第二章 米穀法時代の米価調節論
第一節 米穀法の改正及びその運用をめぐる議論
2 米穀商団体における米穀法運用に関する議論
(1)米穀運用調査会のメンバ―構成
米穀法運用調査会(以下、調査会)は1928年4月岡山市で開催された第二十一回大日本
20 『帝国農会報』15巻5号、15-17頁。
21 二つの意見はあくまでも議論の重点の違いであり、政策だけ、又は農民だけに頼るべきという二者択一 的な議論ではない。
22 大豆生田、1993、242-243頁。
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米穀会23の決議により、12月に設立された。会頭・志村源太郎によって、表2.1.2の委員が 嘱託された。
表2.1.2 米穀運用調査員会委員一覧
注:大日本米穀会、1930、「米穀法運用調査委員会委員」1頁より作成。
表2.1.2からうかがえるように、委員は、主に学識経験者と米穀商(米穀商組合、米穀取
引所の関係者)から構成され、ほかに、産業組合及び農会関係者も入っている。小委員会
23 1907年4月に東京廻米問屋組合=深川米穀問屋の組合の主導によって設立され、「米穀商人を中心に生
産者、米の生産改良若くは運輸・保管・金融等米穀の生産から配給に至る関係者は悉く之を網羅」(社団法 人日本食糧協会、1958、1頁)した全国的団体である。その目的は「普く米、雑穀の生産、取引、運輸、
保管、金融に関する事項を講究し以て斯業の改善発達を期する」(佐々木、1937、240頁、大日本米穀会会 則第2条より)ことである。当時の日本勧業銀行総裁・志村源太郎が会頭に推戴された。1930 年8月志 村死去後、10月に大蔵大臣経験者の阪谷芳朗が会頭に推戴され、同時に副会頭を置くことで、渡邉銕藏が 副会頭に委嘱された。1935年まで「内地、朝鮮、台湾を通じて支部三十、会員八千余名」(佐々木、1937、
238頁)に達した。
委員 肩書き 備考
志村源太郎 大日本米穀会会頭 委員長
伊藤悌藏 小委員会委員
橋本伝左衛門 京都帝国大学教授 農学博士 河田嗣朗 大阪商科大学長 法学博士 那須皓 東京帝国大学教授 農学博士
内池廉吉 東京商科大学教授 法学博士 小委員会委員 安藤広太郎 帝国農会副会長 農学博士 小委員会委員 佐藤寛次 東京帝国大学教授 農学博士
気賀勘重 慶応大学教授 法学博士
鹽澤昌貞 早稲田大学教授 法学博士 小委員会委員長 土方成美 東京帝国大学教授 経済学博士
千石興太郎 産業組合中央会主事 小委員会委員 岩木六兵衛 大阪殻物商同業組合組長
林市藏 大阪堂島米穀取引所理事長
加賀卯之吉 小委員会委員
瀧川儀作 神戸取引所理事長 曽野作太郎 京都取引所理事長 永野護 東京米穀商品取引所理事 麥生富朗 広島県農会幹事
梅原保 大日本米穀会専任幹事
上田彌兵衛 大日本米穀会 幹事 小委員会委員 矢川茂平治 神田米穀市場組合幹事長
安川彦夫 大阪堂島米穀取引所理事 小委員会委員 布施国治 新潟県農会副会長
文箭郡次郎 大阪堂島米穀取引所取引員組合委員長 近寅一郎 新潟県米商組合聯合会長
後藤安太郎 名古屋米穀取引所理事長
有松尚龍 東京米穀商品取引所取引員組合委員長
木村徳兵衛 東京廻米問屋組合総行事 小委員会委員 三浦大五郎 東京米穀商品取引所理事長
山中篤太郎 幹事
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は会頭の志村より指名され、四名の「当業者」(千石、上田、安川、木村)と五名の「学者 先生方」(鹽澤、内池、安藤、伊藤、加賀)から構成されている24。安藤広太郎25は農事試験 場長等を歴任し、この時期には東京帝国大学の教授であるが、委員名簿に「帝国農会副会 長」と明記されたように、帝国農会と深い関係を持っており、単なる「学者」とは言えな い。この委員会のメンバー構成の経緯は不明であるが、志村は大日本米穀会会頭であると ともに、前述の通り、産業組合中央会会頭でもあり、農会とのつながりも持っていた人物 である。この人脈から考えてみると、会頭の志村が委員会の構成に大きな影響力を持って いたと考えられる。
そして、1928年12月8日から1929年4月2日にわたって6回の会合(小委員会を除 き)に、調査会委員の要請より、米穀政策と大きく関わった農林省農務局関係者及び米穀 商の取引活動に関わった商工省商工局取引課関係者も出席した26。大日本米穀会がこの調査 会を通じ、米穀政策を政府に働きかけようとする姿勢がうかがえる。その米穀政策への働 きかけの意思は、「学者及当業者の意見発表と、相互の論議討究の間に於て、米穀政策研究 上参考に資すべき事項決して尠なからざり」27という志村の言葉からでもうかがえる。要す るに、メンバー構成からみれば、調査会は米穀商側が主導したもので、学識経験者及び系 統農会、産業組合側などの関係者も包括し、政府の米穀政策に働きかけようとする調査会 である。
米穀法運用調査会には言及している研究としては川東(1990)がある。同書では、米穀 法の撤廃をめぐる米穀商人と学識経験者の対立がクローズアップされ、米穀法撤廃を主張 している米穀商人に対し、学識経験者が撤廃すべきではないと反論したという図式で捉え られている28。以下では、川東(1990)の研究を踏まえた上で、上記の委員(米穀商人と学 識経験者など)の議論を詳しく考察しているが、米穀商人と学識経験者とは川東(1990)
で論じられているような単線的な二項対立という関係ではないことをあらかじめ指摘して おきたい。
24 大日本米穀会、1930、昭和4年2月27日議事録の51頁、志村の発言による。
25 安藤広太郎、1871年兵庫県生まれ。1896年帝国大學農科大學農学科卒業後、農事試験場技師などを経 て、1920年に農事試験場長に就任した。その傍ら、1921—26年、九州帝大教授、1923-32年東京帝大教授、
1925-41年茶業試験場長、園芸試験場長などを兼任した。なお、1926年帝国農会副会頭、1934年米穀局
顧問などに就任した。(秦郁彦編、2002、35頁、戸苅(1985)を参照)
26 農林省方面は、農務局米穀課長・小平権一、農林事務官農産課勤務・野田清武、農林技師米穀課勤務・
渡邊五六などが出席した。商工省方面は、商務局取引課長・藤田国之助、商務局取引課取引所監督官・島 剛などが出席した。
27 大日本米穀会、1930、「序」の2頁。
28 川東、1990、158-160頁。
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(2)当業者の意見
議事録を確認してみると、米穀業者の意見は纏まったものではないが、政府の米穀法運 用が商売に不安をもたらすという漠然とした発言が多かった。ここで、東西取引市場の委 員、及び米穀商組合代表の委員の発言を取り上げて、当業者の意見を考察してみたい。そ の代表的な一人は、大日本米穀会幹事で、東京米穀商品取引所常務理事の上田彌兵衛であ る。上田は次のような意見を述べている29。
商人が自分が影響を行はんとする時の気分に対して非常な圧迫を受ける、其圧迫が米の分 配々給の上に非常に変態的影響を及ぼす虞れがあるのであります。(中略)茲に於て集散市場 に於ける需給の関係が非常に乱れて来るのであります、是れが吾々商人の甚だ不安に思ひま す(中略)此商人が分配々給の任務に與つて居るといふ若し是れがなければ米価といふものは どういふ変動を来すか、又需給の上に如何なる影響を及ぼすかも知れないのである、さうしてそ れは一家を立てる生計を得んとして居る矢張国民一員であります、(中略)国家の一員として 吾々当業者は存在して居る、而も分配々給の上に重大なる任務を持つて居る、斯ういふことを 無視されるといふことは甚だ私共と致しまして遺憾に思つて居ります
上田は商売遂行の不安を強調し、米穀法の運用によって商人が政府に軽視されることを 訴えている。委員会で上田が繰り返し強調したのは、米穀商人が「分配々給の任務」を担 っていること、及び米穀法の運用により「国民一員」であり、「国家の一員」である米穀商 人の生計に影響を与えることである。上田のこの発言は米穀法の存続を前提としたもので はなく、廃止すべきだという見解による主張である。
米穀法廃止の意見の多くは米穀商人によることはすでに川東(1990)の研究で指摘され ている。一方、数量調節に限定すべきだという意見もある。次に、もう一人米穀業者、新 潟県米商組合聯合会長・近寅一郎の議論を検討してみたい。近は次のような見解を示した。
抑々今日資本主義経済組織の下に於きまして人為的に物価の調節を為さんとするが如きは、
経済自然の原則に反する極めて不合理なる行き方であると考へるのであります、社会政策上に 於て是が実行力を必要とするものであらうと考へるのであります、故に国家の如き予算に限りあ る如き者が、到底能く之を理想的に実行することが出来るかどうかと云ふことを言ふのみであり ます、(中略)現在国家の蒙つて居る所の損害は言ふ迄もなく、将来に甚だ危険である、誠に憂
29 大日本米穀会、1930、昭和3年12月10日議事録の31-33頁。