第一章 米穀法成立以前の米価調節論――1910 年代の議論を中心として
第一節 農業側の議論
1 帝国農会の組織構成と『帝国農会報』
この項では、帝国農会という組織とその機関誌である『帝国農会報』の特徴を概観し、
帝国農会がなぜ1910年代に農政運動に乗り出したかを確認する。そして本研究で『帝国農 会報』を主要な資料として用いる理由を説明しておきたい。
帝国農会は、東京府農会や神奈川県農会および埼玉県農会の働きかけによって、1910年 11月14日に創立された。さらに、同16日に第一回総会が開かれ、農商務大臣の許可を得 て、法人団体として組織された。このようにして、帝国農会を中心として、各道府県農会、
郡農会、市農会、町村農会から成る系統農会の組織が完成した。帝国農会を頂点とする系 統農会は、1899年農会法の成立によって組織された。設立初期、農事改良、農業技術の普 及の技術機関としての性格が強かった。第一次大戦以降、農事指導が「試験場と結ぶ技術 員のもとへ直接耕作者が組織され、かつ国家的、一元的に統制されるものへと編成替え」4さ
4 玉、1995、90頁。
25
れていく。なお、1922年の農会法改正によって、系統農会の組織は販売斡旋事業と経営改 善事業を中心に「事業団体としての性格を強めながら発展していく」5。先行研究で論じら れているように、系統農会は事業団体としての性格と農政運動団体としての性格を持って いる6。1920年代以降、系統農会は「農村諸問題の解決母体としての役割が求められる」7よ うになった。なお、1930年代の農山漁村経済更生運動の中、系統農会は、農政運動におい ては主体性を失っていくのである8。戦前期、系統農会は農事指導事業と農政運動の二つの 方向から様々な活動を行っていき、農村社会に深く浸透していたのである。本研究では、
先行研究で論じられてきた系統農会のこのような変化を念頭に置き、主にその中枢機関で ある帝国農会の動き及び系統農会のリーダーたちの議論に注目していきたい。
帝国農会の創立当初、その主要な建議は農事奨励や調査事業に関わるものだった。1910 年代に入り、日本国内の食糧問題が本格化し、対外依存的な食糧政策が展開された9。一方、
米価の変動が激しくなり、重要な現金収入源の一つとしての米の価格変動が地主を始め、
耕作農民の関心を集めた。このような背景の下で、多くの地主や自作農・自小作農会員を 抱え込んでいる系統農会において、まず下級農会から米価調節要請の声が上がっていった。
そして、帝国農会の機関誌『帝国農会報』でも、農業経済学者の石坂橘樹の次のような言 説が掲載されている10。
帝国農会は農会法による国庫補助金と下級農会の負担とによりて成立するものなるを以て、目 下の如き農界危機の際に於ては最も其活動を遂げざるべからず、活動とは農業及農民をして 其危急より之を解説せしむること也、言ふまでもなく農会は此活動に従事しつつあるべし、然れ ども若し此活動にして其効積( マ マ )を挙げざるに於ては、帝国農会の存在は或は疑はざるを得ざるべ し、これ或は奇嬌の言なるべしと雖も、吾人衷心より斯く之を云ふ、勿論帝国農会の存在は之 れがために失はるヽにあらざるも農民との利害共通は益々遠ざからんとするをいふ也。
これは端的に下級農会である府県農会が帝国農会に働きかけ、動かす存在であることを
5 玉、1995、101頁。
6 農政運動の側面に関しては、松田(2012)の研究を、事業団体の側面に関しては、玉(1995)を参照。
7 松田、2012、51頁。
8 ただし、事業団体として組織的に発展していったということがすでに指摘されている(玉、1995、補章 1)通りである。
9 大豆生田、1993、第二章を参照。
10 石坂橘樹「農界の実力(米価調節問題解決に関して)」(『帝国農会報』5巻1号、12-13頁)
26
論じたものである。つまり、下級農会の役職員が上級農会の議員になることを通じ11、下級 農会の意見を考慮せざるを得ない組織構成こそが帝国農会が米価調節に乗り出す一つの理 由であろう。
1914年、米価下落により打撃をうけた地主層は系統農会に働きかけ、米価調節を政府に 要請しようとしていた。そして、帝国農会もそういう情勢に応じて、農政運動に乗り出し 始めたのである。1914年の帝国農会第五回通常総会において、政府に対し「米価調節ニ関 スル建議」をはじめ、農政に関わる建議を行っていった。その後も米価調節については、
時折政府に建議を提出してはいるが、それ以外の実質的な活動は見当たらない。しかし、
1920年の米価の暴落で、道府県農会から米投売り防止運動の呼びかけが行われたことによ り、帝国農会もこれに乗りだしたのである。それまで帝国農会内部においては、農会の在 り方について農事奨励事業に止まるべきだという意見もあったが、米投げ売り防止運動に 乗り出したことによって、「これまでの体質を一挙に改善し、公然と農政運動を展開する社 会的地位をしめることができた」12。その後、帝国農会は農事技術の普及、農業経営調査や 米生産費調査、土地問題や農産物価格問題に関わる農政運動などの活動を行っていく。ま た、戦間期では、第二次世界大戦中の1943年に産業組合中央会などの団体とともに一元化 され、中央農業会に統合された。
この帝国農会の機関誌として、『帝国農会報』(月刊、菊版)は1911年に創刊された。1923 年8月から1925年12月は月二回(四六倍版)刊行されたが、基本的には月一回の発行で ある。その発刊について、帝国農会の初代会長である加納久宜は次のように述べている13。
本報発刊の目的は、帝国農会が、農事の改良発達を計らんが為め、諸般の研究調査を行ひ、
各級の農会を指導奨励すると同時に、各地における農事奨励及其の成績を紹介し、農政又は 経済に於ては、行政庁との連鎖となりて、官民意思の疎通を図り、又農業方面に来る外部の脅 威に対しては、極力正当防衛の道を講じ、また広く外国の実例に徴し、農技農術を発達せしむ べき資料を供し、直接に、間接に農(ママ、事) の向上発展を促し…(後略)
以上の引用文は系統農会組織における帝国農会の位置づけ及び『帝国農会報』の性格を 端的に説明している。加納の文章からうかがえるように、帝国農会は、行政官庁と連携を
11 1899(明治32)年の「農会法」の第三条に「郡農会は其の区域内の町村農会を以て之を組織し北海道
農会又は府県農会は其の区域内の郡農会及市農会を以て之を組織す」と定められている(農業発達史調査 会編、1978、376頁)。
12 帝国農会史稿編纂会、1972a、223頁。
13 加納久宜「発刊の辞」(『帝国農会報』1巻1号、1-2頁)
27
取りつつ、農民の利益を擁護しようという機関である。従って、『帝国農会報』の内容もこ ういう趣旨に規定されて、「当時における高級な理論誌または論叢誌的性格」14をもち、農 政、経済に関わる論説的な記事が多かった。
以下では、その機関誌『帝国農会報』を通じて、1910年代に米穀問題の解決に向かって、
農学関係の学識経験者や地主など、農業側に立っている人たちがどのような提言をし、米 価政策に対しどのような議論を構築していくのかを検討していきたい。