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紫衣事件     紫衣事件 紫衣事件 紫衣事件

ドキュメント内 『律令法』 (ページ 107-115)

第四章 第四章

第四章            紫衣事件     紫衣事件 紫衣事件 紫衣事件      

1  偃武の正体 

  『元和偃武』という言葉がある。 

  『偃』とは『伏す』の意をさし、つまり武器を伏す、武器を用いない平和の時代といっ たところか。 

  確かに、和子入内の元和六年(一六二〇)からしばらくの間は、表立った朝幕間の争い のない『偃武』の時代であったといえよう。しかし、既に見た通り、元和年間(一六一五

〜一六二〇)における朝廷と徳川幕府における関係は決して平和といえるものではなく、

実に多くの危機と緊張をはらんだものであった。それ故に、この言葉は『太平記』と同様 に、むしろ反語としてとった方が良いとも言えよう。 

  かなり後の時代となるが、その傍証と言えなくもない書状が残されている。京にいた細 川三斎(忠興。前出の幽斎の子)が、息子の忠利に書き送ったものだ。(『細川家史料』寛 永六年一二月二七日付書状) 

『又隠し題には、御局衆の腹に、宮様達いか程にも出来申し候を、押し殺し、又は流し申 し候事、ことの外酷く御無念に思し召さるゝ由に候。幾人出来申し候とも、武家(秀忠)

の御孫より外は、御位に付け申されまじきに、余りにあらけなき儀と深く思し召さるゝ由 に候』 

  この書状は、秀忠の命令を受けた所司代が、和子以外の官女に生まれた皇子を殺し、堕 胎させたりしたという事件の指摘である。また、殺され、流された皇子は決して一人や二 人でないことを物語っている気がしてならない⑹。 

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  元和九年(一六二三)六月、将軍徳川秀忠は息子家光とともに入洛し(家光の到着は七 月)、七月二七日、禁中において将軍宣下の陣儀が行われ、その後、伏見城へ三条西実条、

正親町季俊らが勅使として向かい、大広間で将軍宣下伝達の式が行われた。これで源氏の 長者、征夷大将軍は家光に譲られたが、秀忠は父家康に倣い自らを大御所と称し、江戸城 西丸で一切の政治をとりしきった。 

  翌々月の閏八月一一日、秀忠は禁裏御領として、新たに一万石を寄進した。これは将軍 宣下のお礼であるが、既に懐妊していた和子と天皇へのプレゼントと思えなくもない。こ の時は余程上機嫌であったのであろう。 

  秀忠からすれば、あとは男子を出産してくれればもう何も言うことはなかった。男の皇 子さえ生まれれば、それで徳川の血が皇室に入ったこととなる。これはいかに優れた戦国 武将どころか、歴代の征夷大将軍でもなしえなかったことである。 

  この閏八月に、秀忠・家光父子は相次いで江戸に帰還。そして一一月一九日には、和子 が秀忠待望の出産をする。しかし、生まれたのは姫であった。秀忠の落胆は、さぞかし大 きかったことであろう。姫は女一宮と称された。 

  和子が最初に産んだ皇子が姫であったため、たとえ女一宮が天皇になっても女帝は一代 限りなので、徳川家の血が皇室に入ることはない。これでは秀忠の、と言うより、徳川家 康が計画した朝廷掌握政策は頓挫してしまう。そうなると朝廷にあたると言うのが、秀忠 のパターンである。それは、天皇からすれば意表をついた攻撃であった。その攻撃こそが 有名な『紫衣事件』となる。 

 

2  紫衣事件 

  金地院崇伝という僧がいる。 

  崇伝は足利義輝の臣一色義定の次男として、永禄一二年(一五六九)に生まれた。天正 元年(一五七三)に南禅寺に入って僧となり、文禄三年(一五九四)二六歳の時、住職に なる資格を認められ(出世という)、福巌寺・禅興寺などの住職を経て、慶長十年(一六〇 五)二月、鎌倉五山の一つである建長寺の住職となり、翌三月には南禅寺の住職となった

。三七歳の若さで五山随一の寺である南禅寺の住職になったのであるから、尋常の才能の 持ち主ではないと言える。 

  室町時代以降、外国に送る文書の作成には禅宗五山の僧が用いられて来た。足利義政の 頃は相国寺の瑞渓周鳳。織田信長の時代にはいないが、豊臣秀吉の時には相国寺の西笑承 兌、家康の時にも承兌が用いられたが、慶長一二年(一六〇七)一二月二十七日に死んだ ので、翌年からこの崇伝が用いられることとなった。 

  はじめは本多正純の指示に従って書記をつとめたが、次第に重用され、慶長十八年(一 六二三)一二月二二日には、家康の命により、伴天連追放の文をで書き上げ、この頃から 外交面ばかりでなく、内政面でも実力を認められ、重要な存在となっていった。 

  この元和年間には対朝廷工作、対寺院工作に当たっていた。崇伝は同じく家康に用いら れていた天台宗の僧南光坊天海の『柔』に較べると『厳』であり、大坂の陣の発端となっ た『鐘銘事件』の中心人物であったことから、汚い策士であったことが判る⑺。 

『大慾山気根院僣上寺悪国師』 

  これが当時世上で称されていたあだ名であったことから考えると、その人気の無さが判

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る。その崇伝が寛永四年(一六二七)七月一九日に江戸城に招かれ、『上方諸宗出世法度覚 書』を受け取った。この『覚書』こそが、史上有名な『紫衣事件』の発端となったのであ る。 

  紫衣とは、鎌倉以後、天皇の勅許によって高位の僧侶に与えられた特別の袈裟のことを いう。特に大徳寺、妙心寺等の寺院では自由に住職を定め、この紫衣を頂戴するならわし があった。そこには、天皇と諸寺院の深い関係が窺える。 

  この天皇の権限に、最初に制限を加えたのは徳川家康である。それは、慶長一八年(一 六一三)六月一八日に発布された『公家衆法度』に付随した『勅許紫衣法度』と、元和元 年七月十七日の『禁中並公家諸法度』に現れている。従来天皇ひとりの権限であったもの を制限し、寺院を幕府の監督下に置こうとしたのである。今回の『覚書』は、この『禁中 並公家諸法度』を意識したものであった。 

  この秀忠と崇伝の所業を見て、後水尾天皇は激怒したであろうが、譲位をすることはで きなかった。前年の寛永三年(一六二六)一一月に、中宮和子が皇子を産んでいたためで ある。その皇子は高仁親王と名付けられた。秀忠からすれば、徳川の血が入った皇子がい る以上、何かと反抗的な後水尾天皇が退位するなら、その方が有難いのである。高仁親王 はまだ二歳、実質九か月であったが、徳川家が実権を握るつもりであるから、年齢の事な ど構わない。その考えの現れが、『上方諸宗出世法度覚書』であったように思える。 

  寛永四年(一六二七)一一月、伏見奉行小堀遠州政一が、仙洞御所造営の責任者に命じ られた。仙洞御所とは、譲位後の天皇が住む御所のことである。幕府の見え見えな魂胆で ある。強引にでも、後水尾天皇を譲位させ、高仁親王を天皇にしようというのだ。 

  しかしここで、秀忠にとって痛恨事が起こる。寛永五年(一六二八)六月、高仁親王が 病でこの世を去ったためである。親王、僅か三歳であった。 

  丁度この頃、大徳寺北派を率いる沢庵宗彭、玉室宗伯、江月宗玩の三人の高僧が、幕府 の『法度』の矛盾を挙げた抗弁書を提出していた。 

 

3  沢庵配流 

  確かに、幕府の紫衣に関する『法度』は矛盾だらけのものであった。例えば禅門の出世 について、 

『参禅の修行は、善知識に就き、三〇年、綿密の工夫に費やし、千七〇〇則の話頭(公案

)を了畢の上、諸老門を遍歴し』 

  とした上、衆望によって出世が求められ、一山の連署があった後、始めて出世入院が認 められるという項目がある。『禅機』『開眼』『悟達』といった不明確なものをしりぞけて、

専ら『三〇年の工夫』とか、『千七〇〇則の話頭』といった数字に頼った文章である。この 草稿を書いたのは崇伝であるから、崇伝の仏教観が甚だしく歪んだものであったことがわ かる。 

  更に言えば、そもそもこの数字自体が、禅家からすれば噴飯物以外の何物でもないので ある。沢庵の抗弁書によると千七〇〇という数字は、インド、中国の禅宗の諸師を記録し た『伝灯録』に載っている祖師の数が千七〇〇一人であり、一人一則として千七〇〇と言 ったに過ぎず、更に実際に言句を遺しているのは九百六十三人に過ぎない。 

  更に、禅の修行は公案を幾つ透過するかでその浅深が分別されるものではない。大徳寺

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開山大灯は百八〇則で開悟し、二代の徹翁義享は八十則で開悟している。 

  『三〇年の工夫』についても同じだ。一五、六歳で修行をはじめて師家に三〇年つけば 四五、六歳。出世までに更に五、六年かかるとすると、五〇歳を超える。それから三〇年 かけて弟子を育てることが出来るであろうか。大灯国師は五六歳で没している。 

  これでは一人の弟子も育てることは出来ず、仏法相続は絶え、禅家は滅びるほかはない であろう、と沢庵は言う。 

  このように、沢庵の抗弁はいずれもまっとうなものであり、崇伝の仏法理解の底の浅さ をしたたかにえぐるものであった。 

  しかし、秀忠にそんなことが判るはずもない。判っていても許すことはなかったであろ う。秀忠からすれば仏法より幕府の法度、権威の方が大切だからだ。そもそも、抗弁を許 さないのが法度である。一旦幕府が定めた法度に対して抗弁書を出すとは何事か、という わけだ。 

  明けて寛永六年(一六二九)二月、沢庵ら大徳寺の僧三人の江戸への召喚が決定した。

何らかの厳罰を処せられることは目に見えている。この事件を機に、後水尾天皇は譲位を 武器として使った。 

  当時、幕府には弱みがあった。前年高仁親王が逝去した時、中宮和子は懐妊中で、三か 月後の寛永五年(一六二八)九月二八日にまたも皇子が誕生した。だが、その皇子は一〇 日も経たぬ一〇月六日に急逝した。この頃、和子はまたしても懐妊中であったが、今度も また皇子が産まれるとは限らない。そのため、今現在和子の腹から産まれたのは依然とし て姫宮二人だけであったのである。 

  皇位を継ぐ皇子がいない以上、女一宮が天皇となることになる。奈良時代の称徳天皇以 来、約八六〇年ぶりの女帝復活ということになる。しかも女帝は一代でその血統が絶える ため、女一宮が和子の娘であっても、徳川の血が血統に入ることはない。 

  寛永六年(一六二八)五月、後水尾天皇は武家伝奏三条西実条と中院通村を江戸に下向 させ、女一宮への譲位を願い出た。秀忠からの返事は、「女帝はめでたき例多けれど、時期 尚早」とあった。時期尚早とは、懐妊中の和子に皇子が産まれた場合、その皇子が天皇に つかなければ、幕府の計画は破綻するという意味においての時期尚早である。明らかな引 き延ばし作戦であった。 

  同年七月二五日、沢庵たちに対する判決を出し、沢庵は出羽上山、玉室は陸奥棚倉に配 流。何故か江月ひとりが処罰されず許された。更に妙心寺の強硬派の僧東源は陸奥弘前に

、単伝も出羽由利に流された。 

 

4  後水尾天皇譲位 

  沢庵らの配流は、確かに後水尾天皇にとって大きな衝撃を与えたであろう。しかし衝撃 は朝廷だけではなく、すぐに幕府も受けることとなった。寛永六年(一六二九)八月二七 日に待望の中宮和子の出産があったのだが、生まれたのは皇女だったのである。 

  そうなると、ここで天皇に譲位されては、徳川の血を皇室に残すことは不可能となる。

しかしこの時、後水尾天皇は腫物に悩んでいた。この病には灸による治療が必要なため、

やむなく譲位するというのだ。灸と天皇の譲位に何の関係があるのか、と思われるかもし れぬが、古来天皇は、玉体を傷つける灸をすえることが許されなかった。その治療を受け

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