第一章 第一章 後陽成天皇の時代 後陽成天皇の時代 後陽成天皇の時代 後陽成天皇の時代
1 関ヶ原までの騒乱
慶長三年(一五九八)八月一八日、太閤豊臣秀吉死去。
一三年に及ぶ豊臣秀吉の天下は、ここに潰えた。
新しい天下人を決める騒乱がこれから起ころうとしていることは、誰の目にも明らかで あった。
時の天皇は、後陽成天皇である。天皇は書物にいちいち、
『従神武天皇百余代之孫周仁(前名和仁も)』(神武天皇より百余代の末孫周仁)と署名す るような天皇である。古の朝廷儀式の復興、古代学問の研究、学問の興隆などにも熱心で あった。そこにこそ天皇の気持ちのありようが、如実に示されていると思う。
かつて後醍醐天皇は、鎌倉幕府に始まる武家政治の中で、短期的とはいえ、天皇親政の 政権樹立に成功した。中宮禧子の懐妊を理由に、安産の修法を行うと称して、実は幕府調 伏の祈祷が行われたという話は有名だが、その期間はなんと四年間にわたる。この話は、
後醍醐天皇の幕府打倒に対する執念の激しさ、異様さが一種鬼気をもって迫るものがあっ たことは示しているような気がしてならない。だが正にそこにこそ、天皇が鎌倉幕府を倒 すことができた理由があろう。後醍醐天皇に対する評価は、史家によってまちまちである が、異様なまでの活力の強さを否定する史家は一人もいない。
その活力の強さという点が、後陽成天皇には欠けていたようだ。このことについては、
第三部 完成した武家社会
後々触れることとなろう。
2 勅使
関ヶ原の合戦といえば、我々は慶長五年(一六〇〇)九月一五日の、あの美濃国関ヶ原 における東西両軍の激闘の場面を思い浮かべることが多い。
確かにそれは間違いではないのだが、通常言われている関ヶ原の合戦には、伏見城の戦 い、安濃津城の戦い、九州における黒田如水の戦いや、東北における直江兼続と最上義光 との戦いなども含まれ、それら個々の戦いの最大の戦いが、あの関ヶ原における激闘とい う理解の仕方もできそうである⑴。
それら個々の戦いの中で、天皇が介入してくるいわば異色の戦いがあった。田辺城の合 戦がそれである。
田辺城は丹後国に存在する所謂東軍側の小城である。この城も伏見城等と同様に、家康 の会津征伐の隙を狙った西軍の攻撃にあっていた。
問題は城よりも、この城を籠城する人物にあった。城の守将は細川幽斎であった。
幽斎は剃髪後の号で、正確には幽斎玄旨。世に在るころは細川藤孝と言った。天文三年
(一五三四)の生まれのため、この時六七歳となる。父は幕府奉公衆三淵晴員とされるが
、実は足利一二代将軍義晴の落胤ともいう。
幽斎は、六歳の時、将軍義晴の命により、名門細川元常の養子となった。父の晴員が和 泉守護細川元有の子で三淵家の養子に入ったことを考えると、藤孝は父の実家の養子とな ったわけである。
一三代将軍義輝が松永久秀に殺された後、その弟である奈良興福寺一乗院門跡覚慶を脱 出させ、甲賀まで逃げのびさせ、以後、義秋、次いで義昭と名を変えた覚慶を助けて、朝 倉、次いで織田信長を頼り、足利一五代将軍に仕立てることに成功したが、義昭の陰謀家 ぶりに愛想を尽かしたのか致仕し、信長に鞍替えした。信長が本能寺に死ぬと剃髪して、
息子の忠興に家督を譲り、自らは田辺城に移った。
忠興はこの時会津征伐軍に属し、大半の部下をつれて会津へ。幽斎は隠居の身ながらも 流石に歴戦の武将。石田三成の決起を知ると、僅か五〇〇の兵をもって田辺城に立て籠も った。攻めるは小野木公郷等の大軍一万五千である。
だが、後陽成天皇がこの事態を憂慮したのは『武人』細川幽斎とは関係がなかった。問 題は『歌人』細川幽斎にあった。幽斎は三条西実澄から、いわゆる『古今伝授』を受けた 歌人であった。
『古今伝授』は『古今集』の秘儀の伝授の意である。細川幽斎は、『古今伝授』を皇弟八 条宮智仁親王に伝授することになっていたらしい。それがこの合戦で無に帰そうとしたの である。
小野木公郷らの軍勢が田辺城を包囲したのが、七月二〇日。
七月二七日には、八条宮の使者が和睦を調停。大坂にも勅使を送り、五奉行前田玄以に
、田辺城の包囲を解き、幽斎を城から出すようにとの詔を下した。うわべでは朝廷尊崇の 厚さを装っていた豊臣家はやむなくこれを承知し、玄以の猶子前田茂勝を田辺に遣わして
、和議を申し込む。
しかし、幽斎が承知しなかったため、九月に入るとついに天皇は田辺に勅使を遣わし、
第三部 完成した武家社会
和睦を勧告するという正に前代未聞の出来事となった。
こうまでされては、幽斎も叶わない。正式の勅使相手に拒否しては、勅命に背くことと なる。幽斎は城を敵にではなく、前田茂勝に渡し、部下の将兵と共に茂勝の居城亀岡城に 入った。
この戦いの後、『古今伝授』の名は急激に高くなる。ただの『みやび』にすぎなかった『
歌』というものが、城兵五〇〇人の生命を救った。『歌』がそれほどの力を持っていた。こ れは武士にとっても庶民にとっても、価値観の転換を迫られる新しい認識であった。戦国 の世を生きた人々の常識を覆す事件であった。それほどこの田辺城開城事件は衝撃的であ り、異常な事件だったのである。
3 官女密通
関ヶ原合戦は、周知の通り東軍の勝利に終わり、天下は徳川家康によって平定されてゆ くこととなる。
そして、時は流れて慶長一四年(一六〇九)。
それはろくでもない事件であった。馬鹿馬鹿しいと言えば、実に馬鹿馬鹿しい事件なの だ。その事件は、後の世に『官女密通一件』と呼ばれた。
事件そのものは、先に書いた通り馬鹿馬鹿しい事件であった。御所に仕える何人かの官 女が、何人かの公家と密通していたことが露顕したというだけのことだ。だがその官女た ちが、後陽成天皇の寵愛を受けていたことと、その公家たちの素行、そして天皇の凄まじ いまでの怒りが何よりもこの事件を重大なものとした。
戦国時代は、『かぶき者』と呼ばれる奇妙な姿形や言動を好む人間を生み出した。だが慶 長期、つまり戦国終焉後の『かぶき者』は、戦国のそれとは似て非なる生き物であったと 言うべきであろう。
彼らは、えてして戦国の動乱、そしてその華やかさを知らない「遅れてきた者たち」で ある。その無念と憧れが、益々彼らを危険な行動に導いてゆく。それはもはや武士のみで なく、公家の世界にも蔓延していった傾向であった。
この一件にも、その『かぶき者』が関わっていた。中でも高名だった猪熊教利という若 い公家であった。在原業平にたとえられたほどの美男で、その姿は「うつし絵」(今日でい うブロマイド)にされ、髪形や帯の結び方まで『猪熊様』といわれ、都で流行したという から、その人気のほどが知れよう。
この手の男が好色であるのは、いつの時代も同じである。二年前の慶長一二年(一六〇 七)にも、禁裏に仕える女性と問題を起こし、勅勘をこうむって京都追放を命ぜられた経 験の持ち主であった。それがいつの間にか舞い戻って来て、新たな事件を起こしたのであ る。
ことの発端は、花山院忠長というやはり『かぶき者』の若公家が、天皇の寵愛深い広橋 大納言の娘新大佐という美貌のほまれ高い官女に懸想したことであった。新大佐の美貌の 虜となった忠長は、天皇に仕える女官たちの住居である奥への出入りを許されている牙医
(今日でいう歯科医)兼安備後にとりもちを頼んだ。兼安の妹讃岐(一八歳)が文を取り 次ぎ、忠長と新大佐は兼安の宿所で逢瀬を重ねるようになった。
この艶聞が、猪熊教利らの耳に入った。天下一の美男として、『かぶき者』公家衆の筆頭
第三部 完成した武家社会
として、このままでは猪熊の立場はない。そこで猪熊はとんでもない事を思いついた。新 大佐以外にも天皇の寵愛を受けた官女がいる。そこで、その女性たちを誘い出して、一夜 の歓を尽くそうとしたのである。不敬極まれりと言えるが、そこを敢えて行うところが『
かぶき者』の『かぶき者』たる所以であろう。
この誘惑に屈した官女たちは、猪熊の手引きで秘かに禁裏をぬけ出し、さまざまな場所 で密会を重ねた。現代でいうところの乱交パーティである。
公家側の中に飛鳥井雅賢という二六歳になる男がいた。飛鳥井家は代々蹴鞠の家として 続いていたが、この頃は賀茂の松下家の方が実力では上位に立ち、蹴鞠の許状などを発行 するようにもなっていた。雅賢は幕府に訴えて松下家の権利を奪いにかかり、慶長十三年
(一六〇八)七月の裁可により勝訴し、松下家の権利を全て奪った。
その松下家の娘が禁裏に出仕していて、この醜聞の情報を知ってしまったのである。こ うして事件は明るみに出た。
事を知った後陽成天皇は激怒した。歓修寺晴豊の幕府要人宛て書状には『御逆鱗』と記 されているほどだ。天皇は関係者全員を死罪にと主張した。しかしこの当時、検断権を持 っていたのは朝廷ではなく、徳川幕府である。京都所司代板倉勝重が、天皇の意向を受け て駿府の大御所家康のもとへ下ったのは七月一四日のことであった。
報告を聞いた家康は、勝重の三男重昌を京に派遣して真相を調査させる一方、勝重と審 議を重ねた。五人の官女と八人の公家、それに禁裏出入りの牙医(兼安備後)、しめて一四 名の死罪となると、当然公に出る。しかも事件が事件なだけに、公にするには薄みっとも ないのではないか。この頃、天皇の生母新上東門院からも、板倉勝重宛てに寛大な処置を 望む要望があった。おそらく同じ理由からであろう。
家康は八月四日に板倉重昌と大沢基宿を京に派遣し、『今度の女中の乱体、逆鱗尤もにて 候まま、如何様にも仰次第たるべし。去り乍ら、後難もなき様に、御糾明肝要』と述べさ せている。明らかに引き延ばし作戦であり、また家康が寛大な処置を望んでいることが見 受けられる。
九月一六日、猪熊教利が九州で捕らえられた。
同じ九月の二三日、板倉勝重は駿府から戻り、猪熊と兼安備後は斬首、他は罪一等を減 じて流罪にという家康の意向を伝えた。否、強制したというべきか。
後陽成天皇はこの処置に不満であったといわれる。しかし、禁裏に仕える者の大方が、
家康論に賛成であり(罰せられる公家は彼らの親戚・仲間であった)、母新上東門院まで家 康の意見をよしとしているため、全員死罪とは言いにくかったのであろう。罪はそれで確 定し、一件は落着した。
『徳川実記』によれば、確定した罪は、官女五人は伊豆の新島、後に御蔵島に流罪。猪 熊教利・兼安備後は死罪。大炊御門頼国・中御門(松木)宗信は硫黄島に遠流。花山院忠 長は松前へ遠流。飛鳥井雅賢は隠岐へ遠流。難波宗勝は伊豆に遠流。烏丸光広・徳大寺実 久はその罪軽しと見て恩免とある。
しかし、事件はこれで終わったわけではなかった。天皇は、あくまでもこの刑を軽いと 見て不満であった。しかも母や公家衆の大半が家康の意見に与したことも不快である。遂 には誰にも会おうとせず、孤独の殻に閉じこもってしまった。
天皇が譲位の意思を言いだしたのは、この年の暮のことである。