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受け継がれたれ理想 受け継がれたれ理想 受け継がれたれ理想 受け継がれたれ理想

ドキュメント内 『律令法』 (ページ 195-200)

第六章 第六章       受け継がれたれ理想 受け継がれたれ理想 受け継がれたれ理想 受け継がれたれ理想 

1  戦後の始末

  蝦夷共和国閣僚のうち、中島、土方歳三は、箱館戦争中に戦死している。五月二一日、

総裁榎本武揚以下、副総裁松平太郎、陸軍奉行大鳥圭介、函館奉行永井尚志、海軍奉行荒 井郁之助、蟠龍艦艦長松岡盤吉の六名は、船で青森へ護送された。青森からは陸路を駕籠 で東京へ向かった。また、茂呂蘭(後に室蘭に改字)にいた開拓奉行沢太郎左衛門は、別 の船で海路、品川へ護送されている。護送された榎本らが東京に着いたのは、六月三〇日

。辰の口の牢獄に入ることになる。品川に着いた沢太郎左衛門も榎本らと一緒に、辰の口 の牢に入ることになる。一番牢には、荒井、松岡。二番牢には、松平。三番牢には、大鳥。

四番牢には、永井。五番牢に榎本、沢であった。この丸の内の辰の口にあった牢は、兵部省 糾問所付属の仮監獄であった。中外新聞(七月二六日付、二五号)には榎本ら七名が永禁 固との記事が掲載されているが、この時点では刑が確定していない。ただし、江戸期以来 の流れで榎本らのような軍事裁判の被疑者以外の一般囚人も、この辰の口牢に留置されて いた。また、箱館病院院長の高松凌雲は、徳島藩へのお預けになった。

  戦死者の慰霊祭は、箱館、福山、江差の三箇所において行われ、降伏人の使役、請負人 等の献金を始め、寺社並市在民の奉仕によって招魂場も設立された。ただし、これは新政 府軍戦死者のためのものであって、蝦夷共和国(旧幕軍)将兵の遺体は、みせしめのため に市中に捨て置かれた。柳川熊吉らが、衛生上の問題や、遺体を見るに忍びず近くの寺に 収容したが、新政府の禁令に背いたとして、糾問されている。

  処罰の方面は開拓史に入ってから共和国側についた諸役人については、常時の行動を制 限して、それぞれ謹慎または適宜処罰の上、新しく役目を與えることで行った。また町人 に対しては、例えば共和国の請負をしたものは、新政府の請負から免ずるといった制裁で あった。

  東京へ護送された幹部以外の一般の将兵(奉行や奉行並でも先の七名以外、会計奉行の 榎本対馬、川村禄四郎、松前奉行の人見勝太郎など)に対しては、明治三年三月二〇日附を 以って兵部省より静岡藩知事徳川家達に宛てて下のように達しが出ている。

    元徳川慶喜家來兼テ於箱館謹慎申付置候處今般被差免候條箱館出張所可請取候事   同様同文が伊達宗基にも通達されている。

2  蝦夷共和国首脳部のその後

  高松凌雲は箱館病院で敵味方の区別なく治療にあたっていたが、蝦夷共和国降伏後は徳 島藩にお預けとなり二年後の明治四年に許されて、上京して開業する。やがて、同志とはか

第四部  迷える近現代

り同愛社を設立。貧民救療事業に尽力して社会福祉事業の先鞭をつける。

  榎本以下辰の口の牢に入牢していた六人は明治五年正月六日に赦免される。兵部省糾問 所の白洲の申し渡しは以下の通りであった。

      榎本釜次郎     其方儀悔悟状罪付揚入付揚屋入被仰付置候処特命以親類御預被仰付候事

      糾問正  黒川通軌奉行       松平太郎       荒井郁之助       永井尚志       大鳥圭介       沢太郎左衛門

    其方儀悔悟状罪付揚屋入被仰付置候処特命以赦免被仰付候事            壬申正月六日

  松岡の名前が無いのは、明治四年に獄中で死亡したためである。榎本ら蝦夷共和国首脳 の釈放が実現したのは、黒田清隆の除名嘆願運動の成果と反対派の大村益次郎らが死亡し た為である。榎本以下六名は即日出牢している。箱館戦争以後の不平士族の叛乱は、規模 において箱館戦争よりも小規模であるが、萩の乱を始めとしてその首謀者が死罪になって いる。そのため、榎本らの刑が死罪でないのは密約が有った為であるとの説*E40もある。

  榎本武揚については、後ほど述べることにしてそれ以外の蝦夷共和国首脳部のその後を 述べることにする。榎本以外の五名は出牢の後、開拓使東京出張所に出頭を命ぜられ、十二 日付で「奉任御用掛」を申し付けられる。北海道の開拓に当たらせようと、榎本を含め計画 人材の中にその名前が挙げられている。

  しかし、永井尚志は、左院小議官となり、最後は元老院悟権大書記官となっている。ま た、沢太郎左衛門も開拓使ではなく、兵部省六等出仕に任命される。沢は、火薬製造の専門 家であったので、政府が輸入した火薬製造機械を操作するのに軍部が必要としたためであ る。後に、海軍兵学校教務副総理となる。

  荒井郁之助は開拓使五等出仕に任命され、四月一五日には東京に開拓使仮学校を開く。

初代日本中央気象台所長になり、標準時の制定をする。日本初の気象台の設置は箱館であ り、これは館山沖の脱走から蝦夷地上陸までの台風による艦隊の離散、艦隊旗艦開陽丸の 江差沖での座礁、宮古湾海戦の悪天候による艦隊離散といった反省からである。また、当初 は榎本武揚が日本中央気象台所長の予定であったが、政府内の仕事が忙しく荒井になった

。退任後は浦賀ドッグの設立に尽力している。

  松平太郎は開拓使五等出仕に任ぜられ、箱館付近の開拓事業を起こす。ケプロンの専門農 業開発の特殊工作を担当した。函館市長副官になるが、後に下野し、静岡に隠棲する。

  大鳥圭介は開拓使五等出仕に任ぜられたが、外国語に精通していたため、外債発行のため に欧米に出張。明治六年帰国後三角測量班に配属。後に工部省に入り、幌内炭鉱開発を成功 させる。後に、榎本武揚の北海道開拓事業に前後一〇年間協力する。学習院院長、特命全権 清国公使となる。

第四部  迷える近現代

  また、蝦夷共和国で会計奉行であった榎本対馬や、額兵隊の星恂太郎なども開拓使とし て、出仕している。戊辰戦争が起きた時、留学先より帰国し箱館戦争に参加し、英語翻訳方 であった林董三郎は後に外務大臣になり、林と同じく留学先より帰国し英語翻訳方であっ た山田六三郎は鹿児島県知事を経て、八幡製鉄所初代所長となる。また、開陽丸機関方下士 官であった上田寅吉は、横須賀造船所技師となる。工場長を勤めた後も、顧問役として造 船事業に係ることになる。開陽丸機関方の杉原文三は蒸気機関車の火夫になっている。

おわりに おわりに おわりに おわりに 

1  榎本武揚の評価

  すでに、明治期の経歴については既に触れているので、ここでは敢えて深く触れずにお く。榎本武揚をして、己の生涯を語らしめなかったものは、果たして何だったのであろう か。明治の政治家のほとんどが、その生涯を、親族、朋輩、配下、同郷の士の誰かの手に よって伝記化させている。こうした中にあって、武揚は頑ななまでに己の生涯を語らず、

また語らしめなかった。特に、序文でも触れた通り後半生は、その功績にくらべ、あまり にも語られていない。いや、後半生に限らず、長崎海軍伝習生までの青少年期さえもつま びらかではない。

  こうしたことから伺うに、ただ単に、幕臣から新政府高官、といういわゆる出世をおも んぱかって伝えなかったというだけでなく、むしろ、榎本武揚という一個人の性格による ところが大きい。当然、この己を語らなかったというのは、長くマイナスの作用をもたら したといえる。これは、福沢諭吉の『痩せ我慢の説』によるところが大きい。

  転向とは、権力によって強制されてその思想変えることであるから、その意味では、榎 本の、いや蝦夷共和国が蝦夷地の開拓と北辺の防備を目的としたものであるのならば、榎 本武揚は転向者ではない。そうである以上、今日においてこそ、榎本武揚はもっと評価さ れるべき、あるいは脚光を浴びて、再評価されることを望んでやまない次第である。

2  蝦夷共和国・箱館戦争の意義

  それは古い時代から、新しい時代への人材淘汰のための戦争だったのかもしれない。あ るいは、古い時代から新しい時代への通過儀礼なのかもしれない。榎本をはじめとした蝦 夷共和国首脳部に対しての明治新政府の処罰が、その後の不平士族の叛乱の首謀者に対し ての処罰と比べて軽すぎるのは、事前に密約ができており負けるための戦争だったとの説 まである。しかし、箱館戦争が、それまでの戊辰の役(北越・会津・東北戦争)、その後の 不平士族の叛乱と一線を画するとしたら、それは常に諸外国を意識した点であろう。蝦夷 共和国首脳部が留学経験などがあり外国通であったが、常に対外的戦略を考慮していたの は彼等の国際的見識のたかさ故だろうか。

  蝦夷共和国は、一つの分岐点だったといえる。内国植民地からの脱却、あるいは中央に 対しての地方ということで、戦後の一時期、北海道独立論が提唱され、また木村毅著『文 明開化』のなかで 共和国 が強調された。 蝦夷共和国 はアダムスの『日本史』をもと に敷えんされたものであるが、その意義は、維新動乱期におけるたてまえ、あるいは事実 というよりは、むしろ、太平洋戦争敗戦後の民主化過程のなかで意味をとらわれはじめた

、というべきであろう。

  しかし、今日においても北海道や沖縄は、内国植民地的なままなのではないだろうか。

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