第二章 米穀法時代の米価調節論
第一節 米穀法の改正及びその運用をめぐる議論
1 米穀法運用への批判――第一次改正をめぐる議論
(1)系統農会側の批判および動向
米穀委員会は農商務大臣の監督に属し、関係各省庁の高等官及び学識経験者より構成さ れ、米穀法施行に関する重要事項を調査審議する機関である4。
第一回米穀委員会(1921年5月23日)における政府の原案では、300 万石を買い上げ 予定とし、第一回の買上を約100万石、買入時期を6月10日より約50日とした。それに 対して、帝国農会副会長・矢作栄蔵は次のように質問をしている。
米穀法の運用は生産者と消費者の利益を公平に保護せむとするに在り、三百万石の過剰米あ るに之を適当の時期たる今日に於て買入を為さざれば生産者を保護せるものとならざるや5。 農会側に於ては米穀法は米穀数量の調節と生産者消費者の公平なる保護とを目的とするを 以て余剰米三百万石は全部買上けらるることと期待せるに百万石位を買入て模様によりては
4 荷見、1957、3頁。
5 荷見、1957、11頁。
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沙汰止となる等のことあらは政府の保護は消費者のみに厚しとて農民は不平を鳴すべし6。
以上は政府の買上姿勢に対する疑問であった。つまり、300万石を買い上げる予定である ならば、米価の低い時期(6月中)に全部買い上げるのが生産者保護になるという主張であ った。なお、これらは矢作の帝国農会副会長としての立場からの発言だといってよい。要 するに、米穀法の実施に当たって、政府の生産者保護への姿勢を疑ったものであった。
一方、第一回米穀委員会の開催前の4月29-30日に、道府県農会長及同役職員協議会が 開かれた。そこで、農商務大臣宛に「米穀法実施ニ関スル建議」が出された。
さらに、7 月 19-20 日の道府県農会代表者協議会では、「政府米買上ニ関スル建議」が 行われ、「米価ヲ適当ニ維持シテ農民ノ利益ヲ保護スルハ食糧ノ増殖ヲ奨励シ其供給ヲ潤沢 ナラシムル所以ニシテ、抑々亦米価ノ暴騰ヲ未然ニ防止シ国民ノ生活ヲ安定セシムベキ根 本方策ナリ」としたうえで、米穀法に基づく第一回の買上の実施は「価格調節ニ対シ殆ン ド何等ノ効果ナカリシ」として、次のような具体的な要望が述べられた7。
一 買上価格低廉ニ失シタルコト イ 生産費ヲ毫モ考慮セラレザリシコト
ロ 買上応募ニ要スル経費ノ見積額少額ニ失シ或ハ之ヲ脱漏シタルコト ハ 証券ノ利子加算額ハ政府発表ノ割引歩合ヨリ少額ナリシコト
ニ 買上場所以外ノ市場ニ供給サルヽ産米ノ価格ノ決定甚シク不利ナリシコト ヘ、ト (略)
二 買上手続キノ煩瑣ニシテ且買上応募者ニ対シテ不便不利ナリシコト(略)
三 買上場所ノ尠カリシコト
四 買上米質標準ノ苛酷ニ失シ且格付価格不公平ナリシコト
これに加え、附帯決議として農商務大臣に面接陳情、米穀委員に建議を通知することな どが掲げられた。以上からうかがえるように、この時期、米穀法の第一回の実施に当たっ て、農会側はすでに不信と不満を抱えており、具体的な買上数量を示したほか、買上価格 から手続きなど細かい点までを建議し、買上による価格の調節を図ろうとしていた。言い 換えれば、意図的な市場操作により生産者農民の市場における不利益を払拭しようとして いた。ここで、興味深いのはその要望の根拠とされたところである。
6 荷見、1957、12頁。
7 帝国農会史稿編纂会、1972b、996-998頁。
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上述のように系統農会側は米価維持を求める理由としては食糧の「供給ヲ潤沢ナラシム ル」、「米価の暴騰」の防止、「国民生活の安定」などをあげていた。このようなフレーズは 系統農会側のさまざまの建議案中に書かれているため、形式的で枕詞的なものと受け止め られがちだが、系統農会側も「国民生活の安定」のために、食糧増産策が必要であると認 識し、食糧増産策に乗じる姿勢を示していた。
この時期の食糧増産策の意図は、1918年に農務局の構想した「食糧自給三十年計画」か らうかがえる。この計画では、国内生産の増加が需要の増加に追いつかないと予測され、
内地における耕地拡張、耕地改良、農事改良の三つの項目以外に、朝鮮、台湾の余剰米麦 の移入も考えられていた8。つまり、内地の生産のみでは食糧の供給を賄うことができない という認識が政府にあった。その背景には1918年の米騒動による影響があっただろう。米 穀法もこのような認識のもとで、量の過不足を調節しようとするものであった9。ただ、1920 年代半ば以前、食糧増産は農業政策に属し農務局が管轄する一方、米価政策は商工政策の 一環として商務局の管轄にあり、米価問題をめぐる両者の間には対立があった。食糧増産 策と米価政策の実施主体が一致したのは、1925年4月の農林省の新設以降であった10。
系統農会側は、増産策の枠組の中で、供給過剰による米価の下落、農家経営の破綻のリ スクを政府に負わせようとしたのである。一方、前述した「米穀法実施ニ関スル建議」の 中で、「外米ノ輸入ヲ速ニ制限セラレタキコト」と建議し、輸入に反対している。ただし、
この「米穀法実施に関する建議」では植民地米問題については取り上げられていない。そ の理由は不明であるが、食糧増産政策に乗じた上で、植民地米の制限を取り上げにくいの ではないかと推測できる。なお、大豆生田(1993)では主に政府内部の議論から農林省の 成立について考察を加えているが,前述の系統農会側の一連の動きからみれば,農林省の 設立は農会側の要望でもあった。系統農会のこれらの動向からもうかがえるように、米穀 法は実施当初から米価維持策としての機能に問題が存在していたのである。
(2)第一次改正をめぐる議論
系統農会側の建議答申が行われていたと同時に、その中核機関・帝国農会の幹事らを含 む農業団体リーダーの米穀法に対する批判も早い段階から現れていた。農業団体リーダー の議論は、その団体の動向にも影響を与えるため、次に『帝国農会報』の検討を通じ、農 業団体リーダーの批判を確認してみよう。1922年11月号の『帝国農会報』に帝国農会幹
8 農林大臣官房総務課、1957、748-750頁。
9 大豆生田、1993、184-189頁。
10 大豆生田、1993、209-231頁(第四勝第三節「農林省の成立と米価維持」を参照。
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事・岡田温11は「米穀法の根本疑義」、そして、同1923年3月号に「再び米穀法を論ず」
を発表した。その中で、岡田は次のように述べていた。
政府当局の弁明並に法文に示されたる機能につき研究すればする程、根本性質が農業施策 を脅威する生産者圧迫政策である様に思われてならない。何となれば、所謂「食糧の需給の円 滑を図り国民の生活の安定を期す」、といふことは、消費者の生活の安定を期する、といふこと で、生産者を犠牲にする、消費者本位の制度である12。
(米穀法が、引用者)最初社会政策といふ看板で生れた法律なれば、生産者の苦情などは構 はず、法の規定通りに行へば、今少しく徹底するかも知れぬが、歴史が歴史であるから、そふも ならず現在の如く時価に準拠.....
を解釈しては、之れを理論的に詮じ詰むれば、買ふ事も売る事も 出来ない様にも考へられる、故に生産者側から視ても、消費者側から考へても、結局は法律の 改正が必要である13。(傍点、原文。下線、引用者、以下同様。)
以上の文章からうかがえるように、1922年時点で米穀法の根本は「消費者本位」の政策 であるという批判はすでに出現していた。同時に、政府のいう国民生活の安定についても、
消費者生活の安定のみに主眼が置かれているという批判があった。言い換えれば、農業者 の生活安定が考慮されていないということである。岡田は「食糧の需要供給の円滑を図り 国民生活の安定を期す」という政策の方針を前提としたうえで、米穀法を批判し、米穀政 策について生産者側に有利に議論を展開しようとしていた。岡田の論説から、米穀法の運 用過程において、政府が米価維持(一定水準以上の維持という意味)には消極的であって、
食糧の供給安定(植民地産米の移入に繋がる意味で)に主眼を置いていたことを農会側は 見通し、食糧供給安定の政策方針を承認しつつ、内地生産者の利益、特に農業者の生活安 定を重視するような法律改正を求める図式になっていたことがわかる。その根本には、下 線の部分で読み取れるように、「農業施策を脅威する」ことへの危惧があった。
ほかに表2.1.1にあるように、『帝国農会報』では、15巻5号に米穀法改正についての「時
11 岡田温は1921年帝国農会幹事に就任した。就任後、米生産費調査、小作制度調査、農業経営調査など に取り組み、米穀調査会幹事(1929年)、農村経済更正中央委員会幹事(1932年)米穀生産費調査委員会 委員(1934年)を務めた。一方、1924年衆議院選挙に出馬し当選した。1936年帝国農会幹事を退職後、
帝国農会特別議員に就任した。(川東、2010、357-367頁)
12 『帝国農会報』12巻11号、31頁。
13 『帝国農会法』13巻3号、18頁。