第一章 米穀法成立以前の米価調節論――1910 年代の議論を中心として
第二節 米価調節調査会における議論
2 諮問特別委員会の案をめぐる議論
本研究の関心は、米価調節論の背後にあった経済発展のビジョン及び農業に対する認識 にあるため、恒久方策の審議に関わる諮問事項特別委員会における議論を中心に取り上げ て考察を進めたい。諮問事項特別委員会は、主に米価調節の恒久策を審議している。その 委員構成は下記の通りである。
75 例えば、川東(1990)によると、1930年代の日本米穀株式会社案をめぐる議論の中、米穀取引所側は 正米市場を廃止し自ら取り込むプラン(=日本米穀株式会社案)を主張するのに対し、正米業者は、実物 配給は実物業者が行っていることに配慮すべきだと主張し、米穀取引所のプランを批判した(川東、1990、
247−265頁を参照)。
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表1.2.1 諮問特別委員会委員名簿
氏名 肩書き等 備考
神野勝之助
古在由直 農学博士 帝国農会評議員 藤田四朗※
浜口雄幸※
渡邊修※
渋沢栄一 男爵
横井時敬※ 農学博士 東京農業大学学長、帝国農会評議員 岡田良平※
水町架裟六 法学博士 大蔵省理財局長 志村源太郎※
桑田熊蔵※ 法学博士 帝国農会評議員
矢作栄蔵※ 法学博士 東京帝国大学農科大学教授、帝国農会評議員
瀧口吉良 衆議院議員
斎藤宇一郎 帝国農会評議員
中野武営 東京商業会議所会頭
鈴木馬左也 住友の三代目総理事
和田豊治※ 富士紡績株式会社取締役
武市利美 中村貞助
上原豊吉 渋沢商店支配人
山田斂 帝国農会評議員
注:米価調節調査会、1916c、1-2頁より作成。※付は小委員会委員。
表1.2.1に示したように、一般財界、金融、学識経験者、帝国農会、地方農業団体などの
関係者が委員として特別委員会委員に選出されている。これらの委員はそれぞれの立場を 有することは言うまでもないが、特定の立場から選出されたというより、むしろ当時の日 本経済に影響力を持つ人物や、米穀政策の実施の際に協力が必要とされる金融、当業者な どから選出されたのではないかと推測できる。本稿では、各委員の背景を念頭に置きなが らも、その出自に拘らず、どのような議論を展開していたのかを重点に置き、考察する。
諮問事項特別委員会は1916年7月21日より五日間開会し、7月27日に、下記の八案を 決議した76。
一 低利資金ヲ融通スル事 二 関税制度ニ改正ヲ加フル事 三 米ノ輸出ヲ奨励スル事 四 農業倉庫ノ設置ヲ奨励スル事 五 正米市場ヲ整備スル事 六 田租納期ノ繰下ヲ為ス事
76 米価調節調査会、1916b、8-13頁。
57 七 米ノ加工及利用方法ノ研究ヲ為ス事 建議案
朝鮮及臺灣ニ於テハ目今内地ニ於ケル米ノ需給状況ヲ参酌シ先ツ朝鮮臺灣ニ於ケル米ノ 外国輸出ニ付奨励ヲ加ヘ且米以外ノ農作物(例之棉甘蔗等)ニシテ内地ノ風土ニ適順セス却 テ朝鮮臺灣ニ適応セル産業ニ対シ特別ノ保護奨励ヲ加フル等内地ト朝鮮臺灣トノ農業経済ノ 調和ヲ計ラレン事ヲ望ム
以上の建議案を含む八案は、小委員会の七案に若干の修正を加えた上で、さらに新しく 建議案を加えたものである。この案で最終的に採用されたのは、農業倉庫に関する建議で あり、1917年に農業倉庫法が成立する。1918年米騒動が発生し、そのインパクト及び米穀 の需給状況によって、米過剰を前提とした米輸出の奨励や米加工利用方法の研究は、1920 年代以降の米穀調節論からは消えていった。また田租納期の繰下も財政上の理由からこの 時期に一時的に表れたに過ぎない。以下では、小委員会の意見、及び1920、30年代にも大 きな議論の焦点となる植民地米・外国米の関税問題、農業倉庫建設問題、1930年代配給機 関統制の議論と関わる正米市場整備をめぐる議論を検討していきたい。
(1)小委員会の意見
まず、小委員会は和田豊治77、矢作栄蔵、桑田熊蔵、岡田良平78、横井時敬、渡辺修79、 浜口雄幸80、藤田四郎、志村源太郎81によって構成された。和田と渡辺は財界に影響力を持
77 和田豊治、1861年大分県生まれ。1884年慶応義塾を卒業後、渡米。1891年に帰国後、日本郵船、三井 銀行を経て、1901年経営不振の富士紡績の専務取締役に就任。その後富士紡績の経営再建によって、有能 なる実業家として他企業の経営・創設への関与にも活躍し、「実業界の大立物」となった。(松村敏、阿部 武司(1993)を参照)
78 岡田良平、1872年静岡県農事改良家岡田良一郎の長男として生まれる。貴族院議員。静岡県内に数棟の 農業倉庫を持っていた。1915年米価調節調査会委員に任命された。1930年に産業組合中央会会頭に就任 し、1931年米穀委員会委員、1932年に米穀統制委員会の委員に任命された。(松浦鎮次郎、1935、221-225 頁、252-265頁)
79 渡邊修、1859年愛媛県生まれ。1881年慶応義塾を卒業。1902年衆議院議員選挙で愛媛県より当選し、
その後合わせて八回当選した。政友会に所属。また同年実業界に入り、大阪電燈常務取締役、松山電気軌 道社会、大阪電球社長などに就任し、大阪を中心に電球事業及び取引所の発展に多く貢献し、「関西財界の 一異彩」と評価されている。(実業之世界社編、1936、645-647頁)
80 浜口雄幸、 1870年高知県生まれ。1895年東京帝国大学大学政治学科を卒業後、大蔵省に入省。専売局 長官(1907年)、大隈内閣の大蔵次官(1914年)を経験し、1915年第12回総選挙で高知から当選。その 後、大蔵大臣、内務大臣を経験し、1929年内閣総理大臣。1931年死去。(川田稔、2007、浜口雄幸略年譜 より)
81 志村源太郎、1867年山梨県生まれ。1902年日本勧業銀行副総裁。1905年東京商業会議所特別議員とな り、1911年日本勧業銀行総裁に任命された。一方、1909年産業組合中央会監事、10年帝国農会特別議員、
14年産業組合中央会副会頭、15年代日本米穀会会頭となり、22年産業組合中央会会頭に就任。米穀調節 調査会委員と同時に、帝国農会特別議員、産業組合中央会副会頭、東京商業会議所特別議員、大日本米穀 会会頭、日本勧業銀行総裁を務めた。(志村源太郎刊行会編、2000、年譜より)
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つ人物である。藤田は農商務省出身の官僚であり、農商務省を退職後も財界で活躍した人 物である。横井、桑田はすでに農業団体のリーダーであり、矢作、岡田、志村は当時も農 業団体と深い関係を持ち、のちに農業団体のリーダーとなる人物である。浜口雄幸は周知 のとおり、のちに内閣総理大臣となり、1929年に成立した米穀調査会時には大臣であった。
このような人的なつながりもあるメンバーからなる小委員会がどのような考えの下で案を まとめたのかを考察することによって、当時の社会状況下で、政策に取り入れられる可能 性のある米価調節論を明らかにしてみたい。
特別委員会では、志村源太郎が小委員会を代表し、小委員会の意見を陳述した。まず、
植民地米、外国米及び関税問題について、志村は下記のように述べていた。
日本ノ国ノ大策マ マ 、日本ノ国ノ全体ノ農業其ノ他ノ事ハ始終念頭ニ有ツテ居ラナケレバナラヌト存 ジマスルノデ、米ノ価額ノ調節ニハ有効ナル事項トハ存ジテ居リマシタ(中略)今日デハ朝鮮ヘ 日本ノ農業ニ従事スル人ハ大中小農ヲ問ハズ朝鮮ニ於テ耕作ヲスルト云フ事柄ハ最モ急務ト 感ズルノデアリマス、是ハ内地ノ農業ヲ維持スル上ニ於キマシテ洵ニ必要デアル、朝鮮ノ農業 ヲ発達シ、日本ノ領土ニ属シマシタ朝鮮ヲ発達スル上ニ於テ最モ必要ト考ヘルノデアリマス、斯 ノ如キ大ナル必要ガアリマスル上ハ、単純ニ米ノ値段ヲ騰ゲ下ゲヲスル為ニ必要デアルト云フコ トノタメニ朝鮮米ニ税ヲ掛ケルト云フ事柄ハ不得策デアル、(中略)詰リ朝鮮米ニ対シテハ何等手 ヲ著ケナイ、其ノ代リ外国米ノ整理関税制度ノ適用ハ成ルベク朝鮮ニモ至急ニ行ツテ貰ヒタイ82
志村は、「内地の農業を維持する」ことを強調し、朝鮮への農業植民が必要という考えを 述べていた。そのため、移入税免除による朝鮮農業の促進が必要であり、朝鮮米に制限を かけることは望ましくない、代わりに輸出入関税の整理が必要であるというロジックであ る。
さらに、低利資金の融通について、次のように述べている。
(政府参考案ハ:引用者)低利ノ資金ヲ得ル、資金ノ供給ヲ得ルト同時ニ特別ナル義務ヲ負担 サセテ居リマスノデゴザイマス、併シ本案(小委員会案:引用者)ニハサウ云フコトハゴザイマセヌ ノデアリマス、ソコ等ガマアチヨツト眼ニ着キマシタ著シイ違ヒカト思ヒマス83
其ノ低利資金ノ融通モ矢張リ其ノ趣意ヲ主モニ取リマシテ、成ルベク此ノ米ノ生産ニ與ル最モ生
82 米価調節調査会、1916c、21-22頁。
83 米価調節調査会、1916c、28頁。
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産ノ首脳トナツテ居ル所ノ中産農業者ノ便宜ヲ図ルト云フ趣意ニ出デヽ居ルノデアリマス84
この部分からうかがえるように、小委員会による低利資金案は生産者への救済に重点が 置かれたのである。志村は低利資金案の趣旨はあくまでも「中産農業者ノ便宜ヲ図ル」と いう点にあると強調した。一方、農業倉庫の利用については、次のようなビジョンを描い た。
此ノ農業倉庫ノ設立ノ結果米ノ共同販売ノ途ガ開カレ農業者ガ個々別々デ売リマスト商人ニ 比較的廉ク買収マ ラレルマ ノヲ、共同販売ノ途ヲ依ツテ農業者ノ利益ヲ増シ、市場モ此ノ地方ニハ 是ダケノ米ガ倉庫ニ集ツテ居ルト云フコトヲ段々見マスニ付テ自カラ全国ニ於ケル米ノ供給高 ヲ測ルコトガ出来ルヤウニナリ、ソレカラ又此ノ倉庫ニ於キマシテモ単ニ共同販売ヲスルノミナ ラズ、場合ニ依リマシテハ能ク米ノ当業者ノ言ハレル平均売ト云フヤウナコトヲ図ルコトニ自ラナ リハシマスマイカ85
ここで、志村も米の共同販売に言及したが、その目的は農業者利益の増加という点にあ った。ただ、共同販売に伴い、平均売りになれば、米価調節の目的も達成できるというこ とである。
また、志村の立場について川東(1990)は「帝国農会などのたんに狭い国内の地主的利 害の立場でなく、植民地農業・植民地地主の利害をも含めた「日本ノ国ノ全体ノ農業」を 広く深く考えた米価調節プラン」86と位置づけている。しかし、上記の志村の一連の説明か らうかがえるように、この案は、あくまでも内地農業の維持、中産農業者の利益増進とい う点に重点が置かれているのである。志村の議論と帝国農会の議論とは、内地農業の利益 という点で根本的に一致しており、川東が指摘した植民地農業及び植民地地主の利害に対 する考慮があるとしても、それが最優先ではないことに留意したい。この時期の植民地米 対策に関する見方は異なっているが、志村と帝国農会の立脚点(内地農業問題解決への関 心)は一致しているのではないか。帝国農会も低利資金や農業倉庫案を建議しており、た だし、手段としては、帝国農会は植民地米移入の制限を主張している一方、志村の議論は 朝鮮農業の促進によって内地農業を維持することを強調しているのである。
84 米価調節調査会、1916c、30-31頁。
85 米価調節調査会、1916c、51-52頁。
86 川東、1990、54-55頁。