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戊辰戦争突入 戊辰戦争突入 戊辰戦争突入  戊辰戦争突入

ドキュメント内 『律令法』 (ページ 176-188)

第三章 第三章

第三章       戊辰戦争突入 戊辰戦争突入 戊辰戦争突入  戊辰戦争突入     

1  最後の藩主義尭       

  最後の秋田久保田藩主義尭は、内政面では養蚕業を奨励し、秋田黄八丈の生産に努め、

外政面では武芸に力を入れ、西洋砲術所の雷風塾を設け、藩士に稽古を命じるなど活発な 藩主であった。秋田と江戸、京都を往復し、幕末に対処する久保田藩の方策にあたったが、

あいつぐ火災や不作により、慶応三年王政復古令が下された時、久保田藩の財政赤字は二

〇万両に達し、この厳しい状況のなか、来るべき年の戊辰戦争を迎えなければならなかっ たのである。 

        2  戊辰戦争開戦 

  慶応三年一〇月一四日、一五代将軍徳川慶喜の大政奉還によって、家康以来二六五年に 渡って続いた徳川政権はここに崩壊し、建久三年源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、六七 五年に及ぶ武家政治に終止符が打たれた。同年一二月九日には、王政復古の令が発令され、

明治の新政府が樹立されたのである。 

  これにより、本当であれば、徳川氏、薩長、そして、全国の諸藩は団結して日本の新た な国家を造らなければならないのであるが、明けて慶応四年一月三日には新政府軍と旧幕 府軍の血で血を洗う戦いが鳥羽伏見ではじまってしまったのである。新政府軍は「五箇条 の御誓文」(*22)を発布し、旧幕府軍を賊軍としているが、御誓文の趣旨を考え、検討 してみるとこれに離反しているのは薩長の新政府軍であり、戊辰戦争はいわば朝命に名を 借りて、旧幕府軍に仕返ししているようなものなのではないかと考えてならない。その要 因として、その一、具体的な大義名分が無いという事、その二、新政府側世良修三の密書 に「奥羽皆敵」とあり、話し合いを設ける気など毛頭うかがえないという事などが挙げら れる。この密書により、私怨のみで突き進む新政府軍の状態がわかるため、私はこの戦争 に対し納得できないものがある。       

        3  秋田久保田藩の動向       

        和暦      主な出来事      (歴史群像シリーズ「会津戦争」より)       

第四部  迷える近現代

      慶応四    四月六日  奥羽鎮撫総督、庄内藩討伐を命ず。 

      五月二日  白石会議で白石盟約書に調印する。       

      五月九日  鎮撫副総督沢為量、久保田に来る。       

      七月一日  鎮撫総督九条道孝、盛岡を経て秋田に入る。       

      七月三日  藩の去就を決すべく会議を開くが、勤王派と旧守派が対        立して結論出ず。       

      七月四日  義尭、藩論の対立を退け、自ら勤王の決意を固める。   

      奥羽越列藩同盟を脱退する。       

      同日夕    秋田藩壮士、久保田に在宿していた仙台藩士を襲い、六        人を斬殺、五人を捕らえた後、斬に処す。       

      奥羽戦争に突入              八月六日  本荘城陥落、焼失する。       

      八月一一日  横手城陥落。       

      八月二二日  大館城陥落。 

明治元    九月一〇日  南部軍が降伏する。       

      九月二二日  会津藩降伏。       

      九月二七日  庄内藩降伏。       

          秋田久保田藩の戊辰戦争は、庄内藩討伐を命じられたことから始まっている訳であるが、

久保田藩は庄内藩の罪状を把握していなかった。久保田藩家臣川井小六忠諒は庄内藩の罪 状を確認するため維新軍に対し質問状を出している。すると、総督府参謀大山格之助綱良 は「故ナキ嫌疑ヲ以テ諸藩邸ヘ砲撃致シ焼掃イ候二由ル者ナリ」(*23)と答えている。

諸藩邸への砲撃とは、三田薩摩邸の焼き討ち事件を表しているのだが、この事件は、関東 でのゲリラ運動の犯人相良総三や益満休之助らを薩摩藩がかくまっていたので、仕方なく 砲撃した次第であり、庄内藩に罪はないのである。ここでも明らかなのが維新軍の会津、

庄内藩に対する恨みであり、それに秋田久保田藩は巻き込まれているように見えてならな い。(この時秋田久保田藩は結局庄内藩を攻撃していない。) 

  奥羽越列藩同盟のいきさつは会津藩救済が大目標であった。仙台藩と米沢藩が中心とな り、会津の維新軍に対しての謝罪を助けることが当初の狙い(*23)であったが、維新軍 は私怨にかられ、「会津二於イテは実二死ヲ以テ謝スルノ外コレナク」と断固として会津の 謝罪を受けようとせず、奥羽の国々は「薩長私怨の横暴」を許さず、といった考え方に変化 し、更に世良修三下参謀の「奥羽皆敵」の密書を得て、ついに奥羽二五藩と越後六藩によ り同盟が成立した訳である。この時の会議に久保田藩代表として参加していたのは戸村十 太夫義效であった。義效は同盟を結ぶと即刻藩主に飛脚を飛ばし、薩長軍の入国は拒否す るように伝えていた。奥羽諸藩は鎮撫使に対し反感を抱いていたので、自藩へ入れると同 盟諸藩と対立する事になるからである。 

  しかし、佐竹氏は既に沢副総督や九条総督を自藩へと入国させていたのである。これに より、他藩からは不信の目でみられるようになり、仙台藩は白石同盟の即時実行と、薩長 兵の藩外追放、総督の引渡しを要求する為使者を秋田に派遣した。このことから解る事は、

藩主義尭と代表義效の意思疎通がなっていなかったということである。義尭はなぜ、どち

第四部  迷える近現代

らにつくかはっきりしていなかったのに白石会議に代表を立てたのか私には理解し難いし、

代表が勝手に一国の条約締結を行なっていいものなのだろうかという疑問も沸き起こって くる。普通に考えても代表に一任する場合は藩主がかなり幼いという理由や藩主の信頼を 相当得ているかという事、藩主が病であるなどが考えられるが、今回のケースはどれも当 てはまらない。つまりは藩主義尭の優柔不断さが主原因ではないかと推測する。後に義尭 は維新軍側についた際に同盟調印は自らの意思ではなく、義效の意思であったと説明して いて、義效を生涯蟄居の命に処している。しかし、昭和三三年二千数点にのぼる戸村文書 が公開され、同盟加入は義尭の意思であったという記述が発見され、義效の名誉は回復した と「横手の歴史」(東洋書院)に記されている。横手とは現在の秋田県横手市で戸村氏の居 城横手城があった町であり、私の出身地でもある。この地は奥羽戦争の際激戦地となり、

横手城の付近には戊辰戦争の戦死者の墓が数多くある。 

  結局義尭は仙台藩の使者を斬首し、維新軍側についたわけだが私は義尭のこの行動に怒 りを感じてならない。「秋田の維新史」を執筆した吉田昭治氏も仙台藩使殺戮は秋田の維新 史最大の汚点であると述べている。なぜ、このような行動をとってまで列藩同盟を脱退し 維新軍側についたのか。秋田市佐竹史料館協議会委員の伊藤武美氏は自らの著書「天徳寺 の歴史と佐竹氏」に中で、平田国学(*24)の影響と佐竹義睦夫人・悦子の叔父土佐藩 主山内容堂(*25)との関連などが作用していると述べているが、はっきりとした理由 が残っていないのが、現状である。私はやはり大左遷した徳川氏に対する感情も少しは含 まれていたという事、また、仏教を厚く信仰する家系であるが故に「朝敵」という汚名を きて戦う事が出来なかった事が関係しているのではないかと推測する。 

奥羽戦争に突入するや否や仙台藩使殺戮に激怒した仙台、盛岡、庄内藩は怒涛の如く秋田 領内になだれ込み次々と秋田久保田軍を撃退していった。戦争が始まって一ヶ月後には藩

地の三分の二が戦場と化し、形勢は極めて不利な状況となっていた。(年表参照)       

    横手城陥落の様子            「列藩軍三面ヨリ一時二打込ミ・・・・庄内陣中ヨリ発シタル破裂丸城楼 

      二的中シテ火起リ、黒烟渦キ・・・」(仙台戊辰史)       

      大館城陥落の様子            「・・・・・・・敵穴門ヨリ逃去候ニ付、大館城乗取候事」       

      (南部利恭家記)       

          秋田久保田藩は南と北の要所を同盟軍に落とされ、かなり不利な状態であったが、京都 から海路送られた八千の援軍と、最新式洋銃により、戦局は一変し、同盟軍を領外へと追 い出す事に成功した。そして、九月二二日会津藩が降伏、二七日には、庄内藩が降伏し、

東北の戊辰戦争は幕を閉じたのである。 

    秋田の損害       

    戊辰火焼失届・・雄勝郡  三百八十五軒、平鹿郡  八百十八軒、       

    仙北郡  千百四十六軒、山本郡・河辺郡  二百六十九軒 

    秋田郡  二千六十六軒  計四千六百八十四軒            これに土蔵、木屋、寺院、駅場、役所、宮社などを加えると五千を越す家屋が焼失る。 

    出兵人員及死傷者調・・出兵総数  八千六百九十八人       

第四部  迷える近現代

      戦死者  三百二十九人        傷者  三百十六人 

  この中には非戦闘員は含まれておらず、もし含まれていたのであれば、この数字の倍に    なるだろうと考えられている。   

      「秋田県史」史料明治編          これほどの大きな犠牲を払っているので、秋田久保田藩は新政府の論功行賞を期待した

が、義尭に章典禄二万石を与えられただけで、惨めな結果に終わった訳である。この戦い を通して一体秋田は何を得たのだろうか。私には何も得るものの無い戦いとしか映らなか った。序文の段階での無益な戦争を終わらせた功労藩であるといった自らの秋田久保田藩 に対する考えは脆くも崩れ去ったのである。また、この戦いで佐竹氏は守らなければなら ないはずの民衆を多く巻き込んでいる。ぬめひろし氏の「秋田農民夜話」(*26)にはそ の悲劇が多く綴られていて、この戦いの激しさ、空しさを物語っている。 

       

4  その他の藩の動向       

  亀田藩  藩主  岩城隆邦          岩城氏は当初より、勤王の意思を明確にし行動していて、大山格之助の命に従い庄内藩

領内に出陣している。その後奥羽越列藩同盟に参加するも、久保田藩の同盟離脱に従い、

本荘藩と同一行動をとる。 

  しかし、庄内藩の攻撃を受け、一八六八年九月二一日降伏。藩主岩城氏は庄内に送られ、

再度同盟軍側についた。これにより、戦争終了後二千石が減封された。 

  本荘藩  藩主  六郷政鑑 

  文久元年一四歳で藩主になった政鑑は、久保田藩と共に行動した。はじめは庄内討征に 加わり、後に列藩同盟に加わるが、久保田藩が脱退すると、同じく脱退している。そして、

庄内藩に攻撃され、八月六日藩主はしろに火を放ち、久保田に向かった。その後久保田領

内を転戦し、九月二十九日本荘を奪回。戦後一万石を加増された。       

  この史実から理解できる事として、小さな藩はやはり大藩の意向を伺いながら行動しな ければならない辛さがあるという事であり、藩主は常にその動向に目を配り藩を導いてい かなければならない困難な役職であったように思う。東北にはこの時代数多くの小さな藩 があったわけだが、同様に厳しい藩運営を強いられていたのではないかと感ずる。   

 

あとがき あとがき あとがき あとがき      

1  戊辰戦争後のあゆみ        西暦      年号      事項       

        1869      明治二    義尭、版籍を奉還し、藩制となる。 

        1870      明治三    義尭、知藩事に任ぜられる。       

      秋田藩、藩政を改革する。       

        1871      明治四    義尭、郡県制施行への意思を表示する。       

      秋田県となり、旧佐賀藩士島義勇、初代県令とな        る。       

        1872      明治五    旧久保田城に秋田県庁開庁。       

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