相澤 好治(北里大学医学部衛生学公衆衛生学、日本衛生学会幹事長)
平成15年度から百年の歴史を持つ日本衛生学会の事務局を担当して以来、本学会を活性 化するための方策を考え、幹事会で議論し、会員勧誘のパンフレットなどを作成しながら、
衛生学や衛生学会の存在意義を考えざるをえなくなった。学会自体は同じ学問的興味を持つ 人達の集合体であるから、時代の変遷とともに栄枯盛衰があるのは当然であると考えていた が、このような立場になると、衛生学が発展し社会に強く認識され、学会が盛り上がって欲 しいと考えざるを得ない。本文の課題は衛生学についてであるが、衛生学会のあり方につい ても併せて論ずることとする。
衛生学は、人の生活や社会を取り巻く様々な環境の要因と健康のかかわりを自然科学的お よび社会科学的な理念と技術を用いて解明し、病気の予防と健康の向上につなげるため体系 づけられた知識と活動であると現幹事会では定義している。日本衛生学会は、環境保健と予 防医学に関する基礎的・学際的研究を推進し、情報交換と情報の発信を行う場である。した がって極めて広い範囲の分野を学際的な方法で取り組むところに特徴があるといえる。
内科学が医学の進歩により循環器内科学、消化器内科など臓器別に専門分科してきている ように衛生学の分野も細分化、専門化してきている。微生物学、寄生虫学、疫学、精神衛生 学、環境衛生学、産業衛生学などはその例である。一方、予防医学は総合的、学際的学問な ので細分化するより総合的に研究すべきであるという議論もある。疫学を専門とするので、
中毒学は知らないという予防医学者は、病気を予防できるかといった疑問である。衛生学す べての分野を知り尽くすことは不可能であるが、専門分野に入る前に全般的な知識を得る訓 練を受けておくことは必要である。そのためには、諸外国のように公衆衛生大学院での教育 体制が整備されることが望ましい。また学会参加時に専門以外の領域における最新知識も吸 収することも必要であろう。そのために学会は生涯研修制度を設けて、研究面での議論や情 報交換だけでなく、研修目的のプログラムを組むべきであると思われる。
内科学が疾患の病態解明だけでなく、患者の医療を目指すと同様、衛生学も学問的な探求 だけでなく社会的活動を目的とするので、その手段として工学、衛生工学、薬理学など多分 野の総合的学問体系とすべきである。障害のある臓器は治療できても体全体を診られない専 門化した内科医のアイチテーゼとして総合診療科学の必要性も説かれている現状と相似的で ある。臓器を診ながらも体全体を包括的に把握する力、疫学的手法を駆使しながらも中毒学 など他分野にも通暁する力が、予防医学の専門職が求められていると思われる。
衛生学から専門分化した学問体系と現衛生学との役割を考察してみよう。専門分化は、「場」
と「手段」を基盤とすることが多い。解剖学、生理学、分子生物学、生化学、病理学などは 夫々の特有な手法を持って学問体系を構築してきた。ところが分子生物学的手法の発展によ り、顕微鏡を使わない病理学者が出現したなど揶揄されるように、手法の共有化により学問 体系の基盤にも変化が見られている。また医学生の臨床実習を実務的に行うクリニカルクラ ークシップ開始前に基礎的医学知識を体系づけたコアカリでは、解剖学、生理学、生化学、
衛生学、公衆衛生学の名称は消失した。医学教育の面でも地殻変動が見られているのである。
医療の社会的要求の増加や教育の合理化などにより、基礎医学の新たな体系化、臓器別カテ ゴリーが進んでいるのである。
一方臨床医学は、内科、外科というように診療手法により初期には分科したが、近代医学 は身体の部位、臓器別に分科してきている。前述したように内科学が循環器内科、消化器内 科などのように臓器別に分科しているのは、その方が診療を行う上で合理的であり、技術の 高度化に伴いすべての臓器にわたって医療を行うことが不可能になったからであろう。しか し人口の高齢化により多臓器障害を持つ人が増加している現状では、各部門の専門医のみに よる診療は、必ずしも理想的な形態でなくなって来ている。
衛生学は、もともと微生物学、生理学、生化学、病理学、疫学、統計学など各学問分野で 開発された手段や概念を利用して病気を予防するという目的から出発している。患者個人よ り集団として把握することが多いので、疫学的手法を用いることが多いが、分子生物や生化 学、薬学的な手法をとる研究者も見られる。微生物学、疫学などは衛生学から専門分化した と理解されているが、「場」により専門分化する傾向も見られる。すなわち職域として産業衛 生学、学校として学校保健学、地域環境として環境衛生学などである。また社会のニーズに より精神保健学、ストレス学、健康教育学、健康増進学、環境科学などの分野も専門分化し ている。これらの学問分野は、いずれも疾病の予防・健康増進を目的とするという共通点を 持っている。
衛生学はこれらを包括するもので、多種類の特定されないフィールドを持つので応用学と しての実践的活動は、他の予防医学学問分野と比べると少ないと思われる。逆に予防医学の 基盤的な研究は盛んであり、これを行うことが衛生学に課せられた主な任務であると言える。
予防医学の新しい概念、手法、解析法、対策を開発し、他の予防医学分野で利用するように 伝達することが衛生学の存在理由であると考えられる。
環境問題は「場」を越えて重要性を増している。室内環境、地域の公害問題、地球環境規 模での人為的な環境変化が、人の生活や健康に大きな影響を与えつつある。古典的中毒学で は理解できない微量化学物質曝露による内分泌撹乱作用や、シックハウス症候群などは、「場」
や「方法」で専門化された分野のみでは解明できず、多分野の参加をえて学際的研究手法で 取り組む必要のあると思われる。環境と人の共存は人類の将来にかかわる重要な問題である が、その対策には衛生学だけでなく、社会、経済、政治、工学など多分野の知識と知恵が必 要である。衛生学は人・環境関係を専門とするので、各課題に共通して必要な専門領域であ るから、多分野を統合するコンダクターの役割を担うには適任である。
分化した予防医学の統合と調和を目指しつつ、先端的手法を開発、発信することにより社 会貢献することが、衛生学に課せられた使命であり将来展望であると思われる。
② 21 世紀の医学・医療における公衆衛生学の重要性
吉村 健清(福岡県保健環境研究所、日本疫学会理事長)
日本国憲法第 25 条に「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有す る。国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努 めなければならない。」と定められている。すなわち生存権と、国の生存権保障義務である。
日本は戦後の混乱期の中から、国、保健所ならびに大学の公衆衛生関係者の総力をあげて、
国民病といわれた結核対策、寄生虫病対策、人口問題に取り組んだ。さらに急激な産業復興 によって生じた環境問題による公害病では、国民、国、企業とも大きな代償を払ったが、そ の経験をバネに公害基本法が制定され、環境改善と健康被害防止がはかられた。それらの努 力によって、日本は世界一の平均寿命を達成するに至った。
この事実は一見、公衆衛生の輝かしい勝利に見えたものの、その場その場の社会的課題に 対応するのが精一杯で、将来の課題に対応する準備をおこたってきたのではないか。憲法が いう生存権の保障義務の一つとして、私共は公衆衛生の向上及び増進に努めたと言えるであ ろうか。
臨床では、目の前の患者が苦しんでいれば、原因が何であれ、まずその苦痛をとることが 最優先される。そして、臨床家や患者の次の疑問はこの病気は何で、それは治療できるかが 重大な課題であり、臨床家はここに全精力を注ぎ、また患者の最大の関心事もここにある。
しかし、さらに進むならば、臨床家は次の疑問を呈するであろう。すなわち、なぜこのよう な病気になったのか、このような苦しい病気、また生活に支障をきたす、さらには死に至る 病気になることを予防することはできなかったのかと。
公衆衛生でも、健康に関わる重大な問題、例えばインフルエンザの大流行、AIDS 患者の増 加があれば、まず、患者対策が求められる。しかし、社会的な救済支援は別として、患者の 医療は臨床分野の仕事である。公衆衛生が最も重要な点は、このような健康問題を社会の中 で減少させ、また予防するための知識を集積し、社会で応用、実践していくことである。
これまで、臨床は一人一人の患者を対象に、公衆衛生は集団を対象に、また、臨床は治療 を、公衆衛生は予防をというように医学教育の中で対立概念的に理解されているが、国民の 保健、医療という点から考えれば、目的は国民の健康を衛るという点で全く同じである。た だ異なる点は、公衆衛生では国民がもつ限られた保健医療資源をどのように配分すればより 多くの国民の健康を守れるかを考えることにある。このため、従来、起こった問題に対する ために投入していた保健医療資源を、予防面に投入していく方向に転換しつつあるのは「健 康日本 21」の動きを見ても明らかであろう。
さて、21 世紀には何が課題となりうるであろうか。現在私共の健康を脅かす可能性がある 課題としては、社会の少子高齢化、生活習慣病、メンタルヘルス、NBC テロ、新興再興感染 症、地球環境問題などであろう。これらの課題は、予測できるものと予測できないものに大 別できる。予測できるものの代表は、少子高齢化と言った人口問題である。少子高齢化はす でに 1970 年頃から人口問題審議会などで将来の人口問題の課題として警告が発せられてい