第一章 米穀法成立以前の米価調節論――1910 年代の議論を中心として
第一節 農業側の議論
2 米価下落時の議論
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取りつつ、農民の利益を擁護しようという機関である。従って、『帝国農会報』の内容もこ ういう趣旨に規定されて、「当時における高級な理論誌または論叢誌的性格」14をもち、農 政、経済に関わる論説的な記事が多かった。
以下では、その機関誌『帝国農会報』を通じて、1910年代に米穀問題の解決に向かって、
農学関係の学識経験者や地主など、農業側に立っている人たちがどのような提言をし、米 価政策に対しどのような議論を構築していくのかを検討していきたい。
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図1.1.1の通り、1913年に米価は下落気味ながらも、20円台を保っていたが、1914年
になると、20 円を割り、一気に下落した。その打撃をうけ、地主層は県農会等を通じて、
帝国農会に対応策をとるように働きかけていた16。これに応じて、従来、農業技術普及事業 を中心に活動してきた帝国農会は米価問題を取り上げ始めたのである。この時期の議論は、
主に米価の下落という前提の下で行われたのである。
1914 年、前述のように帝国農会は 10月の通常総会で政府に対し「米価調節に関する建 議」を提出した。その原案は14名17の地方議員によって同年10月の帝国農会の通常総会に 提出された。この地方議員とは各地方の農会関係者で、道府県農会から帝国農会議員に選 出されたものである。しかし、原案の中では米価調節の必要性が強調されているものの、
具体的な措置は提示されていなかった。
そして原案代表者による説明の中で、「商工業者は総て米価の廉いことを望みます」18と いう矢作栄蔵19の見解に対し「吾々が地方に居つて一見します所に依ると斯くの如く低落に 過ぎたる米価では却て地方の町家は困難を感ずる有様であります」と述べ、さらに具体案 の要請については「或は朝鮮米に関税を課けると云ふことは今日等しく帝国の臣民である 以上は出来ぬと致しました所で、(中略)種々な方法もございませうが、(中略)当局者に 於て斯様にしたら宜からうと云ふご考案を廻されたいと思ふ」20と述べるにとどまり、具体 案については触れていない。要するに、米価の調節が必要であると地方議員は痛感してい るが、この原案段階では具体的な解決案までにはまだ踏み込んでいなかった。帝国農会が 提出した成案の中に織り込まれている具体的な解決策(表1.1.2を参照)は、この通常総会 での議論の中で加えられ、決定されたものである。1914年の通常総会の議事録をみると、
米価調節が必要であるという点で、意見が一致しているものの、具体案については矢作と 原案代表者との間で認識の差があるように、やや温度差があると感じられる。
それでは、この時期にはどのような米価が望まれていたのか。通常総会の前に、「建議」
16 帝国農会副会長・矢作栄蔵は「米価調節に就きて」の中で、「米価調節を建議した一番始めは帝国農会 でありまして、夫れから喧しくなつて来たのであります。併し其因を申せば、地主が餘り米価が安くてい かぬから損がいかない丈価格を保たせて戴きたいと云ふ事を、帝国農会の議員を通じ、或は県農会を通じ て御要求がありましたので、帝国農会の問題になつたのであります」と帝国農会の米価調節に乗り出す理 由を説明している(『帝国農会報』6巻9号、 1-2頁)。
17 提出者は三重・天春文衛、愛知・堀尾茂助、福井・山田斂、島根・千石興太郎、北海道・伊藤広幾、山 形・湯野川忠世、静岡・鈴木辰次郎、石川・西村正則、長崎・中倉万次郎、愛媛・曽我部右吉、大分・麻 生観八、鹿児島・池田正義、高知・和田和、秋田・斉藤宇一郎である。(帝国農会、1914、94頁)
18 帝国農会、1914、99頁、矢作栄蔵の発言。
19 矢作栄蔵、東京帝国大学農科大学教授(1907年)。1910年産業組合中央会の顧問となり、帝国農会の創 立と同時に特別議員になった。ついで産業組合中央会の監事、理事に選任され、帝国農会の副会長、会長
(1926年)に就任した。31年帝国農会名誉会長、1933年評議員となった。(協同組合事典編集委員会、1986、
1004頁)
20 帝国農会、1914、99-101頁。
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原案の提出者の一人である福井県出身の議員山田斂21は『帝国農会報』に「米価の暴落と農 家の経済状態」22を執筆し、例として「近傍なる冨有と称せらる某村」についての調査結果
(表1.1.1)を用いて、地主、自作農、小作農に分けて、それぞれの収支状況を分析し、次
のように述べている。
地主自作農小作農の三者何れも現時の米価にては其生計を維持し難し其内に就き稍痛苦の 軽きものは地主にして即ち地主は石価 17 円以上なるに於ては収支相平均することを得るも自 作農、小作農の二者に至りては石価 18 円以上ならざれば其生計を維持し難きこと明らかな事 実なりとす。(数字の表記を漢字からアラビア数字に改めた、以下、『帝国農会報』記事の引用 部分は同様、引用者)
この議論をみると、農家を収支均衡させるために必要とされる米価が提示されているが、
それは必ずしも生産費という観点によるものではない。とはいえ、ここからは、当時米価 調節建議原案の提出者のイメージした「適当」な米価がうかがえる。ここで、この時期の 農商務局の米の生産費に対する調査結果を見ることにする。ほぼ同時期に農商務省は大阪 府、兵庫県、埼玉県、愛知県、新潟県、岡山県、熊本県、青森県、島根県の9府県の27町 村に対して自作農、小作農、地主に分けて、米一石当りの生産費調査を実施した23。地方に よって、生産費は異なっているが、自作農は15.39円〜11.27円、小作農は26.58円〜8.93 円、地主は16.70 円〜5.33 円という幅がある。これを山田の調査結果と照らし合せてみる と、山田が主張した 18 円以上の米価は農商務省の調査による平均生産費よりもやや高い。
また、表 1.1.1 の収支状況に示されているように、支出の部分に生活費用も含まれている。
要するに、山田の主張する米価は生産費を償える米価というより、農家の経営および生活 維持を可能にする米価である。つまり、この山田の論説からうかがえるように、農会側、
少なくとも当時米価調節を主張した原案の提出者は、農家の生活費をカバーし得る米価を 念頭に要請していたと考えられる。しかし、「適当」な米価については帝国農会の第五回総 会でははっきりとは示されていないままで、「米価調節ニ関スル建議」が行われた。
その後、後述のように、1918年前後の米価騰貴の時期には、米価は決して暴騰していな いと主張するために、山田は生産費という概念を用いて、米価の維持を主張するようにな
21 山田斂、1865年、福井県の大地主の家に生まれた。1910年帝国農会の創立後、評議員、副会長を経て、
1939年に会長に就任。その間、1918年に貴族院議員となった。1941年に没。(協同組合事典編集委員会、
1986、1005頁)
22 『帝国農会報』4巻6号、16-20頁。
23 農商務省(1915)を参照。
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る。さらに 1921 年米穀法が成立し、22 年に帝国農会によって本格的な生産費調査が始ま った。この流れの中で、農会側も米価について、完全に生産費の枠組みの中で議論を組み 立てていき、生産と生活一体化した農家経営という概念が生産費の主張の中に織り込まれ ていくのである。
表1.1.1 「某村」の地主、自作農、小作農の収支状況
地主 自作農 小作農
収入
(15円/石 の計算)
小作米132石 売価金1980円
米39石1斗 売価金586円50銭 副業収入25円 計:611円50銭
米38石1斗8升 差引米21石4斗6升 売価金321円90銭 副業収入金25円 同稼賃 金30円 計376円90銭 支出 一、公保(ママ)
金763円50銭 内訳
地租 県税 府税 所得税 用水費 協議費 二、生活費 金1490円 内訳 食料 住宅費 被服費 交際費 医療費 教育費 寄付金 雑費
合計 2253円50銭
一、公課 101円20銭 内訳
地租 県税 村税 所得税 用水費 協議費 二、耕作費
18円50銭 肥料と種子 農具類 飼料 三、生活費 金 451円
内訳 食料 被服費 住宅費 交際費 教育費 医療費 寄付金
合計 733円70銭
一、公課 金6円50銭 内訳 県税 村税 協議費 二、耕作費
166円72銭5厘 内訳
肥料と種子 借入利子 農具類 三、生活費 金273円50銭 内訳
食料 被服費 住宅費 交際費 教育費 寄付金
合計446円72銭5厘 収支差引 -283円50銭 -122円20銭 -62円82銭5厘 注 田10町歩 畑5町歩を
所有
田1町5反歩 畑5反歩 を所有し、其全部を自作 する者
田1町5反歩畑4反歩 を小作し、自分は何等 所有地なき者
注:山田斂「米価の暴落と農家の経済状態」(『帝国農会報』4巻6号、16-20頁)より作成。
前述したように、この時期、米価低落により農村経済はかなり打撃を受けていたため、
上記(1914年)の米価調節案が農会から政府に提出された。しかし、具体的にこうすべき だという議論は農会においてはまだ未熟であったといえるだろう。どの程度の米価が「適 当」であるかについても、まだはっきりとは示されていなかったのである。この時期の『帝