戦国大名は、軍を統率して勇猛果敢に戦う軍指揮官であると同時に、自国領土を統治する 政治家でなくてはならなかった。
軍事力を支える基盤は内政にあり、その充実と安定を推進することが、直接自国の版図拡 大につながってゆく。戦国という外だけではなく内にも敵が存在しえた弱肉強食の時代、
下剋上の時代に有力者として台頭するには、強力な軍勢を持つことも必要不可欠な条件で あったが、それよりもむしろ、大名の優れた領国経営能力こそが必要不可欠の条件だった のである。したがって、戦国大名たちは内政の充実と安定を図り、富国強兵策を推し進め ていった。その中で大名による領国の支配の論理、政策の基本方針とそれを支える支配理 念を成文化し、家臣、領民に示した。それが戦国家法や領国法、分国法と呼ばれるもので ある。これを示すことにより領国の法秩序を確立し、安定を目指したのである。
戦国大名による領国支配体制の形成は、それまで行われてきた荘園制支配とはその性格は 本質的に異なるものであった。荘園制の下では荘園領主間の争いや荘園領主側と地頭側と の争いは、朝廷または幕府という中央によって判定され、国衙や守護の権力がその決定を 強制する仕組みとなっていた。これは荘園領主権が自己完結的な公権力でなかったことを 意味する。一方で、荘園制における農民支配は、基本的には地頭の家父長的支配にゆだね られる傾向が強かった。このことは、荘園制権力が法的側面では民衆支配を極めて不十分 にしか行えていなかったことを意味する。このように荘園制は、中央権力に依存、一方で 慣習法的な先例を用いるにとどまったため、独自の法、法体系を作成、発展させることが なかった。
これに対して従来の荘園制支配、国人領主による支配を解体し、中央からは独立した勢力 として自らの権威を領国全体に浸透させようとした戦国大名の中には、領国支配体制確立
第二部 武家法への展開
の中で、独自の公権力であることの証明として法の制定、法体系の形成を目指す者があっ た。これらには明確な法典の制定に達したもの(表1)と、個別法規ながら「国法」とし て示されたものとに分けられる。法典の無い領国においても「国法」といわれるものは多 く存在するため、実際には同様の性格を持っていると考えられる。似たようなものに「家 訓」とよばれるものがある。これは家庭や家中に対する教訓のことで、その対象は家族や 家中に限られた訓戒であるが、これは法というよりも道徳の分野に属するものである。代 表的なものに「朝倉孝景条々」や「早雲寺殿二一ヶ条」iがある。
戦国大名の中でも法典を制定した者としなかった者があったが、それにはどのような事情 の違いがあったのだろうか。制定した者のうち、大内・今川・武田・六角氏は代々守護職 を保持してきた者である。また、伊達氏は国人出身だが「塵芥集」制定者の伊達稙宗が陸 奥国守護に補任されている。領国支配を目指す中で、公権としての性格を備えた守護職を 保持することは、守護大名や国人が戦国大名として中央に対して自立的な権力へ変化した 中において、公的支配者として法典制定に当たる場合に少なからず有利であったものと考 えられる。
一方では、相良氏や結城氏のようにその領国規模が一国に到達せず公権力を持たなかっ た小規模な大名でも法典を制定していることを注意しておかなくてはならない。このこと は、法典制定が公権力の存在を必要不可欠な条件としていなかったことを意味している。
しかし公権力を持たずとも、彼ら小規模大名も自らを頂点とする領国支配体制を形成しう る権力を持つ存在であったと考えられる。実際に注目すべきは、法典を制定した大名は規 模の大小こそあれ、家臣の謀反という点からみると謀反の成功例は、大内氏における陶晴 賢の例があるのみで、他の大名に滅ぼされることはあっても領国が家臣の手に渡ることは なかったことである。これは大名が自らを頂点とする支配体制を確立し、下剋上を許す余 地を残さないだけの勢力、権力を持ち合わせていたことに他ならないであろう。
それとは逆に毛利氏や後北条氏のような大規模に成長した大名が、なぜ法典を制定しなか ったのかという疑問もある。毛利氏について毛利元就が子隆元にあてた書状には、法典制 定への意欲が見えるものがあるが、周囲の動向がつかめず、軍事行動が続いているため制 定のための余裕を持ち得なかった。しかし、家臣との間に取り交わした起請文の内容には、
喧嘩の停止や軍事奉仕義務などの法に近い性格を持つものがあった。後北条氏は検地増分 の規定や逃亡農民の人返しの規定など統治に関する事項をそれぞれ国法として定めており、
法典の制定には至らずとも、個々の法の積み重ねによって支配体制を確立しようと意図し たものと考えられる。
このように、前代のあらゆる公権力を断ち切って、荘園制支配や国人領主支配を解体し 自己を最高とする大名の一元化支配体制を確立することが、戦国大名が戦国大名であるた めに最も必要なことであった。そして、戦国家法もこのような戦国大名による支配体制確 立の志向性のもとで制定されたと結論づけるべきであろう。
2 戦国家法の性格
<家中法と領国法>
戦国家法については、法の規制対象から(一)大名や家臣を規制対象とする「家」の支 配の法である「家中法」、(二)領国の被支配者を規制対象とする「領国」の支配の法であ
第二部 武家法への展開
る「領国法」とに分けられると考えられているii。
(1)家中法
下剋上の風潮の中で戦国大名の権力は、現実的には極めて弱い基盤の上にたつ不安定な 権力体であった。戦国の動乱の中を勝ち抜くことが絶対の目的であった戦国大名にとって 必要なことは、できうる限り多くの家臣を集め、これを自分の軍事組織として一元化し、
軍事力を拡大、組織化することであった。そのため旧来からの家臣である譜代と呼ばれた 家臣の他に、新たに多数の武士達との間に主従関係を結ばなくてはならなかったが、当然 この新しい主従関係は不安定である上に、仕える主に対する反逆行為は日常的なものであ ったため、当時の風潮はそれを非難の対象とはしなかった。このような状況の中で戦国大 名は自分への忠誠心を持つ家臣団を組織しなくてはならない課題を背負っていた。この課 題を解決するため、家臣を規制対象とする家の支配の法である家中法を制定した。この家 中法の出発点は、「家」を規範とする「置文」とされ、この置文とは譲状に含まれる規範部 分が法規範として分化したものであり、家長を中心として一族、家臣たちを構成員として
「家中」を成立させるものであるとしているiii。当時の武士達が最も重要視していたもの は自分の所属する集団に対する忠誠であった。大名はその集団に対する忠誠を超える自分 に対する忠誠を具体的なものとするためこのような法を制定したと考えることができる。
大名への忠誠を強制することを目的とするための家臣団統制の論理について勝俣鎮夫氏は 次のようにまとめているiv。
(一)戦国大名は、家臣団内部の諸々の私的集団を統制・解体・再編することを通して、自 分を頂点とする一体的家臣団を形成することを意図し、
(二)高度の政治的緊張状況の中で、大名の家というその家臣集団の存立を国家の維持と 不可分の関係にあると位置づけ、
(三)家臣の集団に対する伝統的帰属意識を利用し、家臣の集団に対する忠誠義務を国家 の忠誠義務に置換し、
(四)その国家への忠誠義務を媒介とすることにより大名への絶対的忠誠の形成、集権的 権力体制の確立を意図した
具体的には喧嘩における規定に現れている。大名にとって家中の争いが起こることは最 も警戒しなくてはならないことであった。今川仮名目録第八条や甲州法度之次第十七条に 見られる喧嘩両成敗のような規定は、大名がいかに家中の争いを恐れていたかを示すもの である。家臣達はもともと割拠性の強い在地の領主であり、その背後にはそれぞれの同族 や被官がいる。そのため争いが起こると、それは個人の争いにはならず、全体を巻き込ん だ大きな争いになり、その結果家中の分裂を引き起こし勢力の弱体化を招くことになる。
このような可能性は常にあったために大名は喧嘩を禁じ家臣による争いを抑えたのである。
そうすることにより大名は家臣同士の争いを未然に防ぎ、あるいは争いが起こった際にも それについて調停者もしくは裁定者の役割をすることによって、その立場を強化、確立し ようとしたものと考えられる。
(2)領国法
領国支配に関する国法についてはどうであろうか。家中法について触れた際、国家の保 持という目的が大きな影響を与える存在であることを述べた。ではこの国家とはどのよう