第三章 第三章 蝦夷共和国の施政 蝦夷共和国の施政 蝦夷共和国の施政 蝦夷共和国の施政
1 蝦夷共和国の施政
<蝦夷共和国の施政>
蝦夷地領有宣言及び総裁選挙が行われる以前の、箱館、箱館港、五稜郭の占領時点で、
以下の触書が出されている。
まず、町会所を通して市中には
徳川海陸ノモノ衆議ノ上、永井玄蕃(尚志)ハ当所奉行所ニ選候間、此段相手心得、
市中村々へ相触可申事
第四部 迷える近現代
辰十月 徳川海陸軍士
我等儀、兼テ歎願致置候儀有之、当湊へ罷越候処、当所詰役人不残引払、右ニ付市 中 同様致趣ニ付、為鎮撫上陸、決テ手アラノ儀無之候間、他所へ立退候モノモ安堵 ニ商売 可致事
十月二十五日 回天鑑船将 名主中
(「南部藩島忠之丞探索書」『復古記』) また、運上所詰の役人に対しては
当所詰役ノ多分ハ脱走致渡海遁レ候得共、尚市在ニ居候者モ有之、右ハ取調ノ上帰役 モ可申付候間、当人ハ勿論所々ノモノ共運上所へ可訴出候、尤、諸家兵隊ノ向ニテ潜 候モノハ篤ト穿鑿イタシ、是又早々可訴候、若隠居顕ニオイテハ厳重可申付候事 右ノ趣市中、村々へ不洩様早々可相聞触候 以上
辰十月二十七日 運上所
(同前)
元若年寄で外交交渉にも経験を有し、大政奉還の上奏文を書いた永井が箱館奉行に就任、
(総選挙後もそのまま留任)施政に当たることになった。彼は小林重吉宅に止宿していた という。(南部藩山本寛次郎「探索報告」『復古記』)さらに、一一月一日には旗艦開陽丸が 箱館港に入港、祝砲二一発を轟かせ、翌日から対外的な税関業務が再開された。
<蝦夷共和国の財政事情>
明治元年一一月に蝦夷地を平定した時点で、新政府軍の反撃を必死と判断していた。その 為、防御のため、五稜郭本陣の補強・各台場・陣屋などの整備、さらに燃料・食料・弾薬を備蓄 するため、外国から多くの資材を買い付けるなど、その費用などで極めて苦しい財政事情に 合った。大阪城の金蔵からの一八万両はこの一年程で底を尽きかけていた。また、開拓事 業にしても、その事業が軌道に乗るまでには、数年の歳月を必要としていた。実際の蝦夷共 和国は、わずか七ヶ月でつかの間の夢として消滅し、開拓事業の完成は、屯田兵や北海道開 拓使として受け継がれていくのだが。それゆえに、財源捻出のために、以下の施策が実行さ れた。
市中に対して、数度にわたる用金の申し付け
各神社に対して毎月祭礼を行わせ、売店・見世物などの出店を奨励して、その売上の一 割五分を税とした
公設のばくち場を開設して利潤を図るとともに、後家宿・居酒屋・屋台場などの女性か ら一人につき一ヶ月一両二朱の運上金の徴収
大森浜から木柵を建て、一本気に関門を設けて、箱館へ出入りする者からは一回二四文 旅人からは一人一六〇文の通行銭の徴収
新しい通貨(金・銀の比率を少なくした)の鋳造
これらの施策による厳しい取立ては、当初、蝦夷共和国に好意的であった市民感情を害 することになった。この市民の中から、箱館戦争後半、蝦夷共和国の敗色が色濃くなる中、
新政府軍に協力・内通して、砲台の破壊・軍艦への焼き討ちを行う者たちが現れてくること になる。
<蝦夷共和国の外交>
第四部 迷える近現代
蝦夷地上陸時、各国領事が在留する箱館を避けて、鷲ノ木に到着するとすぐに、箱館在 留の各国領事に隠密裏に声明書(一〇月二〇日付)を届けている。小芝長之助らによって 届けられた(荒井左馬介「蝦夷錦」)声明書はフランス語で書かれ「徳川脱藩家臣」(Les Kerais exiles de Toukugawa)と署名された声明文は、まず、自分達が蝦夷地に来た 目的を述べ、次に外国人居住地に兵士をみだりに入れないこと、外国人の蝦夷地旅行を認 めることなど外国人に対する配慮が表明され、さらに、局外中立の継続と交戦団体として 待遇されることが要望され(「イギリス外務省文書 日本通信 」)、対外戦略を重視した蝦 夷共和国の姿が如実に示されている。この声明書は、英語に翻訳されないままで、イギリ ス領事ユースデンから彼の状況報告書と共に、横浜のイギリス公使パークスの元に送られ た。一一月九日のイギリス公使ユースデン、フランス代弁領事デュースとの会談時には、
ユースデンから武器及び軍艦一切を新政府に渡さなければ蝦夷地開拓を許される見込みは 薄いと勧告されている。この勧告を受けて、両国公使を通して、新政府宛ての歎願書*E27 の取次ぎを依頼している。
また、箱館奉行杉浦兵庫頭の時、プロシアの商人R・ガルトネル(プロシア代弁領事C・
ガルトネルの兄)の働きかけでその端緒が開かれ、箱館府も大きな期待を寄せていた西洋 農法の導入について関心を示し、ガルトネフの働きかけもあって、七重薬園を中心に三〇
〇万坪の地を九九年間貸与える契約*E28(明治二年二月一九日締結)を結んでいる。榎本 等にとっては、蝦夷地の開拓が大きな目的であり、この契約は外国資本を使っての開拓の 試みの一つであったのかもしれない。
<蝦夷共和国の軍制>
総選挙の後、各隊の軍制*E29を、フランス式に統一再編している。これは、旧幕府海陸 軍が共和国の中核であったこととブリュネ大尉をはじめとしたフランス人一〇名が参加し ていたことによる。陸軍は四つの連隊(レジマン)に編成され、各隊は二つの大隊、その 大隊は複数の小隊で構成されるという体制に整備された。連隊には小隊長が置かれた。一 方の海軍は、回天が旗艦となり、蟠竜・千代田形・高尾の四軍艦体制に再編された。
また、万国法の戦時捕虜の処遇照らし*E30、政府軍が蝦夷地への上陸を開始した時、捕 虜を送り帰している。*E31
2 蝦夷共和国の将来への展望
先に挙げたように、館山脱走の際の『徳川家臣団大挙告文』、宮古湾から蝦夷地に向かう 際の『徳川脱藩海陸軍一同の建言』、蝦夷地上陸後に箱館府知事清水谷公考にあてた『嘆願 書』、蝦夷地制圧後に新政府にあてた『嘆願書』の四つの文書*E32 は、時代の流れの勢い のせいか、徐々に新政府に対しての姿勢が後退しているものの榎本を総裁とする蝦夷共和 国の基本姿勢、将来の展望を示すものである。第一の文書は、新政府を激しく弾劾・非難す るとともに蝦夷地への移住を一方的に告げるものである。第二の文書は徳川家臣のため蝦 夷地を徳川家の領地とし、開拓と北方警備にあたるならば日本国のためになるという意見 の申立である。第三の文書は第二の文書とほぼ同時期である。「蝦夷地ノ儀ハ、徳川家ヨリ 兼ネテ朝廷ヘ願出之趣モ有之候付、暫ク同家ヘ御預被下置度、自然御許容無之候、不得止官 軍ヘ抗敵可仕」という嘆願とも強訴とも採れるものである。第四の文書でも、姿勢の後退 はあるものの幕臣の生活のために蝦夷地の開拓と北方警備を目的としていた。新政府が蝦
第四部 迷える近現代
夷共和国を認めるまでは、新政府軍を上陸させずに水際で叩き、諸外国に「事実上の政権
」=(Government de facto)と認めさせる、少なくとも局外中立を認めさせることにあ った。実際この時までは、当時最新鋭の旗艦開陽丸も健在であり、海軍力では、新政府を上回 っていた。プロシア・アメリカ・ロシアの三国は榎本軍に好意的な立場で、中立であり、
新政府側の英・仏両国も明治元年一二月九日の英・仏両国箱館知事との会見*E33で、榎本 ら*E34の国際法の知識の前に「事実上の権力」=(Authorities de facto)*E35と呼ばざ る得なくなり、諸外国は、局外中立を約束していた。