』が発布されていたが、この時 は天皇は含まれていない。今度は天皇まで規制しようというのが徳川家の考えである。
天皇は武力こそないが、精神的な意味で庶人の心の奥にまでしみ込んだある種の力があ る。それが、徳川家にとっては恐ろしい。そのため、何とか天皇を幕府の法の下に置かね ばならぬ。それが家康・秀忠の考えではなかったか。それが七月一七日の『禁中並公家諸 法度』となって現れることとなる。
しかし、この『禁中並公家諸法度』の出現まで、古来いかなる法も天皇を取り締まる条 文を含んでいたことはなかった。いわば天皇は法と同格であり、法の埒外にあった。法が 天皇を律することは、天皇が法の下位に立つことであり、そういう意味においては、この
『禁中並公家諸法度』は前古未曾有の法令であり、下剋上ここに極まれりという重大事件 であった。
第三部 完成した武家社会
この法度は一七条からなり、第一に天皇の任務を規制している。
『一、天子諸芸能之事、第一御学問也』
芸能とは現代の『芸能界』とか『芸能人』などに使われる意味ではなく、教養としての 智識の総体をさす言葉である。
それにしても文章の意図は明白であろう。天皇は現実の政治に顔を向けず、学問にだけ 関心を向けよと言っているのである。更に言えば、学問は中国唐代の帝王学である『群書 治要』且つ歌学と有識学であり、その前に、『経史すなわち政治学や史学を窮めずと言えど も』という部分に、幕府の意図が露骨に出ている。現実の政治は幕府がやるから、天皇は 大昔の帝王学や、和歌・有識学にでも目を向けていろ、と言っているのに等しい。
そして最後に、『相背くに於ては、流罪に為す』という幕府の手による罰則規定まで示さ れていた。朝廷にとっては正に茫然自失せざるを得ない驚くべき法度と言えよう。
2 家康の死
『禁中並公家諸法度』の発布によって、朝廷をがんじがらめに縛ることができた徳川家 には、更にもう一つの野心があった。先に書いた徳川秀忠の娘和子を後水尾天皇の中宮に のぼらせ、和子の産んだ皇子が立太子し、新しい天皇に即位し、新天皇の外祖父として名 実ともに禁裏の政治を掌握することであった。
和子入内については、慶長一九年(一六一四)、翌元和元年(一六一五)の大坂の陣で延 期になっていたが、豊臣家という憂いがなくなった今こそまさに、入内を進める時期であ った。
しかし、この時に和子入内についても、再び延期されることとなった。元和二年(一六 一六)四月一七日巳の刻(午前十時)、大御所徳川家康が死んだためである。享年七五歳。
一般には、家康はこの年の一月二一日、京から来た茶屋四郎次郎が、上方では鯛の天麩 羅を食するのが流行っていると言うのを聞いて、早速鯛を取り寄せて大量に食し、そこか ら腹痛に苦しみ死んだという有名な説が信じられている。しかし、その程度のことで三ヶ 月近く患った挙げ句死ぬものであろうか。実際は、消化器系の器官における癌だったので はないか。
とにかく家康の死は、朝廷と徳川幕府における関係、あるいは対立に変化をもたらすこ ととなる。家康の後継者徳川秀忠が、家康以上に朝廷に対して高圧的な人物であったから だ。更に言えば家康という重しがなくなったため、秀忠はより専制的な態度をとることが できると言えよう。
一般に秀忠の評価は、父家康に対して絶対服従の親孝行息子といったところである⑸。
しかし、秀忠がそんなやわな息子ではなく、したたかで、むしろ冷徹な政治家であったこ とは、これからの多くの事例が物語るところである。
その中でも、秀忠がその冷徹性を発揮したのが後水尾天皇と朝廷に対する政治工作であ った。
3 皇子誕生
和子入内に幕府が奔走していた元和四年(一六一八)、後水尾天皇に既に皇子が生まれて いたという事実を幕府は知った。
第三部 完成した武家社会
皇子の名は賀茂宮。母は公家四辻公遠の娘で、その姓をとって『およつ御寮人』と呼ば れていた。
しかし、賀茂宮についての詳細は何一つとして判っていない。幼くして亡くなったこと 以外は。(『資勝卿記』元和八年一〇月三日条)
朝廷は、この賀茂宮誕生のことについては隠し通そうとした。その理由は、この時期が 一番具合の悪い時期だったからだ。その時期は、おそらく元和四年(一六一八)六月下旬 から九月初旬であろう。
京都所司代板倉勝重が武家伝奏広橋兼勝を訪れたのが、この年の六月二十一日。勿論、
和子入内の相談のためだ。入内は明年ということで話はまとまった。
これに基づき、幕府は翌年入内を前提として、和子の入る女御御殿の建築を企画し、九 月には小堀遠州政一を造営奉行に任命している。
ところが『時慶卿記』という公家の日記によると、九月九日の条に、
『女御入内事、来年無之由風説』
が流れたと記されている。 おそらく、この六月二一日から九月九日の間に賀茂宮は生ま れたのであろう。そしてその事が幕府の知る事となったのである。
幕府、と言うより秀忠からすれば、これから娘を嫁がせようという矢先に、側室に子供 が生まれたのである。
秀忠以上に和子の母お江与の方が怒った。
お江与の方は、織田信長の妹お市の方と浅井長政の間に生まれた三女である。名門の誇 り高く、秀忠に一夫一妻制を強要した厳格な妻であった。
秀忠は慶長六年(一六〇一)一二月三日に、長丸という男子を別の女に産ませている。
当時お江与の方がこれまでに産んだ子は、いずれも女子であった。
このままではお江与の方の子ではなく、下賤の女の子供が将軍になる恐れがある(長丸 の母の名は伝わっていない。その女の身分が低かった証拠であろう)。翌慶長七年(一六〇 二)九月二五日、長丸は二歳で死んだ。死因は灸に当ったためとある。しかし、満一歳に もならぬ赤子に、誰が灸を据えるものだろうか。これは、おそらく秀忠の浮気に激怒した お江与の方が殺したのではないかと思われても、仕方がなかろう。
慶長一六年五月七日にも、秀忠は別の女に男子を産ませている。相手は、北条家の遺臣 神尾伊予栄加の娘お静の方である。産まれた男子の方は、幼名を幸松と名付けられた。
さすがに秀忠も、長丸の件で懲りていたためか、慎重にも幸松を自分の子と認めず、三 歳の時に、土井利勝、本多正信を使って、武田見性院の田安比丘尼屋敷に母子ともに預け た。
見性院は武田信玄の二女であり、武田家親族の穴山梅雪(信君)に嫁いだ女性である。
梅雪の母は、信玄の姉、つまりいとこ同士の結婚である。梅雪は武田家滅亡の寸前に、徳 川家に従い、本能寺の変で帰国途中、土民の一揆により横死。天正一五年(一五八七)に は、息子の勝千代にも先立たれ、見性院は仏門に入った。
果して幸松の件で、お江与の方から干渉が来た。勿論、お静母子を放逐せよということ である。だが、放逐すれば、母子が生きていないことは明白である。
この時、見性院はまず、この子は預かったのではなく、自分の息子として貰い受けたの であると言い、成人後は武田の姓を名乗らせ、自分の知行を譲り、自分の後生を弔っても
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らうつもりだと言い切った。さすがにお江与の方も、以後干渉をやめた。だが、見性院は 油断せず、家康が死ぬと、土井利勝、井上正就に相談をかけ、秀忠の内命を得て、旧武田 家家臣である信州高遠城城主保科正光にお静母子を預けさせた。このあたりは、さすがは 武田信玄の娘と思わせるところである。
幸松は正光の養子となり、寛永八年(一六三一)に正光が死ぬと、家督を継ぎ、高遠三 万石の藩主となり、後年、異母兄に当たる将軍家光を助け、幕閣を支えた名宰相保科正之 となったのである。
そんなお江与の方が、娘を嫁がせる相手の不品行を許すはずがなかった。ある意味で禁 裏の長い習慣のようなものであるのだが、お江与の方が知っているはずもない。
しかし、後水尾天皇からすれば、もともと気の進まぬ婚儀である。これで取り消しにな るなら、その方が余程有り難かったであろう。そして翌元和五年(一六一九)六月、およ つ御寮人が今度は女子を出産した。この皇女は梅宮と呼ばれ、後に文智女王と称されるこ ととなる。
このまま秀忠が黙っているはずはない。この年、関白二条昭実が中風で死ぬと、秀忠は 板倉勝重を使って禁裏に圧力をかけ、後任の関白として九条忠栄を就任させた。忠栄は慶 長一三年(一六〇八)から足掛け五年間関白の地位にあり、家康の言うがままに動いた幕 府にとって『都合の良い男』である。後水尾天皇が即位すると同時に、解任された人物で あった。事実上、幕府は勝手に関白を任免したのである。不敬という以外無い。
しかし、秀忠の方にも弱みがあった。怒りにまかせて禁裏に圧力をかけたものの、肝心 の和子入内の儀が成されることとは別問題である。
ここに一通の書状がある。藤堂藩の歴史を記した『宗国史』におさめられている後水尾 天皇の書簡だ。日付は元和五年九月五日。
『定めて我等行跡、秀忠公心に会い候わぬ故と推量申し候。左様に候えば、入内、遅 々の事、公家武家、共に以て面目然るべからず候条、我等に弟数多これある事に候え ば、何にても即位させられ、我等は落髪をもして、逼塞申し候えばあい済む事に候間 、必定入内当年中は延引せらるるにおいては、右の通りあい調い候様に、藤堂和泉守 肝煎り候わば、さても悦び浅かるべからず候なり』
これは一種の譲位宣言である。自分には弟が多いから、そのうちの誰かを即位させて、
自分は隠居しようというのだ。これが秀忠の最も恐れていた事態である。後水尾天皇に退 位されては、和子入内の儀は水の泡となる。なお、この書簡は、皇弟近衛信尋宛てにされ ているが、実は信尋から藤堂高虎に渡されることを期待して書かれたものである。高虎は この時期、幕府の命令により朝廷への周旋を勤めていた。
徳川秀忠が、平安朝以来禁裏では当然のことになっていた些細な出来事について咎め立 てしたことは、妻の言に乗ってやりすぎたと言わざるをえない。
その事に対して後水尾天皇に譲位を決意させ、肝心の和子入内が危うくなってしまった からである。
だが、今更引っ込みがつくわけがない。そのかわり秀忠は報復として、武家伝奏広橋兼 勝を通して、六人の公家衆を放埒のかどで処罰を下した。万里小路充房を丹波篠山へ、四 辻季継、藪嗣良を豊後へ流刑とし、中御門宣衡、堀河康胤、土御門久脩を禁中出仕停止と した。元和五年(一六一九)九月一八日のことである。